マレーシアはマレー半島とカリマンタン島(ボルネオ島)北部からなる国である。国土面積は約33万平方kmであり、日本列島から九州・沖縄を除いた程度の広さである。人口は2347万人であり、人口密度84人/平方kmは周辺の東南アジア諸国と比べると少ない。熱帯性気候で一年中高温であり、国土の大部分は熱帯雨林で覆われている。
民族は先住のマレー系が約60%、イギリス植民地時代の移民である中国系約30%、インド系約8%で構成され、「多民族国家」として有名である。多民族であることは社会の不安定さの要因となるが、マレーシアが選んだ道は民族による区分をなくすことではなく、区分を維持してお互いに干渉しないことであった。この考え方が現在も人々の間に残っており、今も政治経済制度に区分が残っている。
東南アジア島嶼部では13世紀末から緩やかにイスラム化が進み、16世紀にはイスラムとマレー文化、マレー語を共有する港市国家群が分立している状態となっていた。ここにヨーロッパ勢力が最初に進出したのは16世紀始めのポルトガルによるマラッカ占領である。相次いでオランダ、イギリスが進出し、香辛料貿易を巡って激しい勢力争いが繰り広げられた。イギリスは勢力争いに敗れ、17世紀に一旦東南アジアから撤退してインドの植民地経営に専念するが、インド中国間の中継拠点を求めて18世紀後半から再進出した。勢力を徐々に拡大させたイギリスは文政7年(1824年)にオランダと英蘭条約を締結し、以降シンガポールとマレー半島をイギリスの勢力圏として確定させた。
19世紀初期に香辛料の価格が暴落すると、イギリスはマレー半島で錫鉱山やゴムのプランテーションの開発を進めた。当時のマレー半島は人口希薄地帯であり、錫鉱山の労働者として中国系移民が、プランテーションの労働者としてインド系移民が多く流入した。大東亜戦争勃発までイギリスの植民地支配は続いた。
昭和16年(1941年)、対英米開戦が不可避となってくると、日本はイギリスの一大根拠地であるシンガポールの攻略を企図した。しかし、シンガポールは要塞化が進められており、海上からの直接上陸は不可能と考えられた。そこで日本軍はマレー半島から陸路での進攻を計画したが、上陸に適した場所はシンガポールから1100kmも離れていた。マレー半島は大部分がジャングルに覆われており、大部隊が進軍できるのは半島の東部と西部に伸びている幹線道路に限られた。イギリス側としては、幹線道路にかかる大小いくつもの橋を破壊しながら退却して時間を稼ぎ、本国からの救援を待つ戦略であった。
昭和16年(1941年)12月8日未明、大東亜戦争開戦と同時に英領マレーとタイ領の境界付近に日本軍部隊が上陸し、「マレー作戦」が開始された。進撃速度を上げるため、戦車を中心とする機械化部隊が編成され、歩兵は自転車に乗り銀輪部隊と呼ばれた。また、橋梁を迅速に修復するため、独立工兵連隊が投入された。日本軍は各地で連戦連勝を重ねた結果、わずか55日でマレー半島先端のジョホールバルに到達した。日本軍はジョホール水道を渡り、シンガポール島での一週間の戦闘のあと、昭和17年(1942年)2月15日に英軍を降伏に追い込んだ。
開戦当初、日本軍はビルマ方面でも優勢で、昭和17年(1942年)にはビルマ全域を占領し、さらにインド北東部を狙った。しかし昭和19年(1944年)のインパール作戦の失敗を境に連合軍の反攻は本格化し、ビルマに進攻する連合軍に日本軍は総崩れとなった。英軍は引き続きマレーの奪還作戦の準備を進めたが、作戦が実施される前に終戦を迎えた。
終戦後、本国へ撤収する日本軍の代わって再び英軍が進駐し、マレーシアは再びイギリスの支配下に置かれた。しかし、マレーシア人の間では民族意識が高まっており、独立を強く求める気運が盛り上がっていた。一方、イギリスもマレーシアの永続的な植民地支配は困難と考えており、1948年にイギリスの保護下という形で「マラヤ連邦」を成立させた。
昭和30年(1955年)、独立達成を公約とした連合党は総選挙において52議席中51議席を獲得する大勝利を収めた。翌年、国民の圧倒的な支持を得た連合党はロンドンにムルデカ(独立)使節団を送り、ついにイギリスに完全な独立を認めさせた。
1963年にはシンガポール、イギリス保護国北ボルネオ、イギリス領サラワクがマラヤ連邦と統合し、マレーシアが成立した。しかしマレー人優遇政策を取ろうとするマレーシア中央政府と中華系住民の多いシンガポールの軋轢が激化し、1965年にシンガポールがマレーシアから分離独立して現在の体制となった。なお、マレーシアは現在もイギリス連邦の一員である。