航空母艦「天城(あまぎ)」

「天城」について

航空母艦「天城(あまぎ)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の正規航空母艦(空母)である。

「天城」は、昭和17年(1942年)9月に策定された改⑤計画の第5001号艦として計画され、雲龍型航空母艦の二番艦であった。昭和17年(1942年)10月1日、長崎県の三菱重工長崎造船所で起工され、昭和18年(1943年)10月15日に進水、昭和19年(1944年)8月10日に竣工した。

昭和16年(1941年)11月、日本海軍は、近い将来に予想されるアメリカとの戦争に備え、昭和十六年度戦時建造計画(○急計画)を策定した。この中で、中型航空母艦1隻(後の「雲龍」)が計画されていが、昭和17年(1942年)と昭和18年(1943年)に竣工予定の正規空母は1隻も無かった。そして、同年12月8日に大東亜戦争が開戦し、半年後の昭和17年(1942年)6月、ミッドウェー海戦に於いて、日本海軍は主力正規空母4隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)を喪失、これを補う為の空母の増産が急務となった。
そこで、昭和16年(1941年)に策定された第五次海軍軍備充実計画(⑤計画)を、昭和17年(1942年)9月に改⑤計画として改定、新たに雲龍型空母15隻の建造を計画した。雲龍型空母は量産性の高い戦時急増型空母で、比較的建造しやすく性能的にも充分であった中型空母「飛龍」を原型とし、小改良が加えられていた。また、量産性を高める為に構造の一部が簡略化されていた。
この、空母大増産計画の手始めが一番艦「雲龍」と二番艦「天城」であった。何れもミッドウェー海戦から2ヶ月後の昭和17年(1942年)8月には起工にこぎつけ、起工から竣工まで約2年という、当時の日本の国力を考えると驚異的な速さであった。尚、「天城」は、搭載予定の機関の調達が困難になった為、改鈴谷型重巡の機関を搭載した。また、三番艦「葛城」もやや遅れて起工、約1年10ヶ月後に竣工した。

併しながら、「天城」が竣工した昭和19年(1944年)8月時点では、日米機動部隊最後の決戦となったマリアナ沖海戦は既に終わっており、この海戦で日本海軍機動部隊は事実上壊滅していた。即ち、正規空母「瑞鶴」・中型空母「隼鷹」・軽空母「瑞鳳」「龍鳳」「千歳」「千代田」が辛うじて残存していたが、母艦飛行隊はほぼ全滅、その再建の目処は立っていなかった。詰まり、母艦はあっても乗せる飛行機が無く、日本海軍機動部隊は既に有名無実化していたのである。

「天城」は、ほぼ同時に竣工した同型艦「雲龍」「葛城」と共に第三艦隊第一航空戦隊を編成したが、空母が活躍する場はもう残されていなかった。
しかし、昭和19年(1944年)10月、米軍は遂にフィリピン諸島に来襲、日本海軍はこれを迎撃する為に捷一号作戦を発動した。しかし、機動部隊の壊滅した日本海軍連合艦隊は既に有機的な戦闘能力を喪失していた。最早残された手段は残存艦艇の突入と航空機による体当たり攻撃(特別攻撃)しかなかく、出撃した空母4隻(「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」)は囮艦隊としてことごとく撃沈された。
だがこの時、搭載する航空機・搭乗員の無い「天城」に出撃の機会は無く、また、僚艦「雲龍」は、同年12月、フィリピン諸島への緊急輸送に赴き、その途中で撃沈された。そして、フィリピン諸島を巡る一連の海戦によって日本海軍連合艦隊は事実上壊滅、そしてその後も再建される事は無かった。

昭和20年(1945年)に入ると、南方と内地との物資輸送はほぼ途絶、日本国内の燃料事情は逼迫していた。その為、艦を動かす燃料もままならず、「天城」は広島県の呉軍港外に係留されたままであった。3月19日には呉軍港が米軍艦載機の大規模な空襲を受け、「天城」も爆弾1発を被弾した。その後、呉軍港外の三ツ子島に繋留されるが、艦体に擬装網を被せたり、飛行甲板に家屋や樹木を設置して島の一部に見せ掛けるなど、その身の置き所にさえ苦慮する有様だった。
そして、7月24日・28日、再び大規模な空襲によって爆弾4発と至近弾5発を被弾して大破した。この時、左舷機関室艦底部に浸水したが、応急処置がうまくいかずに左舷に大傾斜、そして翌29日朝に横転してしまった。水深が浅かった為に沈没は免れたものの、艦体の上半分を海面上に残して着底した。

昭和20年(1945年)8月15日、「天城」は横転・着底した状態で終戦を迎えた。そのまま暫く放置されていたが、昭和22年(1947年)7月31日に浮揚作業が行われた。その後、解体が開始され、同年12月11日に解体が完了、ひっそりとその生涯を閉じた。
「天城」は、戦時に於ける急増型空母として日本海軍機動部隊再建の期待を担って竣工した。しかし、「天城」が竣工した時、日本海軍は事実上の壊滅状態にあり、竣工したばかりの「天城」を持て余すまでに弱体化していた。「天城」は、一度も作戦に参加する事無く、生涯の殆どを呉軍港外に繋留されたまま、徒に米軍に好餌を与えるだけの存在になってしまった。
尚、「天城」は、長崎県の三菱重工長崎造船所で起工されて竣工した最後の軍艦であった。同型艦「笠置」も三菱重工長崎造船所で起工されたが未完成に終わった。

「天城」の要目

<竣工時:昭和19年(1944年)>

基準排水量:17460トン
公試排水量:20120トン
満載排水量:22800トン
全長227.4m 水線長:223m 全幅:22m 喫水:7.86m
飛行甲板全長:216.9m 飛行甲板全幅:27m
主機:艦本式オールギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶8基
出力:15万2000馬力
燃料:3670トン(重油)
最大速力:34.ノット
航続距離:18ノット・8000海里
搭載機数:常用機51機・補用2機(計画)
       艦戦 常用18機・補用2機 (艦上戦闘機「烈風」)
       偵察 常用6機 (艦上偵察機「彩雲」)
       艦攻 常用27機 (艦上攻撃機機「流星」)
搭載航空兵装:800キロ爆弾72発・250キロ爆弾240発
          60キロ爆弾260発・30キロ爆弾144発・魚雷36本
着艦制動装置:空廠式三年式一〇型4基12索
着艦制止装置:空廠式三年式一〇型3基
兵装:12.7センチ連装高角砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ三連装機銃21基63挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    25ミリ単装機銃30基30挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    二号一型電探2基・一号三型電探1基
乗員:1556名

参考文献

「日本空母と艦載機のすべて」

「天城」の艦歴

昭和17年(1942年)10月1日:三菱重工長崎造船所(長崎県)で起工。
昭和18年(1943年)9月25日:軍艦「天城」と命名。
昭和18年(1943年)10月15日:三菱重工長崎造船所(長崎県)で進水。
昭和19年(1944年)6月27日:艤装員長として山森亀之助大佐が着任。
昭和19年(1944年)8月10日:三菱重工長崎造船所(長崎県)で竣工。
                  横須賀鎮守府籍に編入。
                  初代艦長として山森亀之助大佐が着任。
                  第三艦隊第一航空艦隊に編入。
                  第一航空戦隊旗艦となる。
昭和19年(1944年)10月23日:2代目艦長として宮崎俊男大佐が着任。
昭和19年(1944年)11月15日:連合艦隊付属第一航空艦隊に編入。
昭和20年(1945年)1月1日:第二艦隊第一航空艦隊に編入。
昭和20年(1945年)2月10日:呉鎮守府部隊に編入。
昭和20年(1945年)3月19日:呉軍港外(広島県)で米軍機の空襲を受け爆弾1発命中。
昭和20年(1945年)4月20日:3代目艦長として平塚四郎大佐が着任。
                  呉鎮守府部隊第四予備艦となる。
昭和20年(1945年)6月10日:呉軍港外(広島県)の三ツ子島に繋留。
昭和20年(1945年)7月24日:呉軍港外(広島県)で米軍機の空襲を受け爆弾3発命中。
                  飛行甲板を損傷。左舷機関室艦底部に浸水。
昭和20年(1945年)7月28日:呉軍港外(広島県)で空襲によって爆弾1発・至近弾5発被弾。
昭和20年(1945年)7月29日:応急処置の不備により浸水して左舷に大傾斜。
                  その後、横転・着底。
昭和20年(1945年)8月15日:横転・着底したまま終戦を迎える。
昭和20年(1945年)11月30日:艦籍から除籍される。
昭和22年(1947年)7月31日:浮揚作業完了。
昭和22年(1947年)12月11日:呉海軍工廠(広島県)で解体完了。