西湾砲台

香港島上陸作戦

1941年12月8日、真珠湾攻撃と同時に始まった香港攻略であったが、日本軍は翌9日夜に九龍半島北側に構築された陣地であるジンドリンカーズラインを突破した。12月11日に英軍は香港島への撤退を発令した。九龍半島での掃討戦は12月13日までに終了した。

12月13日に日本軍は軍参謀多田督知中佐を降伏勧告の軍使として派遣したが、英軍のヤング総督はこれを拒否した。12月17日にも再度多田中佐を派遣して降伏勧告が行われたが、英軍側の回答は変わらず、12月18日に香港島上陸作戦が実施されることとなった。

第三十八師団は師団司令部、歩兵団司令部、歩兵第228連隊、歩兵第229連隊、歩兵第230連隊、山砲兵、工兵、輜重兵の各第三十八連隊、その他から構成されていた。各歩兵連隊は3大隊と歩兵砲隊で構成されていた。歩兵大隊は4中隊、機関銃中隊で構成されていた。一般中隊は3小隊から成り、定員は172名であった。山砲兵連隊は3大隊、工兵連隊は3中隊から成った。

上陸作戦は九龍および大全湾付近から香港島北側へ上陸する右翼隊と、鯉魚門方面から香港島北東側へ上陸する左翼隊に担当が分けられた。西湾砲台は鯉魚門要塞の内陸側の丘に位置する。

12月18日午後、鯉魚門要塞に軍飛行隊により爆撃が行われた。また、軍砲兵隊は一部は英軍砲兵を制圧しつつ、上陸正面の防御施設に火力を集中させ、上陸海岸特火点、側防砲兵、探照灯等に対して射撃を行った。師団砲兵隊もそれぞれ担当区域正面に射撃を行った。軍砲兵隊の射撃は絶え間なく続き、21:30まで上陸支援射撃および後方遮断射撃を行った。

上陸部隊は九龍半島側の3ヵ所から発進したが、各隊の上陸時機を合わせるため、次のように発進が統制された。
 右翼隊 右第一線 距離 約3km 21:20出発
 右翼隊 左第一線 距離 約4km 20:50出発
 左翼隊 右第一線および左第一線 距離 約2.5km 21:35出発

師団砲兵隊は20:00に攻撃準備射撃を開始した。この射撃と同時に左右両翼隊は乗船を始めた。師団砲兵隊は20:40に第二次射撃に移り、第一波が離岸していった。21:40、右砲兵隊は射撃を中止し、左砲兵隊は鯉魚門砲台-大沽造船所南側高地-百家山に射程を延伸した。

右翼隊右第一線は21:45に、右翼隊左第一線は21:50に、左翼隊は21:58にそれぞれ奇襲上陸に成功し、上陸成功を知らせる信号弾が上げられた。

左翼隊右第一線は第三大隊、左翼隊左第一線は第二大隊が担当した。

続けて第二波が上陸を行った。英軍水際守備兵が第一波の上陸とともに配置につき始め、第二波に対して猛射を浴びせてきたため、激戦の中での上陸となった。

左翼隊は右乗船場のヤウントンワンと左乗船場のチョングルイに分かれて乗船した。右乗船場は英軍砲火から死角であったが、左乗船場は砲火に暴露していた。渡海上陸は右第一線を第三大隊、左第一線を第二大隊が担当した。右第一線はシュウケイ湾北西、左は防監所北東側の砂浜に奇襲上陸した。21:58に上陸成功の信号が上げられると、第二波の発動艇群が全速力で発進を開始した。

第一波の上陸に気付いた英軍は抵抗を始め、海面は探照灯に照らされた。右第二波は損害なく上陸し、左第二波は探照と銃撃を受けて損害を出しながらも防監所西側に上陸した。

右第一線の第三大隊は、第十二中隊を市街地南側高地に、速射砲を海岸道南側に配置して上陸援護を命じた。24:00過ぎ、逐次到着する部隊を集結させ、前進を開始した。第十二中隊を右第一線として大沽療養所 (大タン貯水池付近) の英軍を、第九中隊を左第一線として百家山の英軍を攻撃させた。第九中隊は百家山頂の英軍を撃破後、急斜面を降りて大タン貯水池東側に進出した。

左第一線の第二大隊は第八中隊を百家山東側稜線へ、第六中隊を高射砲陣地へ、工兵中隊を上陸点付近のトーチカ、探照灯、障害物の破壊、砲台の占領へ向かわせた。

第六中隊は上陸とともに二個小隊を第一線とし、レームン砲台地域内を柴湾山に向けて前進した。その左小隊は一気に高射砲陣地に殺到し、22:30に突入した。中隊主力は柴湾山中腹の地下要塞に突入し、これを撃破して高射砲陣地一帯の英軍を掃討して柴湾山一帯を占領確保した。第八中隊は百家山東側を攻撃して9日04:00に占領した。工兵第二中隊は上陸とともに白沙湾角砲台に急進し、白兵戦ののち占領した。さらに探照灯の所在を発見して爆破し、01:00に探照灯を消滅させることに成功した。

19日03:00ごろ、英東旅団長ワリス准将は、百家山を奪回するために逆襲を命じた。猛烈な砲兵火力のもと、ロイヤルライフル一個中隊は本道に沿い反撃してきたが、第六中隊は山上から猛射を加えて撃退した。

19日未明、田中左翼大隊長は左第一線の第九中隊が大タン貯水池南東側高地を攻撃しているのを発見し、予備中隊を増援させた。

第三大隊は大潭貯水池付近から西進すると、ニコルソン山の英軍銃砲火が第一線に集中した。第三大隊は地形を利用しながら逐次前進し、19日15:00ごろ黄泥涌貯水池東側に進出したが、英軍の熾烈な銃砲火に前進を停止せざるを得なかった。当時、連隊砲を始め一切の砲兵力は追随できておらず、英軍を砲火力で制圧することはできなかった。

一方、第二大隊は大潭山峡付近で英東旅団から猛射を受けて激戦を展開し、12:00ごろようやく集結を完了し、第三大隊に追いついた。その間、第六中隊は左側背後を援護するために並木山に派遣さえれた。第六中隊は21日の赤柱攻略部隊の進出まで同地を守備した。

薄暮が近づくころ、左翼大隊長は第三大隊と第二大隊の残余に香港仔方面へ前進を命じた。

要塞の詳細

1880年代、香港が貿易港としての重要性を増してくると、英軍は香港島と九龍半島の間のビクトリアハーバーの防衛のため、海峡東端の入口となる鯉魚門一帯の要塞化を進めた。鯉魚門要塞は1895年に完成し、続けて鯉魚門の南西の西湾山に砲台が建設された。建設は1898年に始まり、1903年に完成し、2門の6インチMark Ⅶ砲 (後装式) が沿岸砲台として設置された。

砲台完成の3年後、2門の砲は撤去された。1920年代になると、砲台は高射砲陣地に変換され、3インチ対空砲が設置された。

1941年の日本軍の香港進攻の際には、西湾砲台は香港義勇軍第5中隊が守備していた。

西湾砲台は戦後も対空陣地として使用された。2つの砲台に加え新たに2つの砲台が増設され、4門の3.7インチ対空砲が設置された。1987年に香港政府に引き渡され、戦跡を保存する鯉魚門公園となった。