春島北部:飛行場周辺・トナチャウ山

春島北部:飛行場周辺・トナチャウ山の戦跡一覧

旧春島第一飛行場(チューク国際空港)

春島北西端に「チューク国際空港(Chuuk International Airport)」がある。

「チューク国際空港」は、嘗て日本海軍が設営した「春島第一飛行場」であった。

「春島第一飛行場」は、昭和16年(1941年)12月から工事が開始された。工事には内地から派遣された図南報国隊(囚人部隊)も参加し、春島北西端の山肌を削り海岸を埋め立てて工事が進められた。
尚、春島南部には終戦直後に建てられた「報国隊戦没者之碑」が遺されている。

約1年後の昭和17年(1942年)12月、「春島第一飛行場」はほぼ完成し、90m×1140mの陸上機用滑走路1本や駐機場、3m×25mの格納庫、関連施設約80箇所が建設された。
「春島第一飛行場」は「竹島飛行場」に次いでトラック諸島では2番目の規模の飛行場であった。

トナチャウ山の山頂付近から「チューク国際空港」の滑走路の西側を見る。「空港ターミナル」や「駐機場」も見えている。

同様に滑走路の東側を見る。滑走路の両端が延長されて海上に突き出ているのが分かる。

大東亜戦争に於いて「春島第一飛行場」は主として陸上攻撃機の基地として使用されたが、他にも、内地から輸送されてくる補充機や、更には陸軍機も揚陸された。尚、これら機材の輸送には「大鷹」などの商船改造空母が活躍した。

しかし、昭和19年(1944年)に入ると、前年に占領されたギルバート諸島から米陸軍機による空襲が行われるようになった。それでも「春島第一飛行場」は内南洋における主要な航空基地として機能しており、同年2月時点では、トラック諸島に司令部を置く第四艦隊隷下の第二二航空戦隊第五五二航空隊(「九九艦爆」15機)が駐留していた。

この他にも、テニアン島からの第二三航空戦隊第七五三航空隊の一部(「一式陸攻」10機)や各種練成部隊が加わり、50機近い陸上攻撃機や艦爆・艦攻が翼を並べていた。しかし、2月17日・18日の大空襲によって殆どの航空機が撃墜破された。

更に7月~8月にはマリアナ諸島が占領され、トラック諸島は孤立した。以後「春島第一飛行場」の航空戦力が再建されることは無く、終戦まで飛行機の残骸がうず高く積まれていた。

空港西側の「空港ターミナル」である。

この付近には、当時、整備用駐機場や格納庫があったが、現在は何も遺されていない。

「旧春島第一飛行場(チューク国際空港)」の歩き方

春島北西端にある。

春島市街地からは北に約1.3km、春島南端からは北に約5.3kmである。

しかし、道路事情が非常に悪い為、車では春島市街地から約15分、春島南端からは約30分かかる。2012年3月現在、工事は未完である。

尚、「チューク国際空港」の南200m程には「ハイタイドホテル」がある。

日本軍洞窟①

「チューク国際空港」の裏山にあたるトナチャウ山周辺には、日本軍の建設した施設が多数遺されている。

トナチャウ山の北東の山裾に日本軍が建設した「洞窟①」が遺されている。

「洞窟①」は、山裾の斜面に掘られている為、入口付近の両側は側壁のようになっている。また、入口から入るとやや下っている。

内部は細い通路が真っ直ぐ奥まで伸びている。

通路は一本道だが、やや右に曲がっている。床は緩やかに下っており、途中から水が溜まっている為、先に進むことは出来ない。

「洞窟①」がどの様な目的で掘られたのかは詳細不明であるが、付近には何も無い事や、通路が真っ直ぐで曲がっていない事などから、「弾薬庫」や「倉庫」として使用されていたのではないだろうか。

「日本軍洞窟①」の歩き方

春島北西のトナチャウ山北東側斜面にある。

「チューク国際空港」から海岸沿いの道(島の外周道路)に沿って東に行く。

途中、左手(北側・海側)にある「クラッサホテル」を越え、更に東に約1km行くと、道の右手(南側・山側)に数件の「民家」が集まっている開けた場所がある。

道を挟んで向かい(北側・海側)には「商店」と「広場」がある。

「チューク国際空港」の「空港ターミナル」からは約2.3km(徒歩30分程)である。

「民家」の集まっている場所に向かい、やや右手(西側)の「民家」の裏から山に入る獣道がある。
尚、獣道の入口の右手(西側)の岩場に「日本軍トーチカ」がある。

獣道は何箇所かで分岐してるが、概ね南に向かって山に入っていく。途中には狭いタピオカ畑や、腰掛程度の岩が転がっている場所がある。

「民家」の裏から山に入って10分程歩くと山の北東の尾根の麓あたりに着く。

この付近は斜面が南側の尾根から北側にゆるく下っており、尾根の向こう側(南側)には開けた草原が見えている。

この場所から尾根を左手(南側)に見ながら西に向かうと、1,2分程の左手(南側・山側)の斜面に「日本軍洞窟①」の入口が見える。

尚、開けた草原に出て、尾根に沿って上っていくとトナチャウ山の北東の峰(Afarafar)に出る。峰の南側斜面に「日本軍洞窟③」がある。

日本軍洞窟②

トナチャウ山の北東の山中に日本軍が建設した「洞窟②」が遺されている。

「洞窟②」は北に面した崖に掘られている。「洞窟①」より高い場所にあり、付近の斜面も急であるが、「洞窟①」よりも規模が大きい。

通路の幅は広く、高さも立って歩ける位ある。また床は比較的平坦である。
床は平坦であるが、一部には水がたまっている為、注意が必要である。

奥に進むと広い部屋があり、また通路も二股に分かれている。分かれた通路はその先で合流し、そこも広い部屋になっている。

出入口はもう1箇所あるようである。

「洞窟②」は、非常に規模が大きく内部には広い部屋もある。「弾薬庫」や「倉庫」としては十分な大きさであるが、付近は道が険しく、重量物の搬送は難しそうである。当時は、道が整備されていたのだろうか。
或いは、「防空壕」として使用されていた可能性もあるが、「飛行場」や「砲台」からは多少距離がある。

「日本軍洞窟②」の歩き方

春島北西のトナチャウ山北東側斜面にある。

トナチャウ山の北東の「民家」の裏から山に入る。「民家」までは詳細は「日本軍洞窟①」の歩き方を参照。

「民家」の裏から山に入って10分程歩くと山の北東の尾根の麓あたりに着く。
この付近の左手(南側・山側)の斜面に「日本軍洞窟①」があるので、これを過ぎて尾根の斜面に沿って更に西に向かう。
西に向かいつつ斜面を登っていく。次第に道が険しくなり、斜面上を歩くことになるので足元には十分注意する事。

次第に左手(南側・山側)が切立った崖になってくるので、これに沿って西に進む。
「日本軍洞窟①」から10分程行くと左手(南側・山側)の崖に「日本軍洞窟②」の入口が見えてくる。周囲は蔦に覆われているが、入口は比較的大きいので見つけやすい。

この付近からは、山の麓側(北側・海側)が開けており、「チューク国際空港」の滑走路の北東端が藪の間から見える。

尚、「日本軍洞窟②」から少し西に行き、斜面を登ると「日本軍砲台跡」がある。

日本軍砲台跡

トナチャウ山の北の山中に「日本軍砲台跡」が遺されており、「砲座(洞窟)」内部に「砲塔」2基と「砲」2門が遺されている。

この「砲塔」は、日本海軍の5500トン級軽巡洋艦の主砲塔である。「五十口径三年式十四糎砲(50口径3年式14cm砲)」を搭載していた。

「14cm砲」は、明治時代に英国から輸入された「15cm速射砲」を、当時の日本人の体格に合うようにスケールダウンさせた艦載砲である。5500トン級軽巡洋艦の単装主砲や、長門型戦艦や伊勢型戦艦の副砲に使用された。 「14cm砲」は、砲身長:50口径(7m)・弾量:38kg・装薬量:11kg・最大射程:18000m(仰角35度)・発射速度:毎分10発であった。

「砲塔」は、砲塔砲架重量:35トン・砲楯装甲厚:38mm・最大仰角35度、砲楯の後部は開放され、正面左右には照準用の窓がある。

大東亜戦争開戦前後、5500トン級軽巡洋艦の一部は改装を受け、主砲塔が一部取外された。ここに設置されている「砲塔」は、その際に余剰になった主砲塔が陸上の砲台に転用されたと考えられる。

「砲塔」後部の開口部の縁にに波よけの板が装備される場合があったが、ここに遺されている「砲塔」2基には波よけ板は装備されていない。

「砲塔」内部には「14cm砲」が遺されているが、「砲身」が「砲架」からずり落ちて、「駐退機」も一部失われている。終戦時に、「14cm砲」を使用不能にする為に成された措置だと思われる。

「尾栓」も失われている。
「砲尾」には刻印があり、大正9年(1920年)製造であることが確認できる。

この「砲台」は昭和19年(1944年)から昭和20年(1945年)にかけて工事が開始され、元々は環礁の北水道付近にあった子島の「砲台」に据付けてあった「14cm砲」と「砲塔」をここに据付直した。

工事は昭和20年(1945年)3月以降に完成し、海軍第四七警備隊によって運用された。

「砲台」は、トナチャウ山北側の崖の2箇所を、高さ:10m・幅:11m・奥行き:16mの大きさに堀り、これを「砲座」とした。「砲座」は30m程離れており、各「砲座」には「砲塔」を1基を据付け、合計2基2門の「14cm砲」が据付けられた。

「砲座(洞窟)」の高さは、「14cm砲」の「砲身」が最大仰角(35度)の時に開孔部の上線にすれすれになるようなっていた。

据付工事後、試射を兼ねて教練射撃が行われ、環礁内を航行する曳航標的に対し、射距離12000mで初弾遠・修正弾近・第三弾以下夾射という十分な成績であった。しかし、艦載砲を陸上砲台に転用した為に自動噴気装置が無く、発射後は「尾栓」を開いて大きな団扇で発射ガスを扇ぎ出す必要があり、発射速度の低下や「砲座」内への砲煙・ガスの充満の原因となったそうである。

また、「砲座(洞窟)」の開口部に金属板を置き、蔦を這わせて擬装していたが、効果は不十分であったそうである。

もう1箇所の「砲座」と「砲塔」「14cm砲」。

もう1基の「砲塔」も、「砲身」が「砲架」からずり落ちており、「駐退機」が失われている。付近には「駐退機」の中に入っていた「復座バネ(リコイルスプリング)」が転がっている。

各「砲座」の後ろには縦横2m程の「洞窟(通路)」が掘られている。奥はかなり広く、これらは「弾薬庫」や「待機所」として使用されていた。また、各「砲座」はこの「洞窟」で繋がっている。

また、「砲座」間には「測的所」が設けられており、「測的所」も「洞窟」で繋がっている。

「砲台」は敵を砲撃する機会無く終戦を迎え、その時は約2000発の砲弾が残っていた。

「日本軍砲台跡」の歩き方

春島北西のトナチャウ山北東側斜面にある。

トナチャウ山の北東の「民家」の裏から山に入る。「民家」までは詳細は「日本軍洞窟①」の歩き方を参照。

「民家」の裏から山に入って10分程歩くと山の北東の尾根の麓あたりに着く。
この付近の左手(南側・山側)の斜面に「日本軍洞窟①」があるので、これを過ぎて尾根の斜面に沿って西に向かう。次第に左手が崖になってくるので、崖に沿って更に西に10分程行くと左手(南側・山側)の崖に「日本軍洞窟②」の入口が見えてくる。

「日本軍洞窟②」から崖に沿って少し西に向かうと、崖がやや緩やかになってくる。
崖が緩やかになった辺りを登っていくと、「日本軍洞窟②」から1,2分で「日本軍砲台跡」の「砲座①」が現れる。「砲座②」はここから崖沿いに西に進むと見えてくる。また、「砲座①」と「砲座②」は洞窟でも繋がっている。

「日本軍砲台跡」も崖に構築されており、周辺は東西に渡って山の北側が崖になっている。

尚、「砲座①」と「砲座②」の間に「日本軍測的所跡」があり、これも洞窟で繋がっている。

日本軍測的所跡

トナチャウ山の北の山中に「日本軍測的所跡」が遺されている。「測的所」は「砲台」の一部を成しており、「洞窟」で2箇所の「砲座」と繋がっている。

2箇所の「砲座」の間にあり、北に面した崖を掘って造られている。

「測的所」では、目標までの距離や方角の測定、目標の移動速度等の観測を行い、得られたデータ(射撃諸元)を砲側(「砲座」)に送る。「砲座」では送られたデータを基に、「砲」に仰角・旋回角を与え、然るべきタイミングで「砲」を発射した。

「測的所」の一部には石垣が積まれている。
奥には「洞窟」があり、各「砲座」と繋がっている。

ここから北側には「チューク国際空港」が見え、その先には海が見える。観測には最適な場所である。

戦後も一時期までは、「測的所」や「洞窟」に「測距儀」等の機器が遺されていたそうであるが、現在は失われてしまい、特に何も遺されていない。
ここも、特に保存は図られておらず、放置されたままである。この様な貴重な戦争遺跡は、然るべき保存が成されるべきであろう。

「日本軍測的所跡」の歩き方

春島北西のトナチャウ山北東側斜面にある。

「日本軍測的所跡」は「日本軍砲台跡」に含まれている為、歩き方の詳細は「日本軍砲台跡」の歩き方を参照。

「日本軍砲台跡」は山の北側の崖に構築されており、東側と西側にそれぞれ「砲座①」と「砲座②」が設けられている。

「測的所」は「砲座①」と「砲座②」の間に設けられている。また、これらは洞窟で繋がっており、内部から行き来する事も出来る。

日本軍トーチカ

トナチャウ山の北東の山麓に「日本軍トーチカ」2基が遺されている。
低い位置にある「トーチカ①」である。

山麓の岩場をくり貫いて造られており、銃眼の周囲がコンクリートで出来ている。付近は水が染みて来ており、コンクリートの一部が溶けて鍾乳石の氷柱のようになっている。
内部は土砂とゴミで埋まっている。

直ぐ裏手に岩をくり貫いた出入口がある。

高い位置にある「トーチカ②」である。
「トーチカ①」の直ぐ近くの岩場の上のに斜面造られており、地面からは4~5m程の高さがある。

壁と天蓋はコンクリート製で、銃眼が北側(海側)を向いている。内部は土砂に埋まっているが、後方に出入口がある。

「トーチカ①②」は、「旧春島第一飛行場」の東側に位置し、100m程先(北側)が海岸である。
現在、周辺は住宅地になっており、直ぐ側まで「民家」がある。

「日本軍トーチカ」の歩き方

春島北西のトナチャウ山北東山麓にある。

「チューク国際空港」から東に約2.3km行くと、道の右手(南側・山側)に数件の「民家」が集まっている開けた場所がある。道の左手(北側・海側)は「商店」と「広場」がある。

道の右手(南側・山側)の「民家」の集まっている場所に向かい、やや左手(西側)の「民家」の裏から山に入る獣道がある。

獣道の入口に向かって右手(西側)の岩場に「トーチカ①」があり、その10m程右手(西側)にある岩場の5m程上に「トーチカ②」がある。周辺は「民家」のすぐ裏である。

日本軍洞窟③

トナチャウ山の北東の峰(Afarafar)の頂上に「洞窟③」が遺されている。周辺は開けている。

「洞窟③」は、峰の頂上にあり、周囲には特に遮蔽物は無い。また、「洞窟③」の直ぐ側には「竪穴」らしきものがあり、以前名は「洞窟③」と「竪穴」が内部で繋がっていたようである。
この場所は見晴らしがよく、「砲台」から斜面を登った場所にあるので、「監視所」か「観測所」だったのだろうか。

内部は土砂で埋まっている。

ここからは北西側に桜島(ファノ島)・小桜島(オサクラ島)見る事が出来る。

東側には春島北東端が見え、その頂上には「日本灯台跡」がある。

また、南東側にはウィティポン山が見え、その山頂には「日本軍防空砲台跡」がある。

正面には「ポー湾(亀の子湾)」が見えており、「ポー湾」の左側(北側)には「旧日本軍陸橋」が見えている。

「日本軍洞窟③」の歩き方

春島北西のトナチャウ山北東峰にある。

トナチャウ山の北東の「民家」の裏から山に入る。「民家」までは詳細は「日本軍洞窟①」の歩き方を参照。

「民家」の裏から山に入って10分程歩くと山の北東の尾根の麓あたりに着く。
この付近は斜面が南側の尾根から北側にゆるく下っており、尾根の向こう側(南側)には開けた草原が見えている。

尚、この付近の左手(南側・山側)の斜面に「日本軍洞窟①」がある。

開けた草原に出て、尾根に沿って上っていく。尾根を上まで登るとトナチャウ山の北東の峰(Afarafar)に出る。峰の頂上付近の北側斜面に「日本軍洞窟③」がある。

或いは、「日本軍砲台跡」の西側から斜面を登っていくとトナチャウ山の北東の峰(Afarafar)の西側に出る。北東に向かい、峰の頂上付近の北側斜面に「日本軍洞窟③」がある。

トナチャウ山の北東の峰(Afarafar)から中央の峰が南西方向に見える。中央の峰の山頂には「日本軍射撃壕跡」があるが、北東の峰(Afarafar)からの経路は詳細不明である。

日本軍射撃壕跡

トナチャウ山の中央の峰の頂上に「日本軍射撃壕跡」が複数遺されている。 現在、「射撃壕(塹壕)」は殆ど埋もれてしまい、深さ約30~50cm・幅約50cmの溝が藪の中に遺されている程度である。

「壕」は途切れ途切れだが、頂上付近に複数条掘られているのが確認できる。

これらは、山頂付近に構築されている事から、対空戦闘用の「塹壕」だったのだろうか。

付近には、所々にコンクリート製の「掩体」が遺されているが、これも殆ど土砂に埋まっている。

コンクリートの板を上面と側面に組んで造られており、高さ・横幅・奥行き80cm程、ほぼ立方体をしている。上には盛土がしてある。

これらの「掩体」は「塹壕」の内部にあり、形状的に「弾薬置き場」であったと思われる。
ほぼ同形状の「弾薬置き場」は、日本軍の高射砲台(防空砲台)に多く見られる。この一帯は防空陣地だったのではないかと思われる。

中央の峰の北東には、深さ約2m・直径約4mの大きな円形の「穴」が開いている。

この「穴」からは更に2条の「塹壕」が延びているが、それらは深さ約50cm程である。この「穴」も「射撃壕」の一部かもしれないが、他の「塹壕」と比較してここだけ異様に深い。また、円形の「穴」はここ1箇所のみである。
山頂付近には、米軍機の爆撃で出来た爆弾の「クレーター」が遺されているという情報がある。この「穴」がその「クレーター」の可能性もあるが、詳細不明である。

「穴」から延びる「塹壕」にもコンクリート製「掩体」が遺されている。

「日本軍射撃壕跡」の歩き方

春島北西のトナチャウ山中央峰にある。

「チューク国際空港」のターミナルから北東に約1.2km行くと、滑走路沿いから東に折れた辺りに、左手(北側・海側)に「クラッサホテル」が、右手(南側・海側)に「パシフィックガーデンホテル」がある。

「パシフィックガーデンホテル」の手前にトナチャウ山に通じる登山道の入口があるので、ここから登山道に入る。

登山道をしばらく登っていくとトナチャウ山の中央の峰近くの「鉄塔」に行き着く。登山道はここで終わっている。

「鉄塔」の20m~30m程手前の登山道の左手(山頂側)の藪に、更に上る獣道の入口があるので、ここから更に上に登る。

登山道から獣道に入ってすぐに開けた草原に出る。右手(南側)にはトナチャウ山の切り立った山頂が見えている。

左手(北側)の先には藪があり、獣道が続いている。獣道を辿って藪に分け入ると「日本軍射撃壕跡」が点在している。

藪に入って直ぐの西側の斜面に近い場所に「射撃壕①」があり、そこからやや北東に進むと「塹壕跡」がある。これを越えて更に北西に進むと、東側の斜面に近い場所に大きな「射撃壕②」がある。ここから直ぐ北に「射撃壕③」がある。

尚、「射撃壕③」から北西に進むと藪が切れて草原に出る。その先には更に藪を挟んでトナチャウ山の北東の峰(Afarafar)の頂上が見える。
北東の峰の頂上は「日本軍洞窟③」があるが、ここからの経路は詳細不明である。

旧日本軍陸橋・旧日本軍道路

春島北東の「ポー湾(Pou Bay)」の入口に「旧日本軍陸橋」が遺されている。尚、日本統治時代、「ポー湾」は「亀の子湾」と呼ばれていた。

「陸橋は」は「ポー湾」の入口を跨いでおり、石垣を積んで造られている。この「陸橋」は日本軍が建設した。また、付近の埋立地の護岸も日本軍が建設した石垣である。

この「陸橋」も含めた春島のを1周する道は日本軍が建設した「軍用道路」であった。

日本軍が建設した春島の「外周道路」は、終戦で日本軍が引揚げ、進駐してきた米軍もその後に引揚げると、誰も整備をしない為に荒れ放題だったという。そして、20年程前、日本の建設会社がほぼ1周を舗装しなおした。しかし、その後は誰も整備をしない為、結局元の状態に戻ってしまった。

交通量の少ない街外れの道路は状態が良い。

市街地を含め、大半の道路は舗装が剥がれ、削られて出来た穴に水が溜まっている。

2~3年程前から、市街地周辺では道路の舗装工事が行われている。しかし、作業員の士気も低く、工事は遅々として進んでいない。

「道路」の脇の一部に、コンクリート製の「支柱」が遺されている。

現在は、ガードレールの支えになっているが、日本統治時代の「欄干」だろうか。

今後は、州政府の指導の下、早急なる道路補修が望まれる。

「旧日本軍陸橋」「旧日本軍道路」の歩き方

春島の西岸から北岸にかけてである。

「チューク国際空港」からと南に東に走る海岸沿いの道路が概ね「旧日本軍道路」である。

「チューク国際空港」から東に約2.3km行くと、道の右手(南側・山側)に数件の「民家」が集まっている開けた場所がある。道の左手(北側・海側)は「商店」と「広場」がある。
この付近の道路の脇にコンクリート製の「支柱」が数基ある。

ここから更に東に400m程行くと「旧日本軍陸橋」があり、所々に護岸の為の「石垣」がある。
「旧日本軍道路」は更に東の春島北東端まで続いている。