春島東部の戦跡一覧
旧海軍通信所(ザビエル高校)
春島東部に「旧海軍通信所」が遺されている。
現在は「ザビエル高校(Xavier High School)」の校舎として利用されている。
「海軍通信所」は、昭和13年(1938年)に建設された。この時、建設工事を請け負ったのが馬淵組(現在の馬渕建設)であった。
「通信所」は鉄筋コンクリート製で2階建てで延べ2800平方メートル、壁の厚みは60~90cm、窓は鋼鉄製であった。
同様のコンクリート製海軍施設は、マリアナ諸島やパラオ諸島にも多数遺されている。
「通信所」は、昭和19年(1944年)以降、米軍の度重なる空襲によって大きな被害を受けた。
そして終戦後、トラック諸島から日本軍部隊が引揚げる際、軍の命令によって多くの軍事施設は破壊されたが、「通信所」は、後々に現地人の役に立つだろうという馬淵組の配慮によって破壊を免れたそうである。実際、この堅牢な建物の破壊自体も容易では無かったであろう。
ウィティポン山から「旧海軍通信所」を見る。中央の白い部分である。
「日本灯台跡」から「旧海軍通信所」を見る。
その後、建物は、昭和27年(1952年)にイエズス会によって設立された「ザビエル(ザビアー)高校」の校舎として利用されてきた。また、この建物を建設した馬渕建設の名前を採り、「マブチスクール」とも呼ばれてきた。しかし、建物には米軍の爆撃による弾痕や損傷が多く遺され、更には老朽化による不具合が目立つようになってきた。
そこで、平成20年(2008年)6月~9月、馬渕建設の創業100周年事業による無償修理が行われた。
補修された外壁。
建物内部の間取りは当時のままである。
同年10月9日には現地で贈呈式が行われ、両国の関係者多数が出席した。
現在、「ザビエル高校」は生徒数は約150人で4年制、インターナショナル校であり、地元チューク州のみならず他州や近隣国のパラオ共和国・マーシャル共和国からの学生も在籍している。男子生徒は全寮制、女子生徒はスクールバスで通学している。そして、募集人員50人に対して受験者約800人という超難関校であり、これまでも同国大統領や政府要人を多数輩出している。
「通信所」は、現在もミクロネシア連邦に貢献し続けているのである。そして、裏に遺される「被弾痕のある建物」が、米軍の空襲を今に伝えている。
「旧海軍通信所(ザビエル高校)」の歩き方
春島北東部にある。
「チューク国際空港」から島の北岸沿いに道路を東に向かう。途中、「旧日本軍陸橋」を越えて約4.7km行くと「T字路①」がある。
「T字路①」を右折して坂道を登りきると、「T字路②」があるので右折して坂道を登る。
尚、「T字路②」を左折して坂道を下っていくと春島北東端に行くことが出来、「日本軍砲台跡(砲塔)」や「日本灯台跡」がある。
「T字路②」から坂道を登っていくと、途中、右手(北側)の土手に「日本軍防空壕跡」がある。
「T字路②」から300m程行くと道が大きく右に曲がっており、曲がりきった先の左手(北側)の建物が「旧海軍通信所(ザビエル高校)」である。
尚、道が曲がっている所の左手(西側)に「旧日本軍登山道」がある。
「旧海軍通信所」の正面が中庭になっており、中庭の左手奥に「被弾痕のある建物」がある。
見学をする場合は、中庭の前の入口から入り、階段のすぐ先の左手の事務室で学校職員の許可をもらう事。無断で立ち入ってはいけない。
日本軍防空壕跡・旧日本軍登山道
「旧海軍通信所」の側からウィティポン山に続く「登山道」の入口がある。
この「登山道」は、日本軍が建設し、当時はウィティポン山の山頂まで続いていた。
手前の白い部分は「ザビエル高校(旧海軍通信所)」。「日本灯台跡」から見る。
大東亜戦争中、春島東部には海軍第四六防空隊が展開しており、ウィティポン山に「防空砲台」を設営していた。「登山道」は、山頂付近の「防空砲台」から麓の「通信所」までを結んでいた。
この「登山道」は、かつては山頂の「防空砲台」までトラックが通行できたそうである。しかし、現在、ウィティポン山一帯は深い茂みと背の高い草に覆われており、「登山道」は殆ど埋もれている。稀に現地人が山に入る為、辛うじて獣道として遺されるのみである。
「登山道」の入口に近い「旧海軍通信所」の側に「日本軍防空壕跡」が遺されている。
「防空壕跡」は、「旧海軍通信所」の建っている土手に2箇所掘られている。
「防空壕跡①」
入口付近は原型を保っているが、奥は土砂とゴミで埋まっている。
「防空壕跡②」
入口付近も土砂で埋まっている。
これら「防空壕跡」は、コンクリート等は使用されておらず、土手を掘ったのみである。大東亜戦争末期に応急的に掘られたのであろうか。
「日本軍防空壕跡」「旧日本軍登山道」の歩き方
春島北東部にある。
「チューク国際空港」から島の北岸沿いに道路を東に向かう。途中、「旧日本軍陸橋」を越えて約4.7km行くと「T字路①」がある。
「T字路①」を右折して坂道を登りきると、「T字路②」があるので右折して坂道を登る。
「T字路②」から坂道を登っていくと、途中、右手(北側)の土手に「日本軍防空壕跡」がある。
「T字路②」から300m程行くと道が大きく右に曲がっており、ここ左手(西側)に「旧日本軍登山道」の入口がある。。
尚、道を曲がりきると「旧海軍通信所(ザビエル高校)」がある。
日本軍電探(レーダー)土台跡
ウィティポン山の北西、山頂への「登山道」の途中には、第四艦隊隷下の海軍部隊が運用する「電探(レーダー)見張所」が設営されていた。
「見張所」は、昭和19年(1944年)2月以降に順次設営され、3基の電波探信儀(レーダー)が設置されていた。
ウィティポン山の「登山道」の途中に「電探(レーダー)土台跡」と思われる「石垣」が遺されている。
現在は殆ど藪に覆われているが、石を積んで造られているのが確認できる。
この付近には海軍部隊が「電探見張所」を設営しており、「電探の土台」であったと思われるが、「見張所」の正確な位置は不明な為、断定は出来ない。
尚、当時は「一号一型」「一号二型」「一号三型」の3基が設置されており、麓の「通信所」から電力の供給を受けていた。
「日本軍電探(レーダー)土台跡」の歩き方
春島北東部にある。
ウィティポン山の登山道の途中にある。
登山道入口の詳細は「旧日本軍登山道」の歩き方を参照。
登山道に入ると次第に道が険しくなり、獣道になる。入口から300m程(徒歩10分程)行くと大きな「貯水タンク」がある。
「貯水タンク」を越えると獣道も殆ど無くなるが、「貯水タンク」から200m程(徒歩10分程)行き、辛うじて残る獣道の左手に「日本軍電探(レーダー)土台跡」がある。
途中には、岩場に沢水が溜まった水場がある。
日本軍射撃壕跡
ウィティポン山の「登山道」の途中に「日本軍射撃壕跡」が複数遺されている。
人工的に石を積み上げた石垣状の「射撃壕」で、1,2名が身を隠せる程度の簡易的な「援体」として造られたと思われる。
同様な「射撃壕跡」が、「登山道」の途中の草原や茂みに遺されているが、「塹壕」や「タコツボ」などは組み合わされておらず、防御陣地としての効果には疑問がある。対空戦闘を意識した「射撃壕」だったのだろうか。
「日本軍射撃壕跡」の歩き方
春島北東部にある。
ウィティポン山の登山道の途中にある。
登山道入口の詳細は「旧日本軍登山道」の歩き方を参照。
登山道に入ると次第に道が険しくなる。入口から300m程(徒歩10分程)行くと大きな「貯水タンク」がある。更に 200m程(徒歩10分程)行くと「日本軍電探(レーダー)土台跡」がある。
この辺りまで来ると獣道も殆ど残っておらず、周囲は薄暗いジャングルになっているが、更に奥(西側・山側)に進む。
「日本軍電探(レーダー)土台跡」から200m程(徒歩10分程)行くと、木々がまばらになって視界が開ける。
左手(南側)には夏島や秋島、「戦艦錨地」が良く見える。
更に500m程(徒歩15分程)行くと人の背丈程のススキの草原になる。この草原を抜けた辺りに「日本軍射撃壕跡」が点在している。
尚、草原の先には急な斜面があり、これを登ると崖になっている。崖を迂回して上に登った先に「日本軍トーチカ」がある。
日本軍トーチカ
ウィティポン山の「登山道」の途中に「日本軍トーチカ」が遺されている。
「トーチカ」は銃眼と天蓋がコンクリートで造られ、周囲は石垣で囲まれている。また、天蓋の上に盛土されている。
春島東部には上陸作戦に適した場所が無く、この「トーチカ」が単独で建設されている事から、防御用の特火点というよりも警備用の監視所といった意味合いで建設されたのではないだろうか。
「トーチカ」は斜面の頂上付近に造られており、すぐ近くにはタコツボ状の「壕」が掘られている。また、「トーチカ」の背後には竪穴があり、ここに「トーチカ」の出入口が設けられている。
ここからは東側に「旧海軍通信所(ザビエル高校)」や「日本灯台跡」が見下ろせる。
この「トーチカ」を建設した部隊は不明であるが、付近には海軍第四六防空隊が展開し、「防空砲台」や「沿岸砲台」を設営していた。この「トーチカ」も同部隊が建設したのだろうか。
「日本軍トーチカ」の歩き方
春島北東部にある。
ウィティポン山の登山道の途中にある。
登山道入口の詳細は「旧日本軍登山道」の歩き方を参照。
登山道に入ると次第に道が険しくなり、獣道になる。入口から300m程(徒歩10分程)行くと大きな「貯水タンク」がある。更に200m程(徒歩10分程)行くと「日本軍電探(レーダー)土台跡」がある。ここから更に奥に進み、ジャングルを抜けて草原に出ると、その先に「日本軍射撃壕跡」が点在している。この辺りまでは、登山道入口から徒歩45分程である。
「日本軍射撃壕跡」の先で草原が途切れ、先が急な斜面になっている。(写真右下 →)
この斜面を登ると高さ3m程の崖がある。崖に向かって右手(北側)の藪に回り込むと、崖が次第に低くなっていくので、ここから上に登る。
崖の上に出ると緩やかに登っているので、左手(南側)に戻りつつ斜面を登っていく。このとき、前方(南側)に夏島が見えてくる。
登りきった辺りの、南東向きの斜面に「日本軍トーチカ」がある。登山道入口から徒歩50分程である。周囲は背の低い草と岩場になっている。
(N:07°26′50.73″ E:151°52′30.50″)
日本軍砲台跡
ウィティポン山の「登山道」の途中に「日本軍砲台跡」が遺されている。
環礁の北東水道を扼する場所、即ちウィティポン山の南東向きの崖の一角を掘り、その中に「砲座」が設けられている。現在、周囲は藪に覆われており、外からは見えにくい。
この「沿岸砲台」は、昭和19年(1944年)5月前後、トラック諸島防衛の一環として工事が開始された。
「砲座」には「艦砲」が設置されている。
「安式四十口径十五糎速射砲(アームストロング式40口径15cm速射砲)」と思われる。
当初、環礁上に点在する小島に旧式の「艦砲」が設置されていたが、昭和19年(1944年)2月と4月の米軍の大規模な空襲以後、これら「艦砲」を春島や夏島に集め、設置し直すことになった。
ここの「沿岸砲台」の工事は第四六防空隊が行い、工事は順調に進んだという。
「砲座」は岩盤を四角く刳り貫いた「洞窟」に造られており、「砲床」は外の地面よりも低く掘り下げられている。掘り下げた「砲床」には地下水が溜まっており、水深60cm程になっている。
なお、この水の下に、「駐退機」に組込まれていた「復座バネ(リコイルスプリング)」が沈んでいる。
「日本軍砲台跡」の歩き方
春島北東部にある。
ウィティポン山の登山道の途中にある。
登山道入口の詳細は「旧日本軍登山道」の歩き方を参照。
登山道に入ると次第に道が険しくなり、獣道になる。途中、大きな「貯水タンク」を過ぎ、 「日本軍電探(レーダー)土台跡」を越えてジャングルから草原に出る。その先に「日本軍射撃壕跡」があり、先が急な斜面になっている。この斜面を登ると高さ3m程の崖がある。崖に向かって右手(北側)の藪に回り込んで崖の上に出て、更に緩やかな斜面を登る。
登りきった辺りの、南東向きの斜面に「日本軍トーチカ」がある。
ここから先は、藪や背の高い草原になっており、山の尾根沿いに獣道が続いている。
「日本軍トーチカ」から20分程行くと前方が再び斜面になってくる。この斜面を登っていき、左手(南側)のやや低い場所に藪がある。
藪の一角に「日本軍砲台跡」がある。
斜面の壁面に「洞窟」が掘られ、「砲座」が設けられている。「洞窟」の入口付近は藪に覆われ、近づかないとわかり難い。すぐ近くの背後の斜面の上には「高角砲①」が見えている。
日本軍防空砲台跡(高角砲・探照灯)
ウィティポン山の山頂付近には、昭和19年(1944年)2月以降、海軍第四六防空隊が展開し、「防空砲台」を設営していた。
第四六防空隊は、「四十五口径十年式十二糎高角砲(45口径10年式12cm高角砲」6門・「探照灯」2基・「九六式二十五粍高角機銃(96式25mm高角機銃)」連装1基(2門)・「13mm機銃」単装1基(1門)を装備していた。併しながら、部隊の装備品を積んだ輸送船が、昭和19年(1944年)2月17日・18日の米軍の空襲で沈没、積荷の一部が海没してしまった。その為、「高角砲」の射撃に必要な「測距儀」や「射撃装置」が無く、目視によって射撃を行わなければならなかったそうである。また、マリアナ諸島陥落後は内地からの輸送も途絶えた為、弾薬も6門で100発程度しかなく、射撃を行う事は殆ど無かったそうである。
現在、この「防空砲台跡」が遺されており、「12cm高角砲」5門・「探照灯」1基が遺されている。
第四六防空隊は、中尉の防空隊長以下、見張小隊(小隊長:少尉)・指揮小隊(兵曹長)・射撃第一小隊(兵曹長)・射撃第二小隊(兵曹長)・弾薬書小隊(兵曹長)の各小隊があり、他に車両機械班(射撃第一小隊長が指揮)・主計班・衛生班があった。
第四六防空隊は、昭和19年(1944年)7月18日、マリアナ諸島サイパン島所在の中部太平洋方面艦隊司令部の壊滅に伴い、第四一警備隊の隷下に編成替えとなったが、部隊名が変更されたのみで兵員の編成に変化はなかった。
「高角砲①」
山頂手前の斜面に「砲架」が遺されており「砲架」には旋回用のハンドルや計器の台座が遺されている。
「砲身」は「砲架」の側に転がっており、尾部には「呉 七六五 号」「昭和十八年」「製 五四四七 号」等の刻印が読める。
当時、「12cm高角砲」は6門全てがの山頂の「砲座」に設置されていた。「高角砲①」は、戦後に分解されてこに放置されたと思われる。尚、「高角砲②~⑤」は、山頂の「砲座」に遺されている。
少し離れた場所に「高角砲①」の「旋回台座(バーベット)」が転がっている。
山頂付近には「砲座」4箇所と「12cm高角砲」4門が遺されている。当時は、1個小隊で3門を運用し、2個小隊6門が20~30m離れて円形に配置されていた。これらの中心には防空隊長が指揮を執る「指揮壕」が設けられた。中央の1坪程が更に掘下げられ、当時、隊長はそこで寝起きしてたそうである。
「高角砲②」
地面を掘下げた「砲座」の中に「砲身」を水平にした状態で遺されている。「尾栓」が失われ、「駐退機」も破損している。「砲床」は地面より低く、「砲座」の内部には雨水が溜まっている。
「砲座」の内部にはコンクリートと鉄扉で仕切られた「弾薬置き場」が設けられている。
「駐退機」から外されたと思われる「復座バネ(リコイルスプリング)」が転がっている。
「12cm高角砲」は、大正10年(1921年)に採用され、大東亜戦争当時は既に旧式化していたが、比較的軽量で生産コストも低かった為、大東亜戦争末期に大量生産された。ここに遺されている「12cm高角砲」も、昭和18年(1943年)に製造されており、「高角砲②」にも「昭和十八年」の刻印がある。
「砲座」のすぐ側には「壕」が遺されている。
当時、中心の「指揮壕」以外に、各小隊の「砲座」の近くに「小隊長指揮壕」が設けられていた。これらは伝声管で結ばれていたが、「防空砲台」を設営した当初は伝声管が間に合わず、中継伝令がを置いていたが、米軍の空襲時に伝令1名が戦死した事があったという。
「高角砲③」
「高角砲②」の近くに「高角砲③」と「砲座」が遺されている。「昭和十八年」「製 五四八二 号」の刻印がある。
「砲身」は水平に海を向いている。「尾栓」は失われ、「駐退機」は一部欠損している。
「砲座」内の「弾薬置き場」。
「砲座」の外周は土塁であるが、この部分はコンクリート製である。鉄製の扉が設けられ、内部には「砲弾架(ラック)」が入っている。
「ラック」には「砲弾の直径と同じ穴が開いており、砲弾を固定出来る様になっている。
ここまでが1個小隊(3門)と思われるが、現在、至近には「12cm高角砲」2門しか遺されていない。
「探照灯」
「高角砲②」の近くに「探照灯(サーチライト)」1基が遺されている。周囲は土塁で囲まれている。内部のレンズ等は失われている。同様の「探照灯」が春島東端にも遺されている。
昭和19年(1944年)2月以降、マーシャル諸島クエゼリン環礁から米陸軍「B-24」爆撃機が度々来襲していた。特に夜間は単機で進入してくることが多く、そこで、夜間に侵入してくる「B-24」をこれら「探照灯」で照射し、「春島第一飛行場」に配備されていた夜間戦闘機「月光}(斜め銃装備)で迎撃、実際に撃墜する事もあったという。
当時、「探照灯」は2基あり、当初は近くに発電機を置いた建屋があったが、後に山頂西側の崖に「洞窟」を掘り、そこに発電機を置いていたそうである。
「高角砲②③」「探照灯」からやや離れた所に「機械部品の残骸」が遺されている。当時、「指揮壕」には電話機や無線が設置されていたそうであり、その「残骸」かもしれない。
この場所には、戦後に米軍が測量の為に立てた「基準点」がある。詳細不明だが、昭和37年(1962年)に建てられたようである。同様の「基準点」が「日本灯台跡」にも見られる。
「高角砲④」
「基準点」の近くに「高角砲④」が遺されている。対空戦闘中の状態で放置されたのだろうか。「砲身」は大きな仰角がかけられたままである。
「高角砲④」の「砲座」にも雨水が溜まっており、「砲架」の下部が水没している。
山頂南側の「高角砲②③」(1個小隊)に対し、この「高角砲④」と次の「高角砲⑤」で1個小隊を編成していたと考えられる。当時は、1個小隊で3門を装備していたが、現在は「高角砲④⑤」の2門のみである。
「高角砲⑤」
「高角砲④」から数十m離れた山頂の最も東側に遺されており、「砲座」は草に覆われている。「砲身」にはやや仰角がかけられている。
山頂南側に「高角砲②③」(1個小隊)が、山頂中央に「高角砲④⑤」(1個小隊)が布陣し、中央に「指揮壕」を配置した「防空砲台」が設営されていたことがわかる。当時は、更にその北側に「25mm高角機銃」連装1基・「13mm機銃」単装1基が設置されていた。
これらの機銃は、至近に接近してくる小型機に対して対空射撃を行っていた。
ウィティポン山の山頂から北西にトナチャウ山(春島北西)が見える。その向こうには「旧春島第一飛行場」がある。
尚、トナチャウ山の山頂から南東にはウィティポン山が見える。平坦な山頂の右側(西側)一帯が「日本軍防空砲台」であった。
第四六防空隊は、昭和19年(1944年)7月に第四一警備隊隷下に編成替えとなった。昭和20年(1945年)3月には第四一警備隊の一部を分離して新たに第四七警備隊が編成され、、第四六防空隊もその隷下になった。
第四七警備隊の本部は、春島南部のチュクエン山西側の山麓に掘られた「洞窟」にあった
「日本軍防空砲台跡(高角砲・探照灯)」の歩き方
春島北東部にある。
ウィティポン山の山頂付近にある。
登山道入口の詳細は「旧日本軍登山道」の歩き方を参照。登山道の途中までは「日本軍トーチカ」の歩き方を参照。
登山道入口から約1時間で「日本軍トーチカ」がある。ここから先は、藪や背の高い草原になっており、山の尾根沿いに獣道が続いている。
「日本軍トーチカ」から20分程行くと前方が再び斜面になってくる。この斜面を登っていくと、途中のやや平らな場所に「高角砲①」がある。
「高角砲①」の近くに「日本軍砲台跡」がある。
「高角砲①」の辺りからウィティポン山の平坦な山頂となる。山頂に出たら、広い茂みを左手(南側)に見つつ更に先(西側)に進む。
周囲は矢や背の高い草と岩場になっている。途中に朽ちた「ドラム缶」がある。
茂みを越えたら左手(南側)に向かうと「高角砲②」がある。「高角砲①」から10分程である。
「高角砲②」のすぐ横(南側)に「壕」がある。
「高角砲②」から海(南側)に向かってやや右手(南西側)に「高角砲③」がある。
「高角砲②」から数十mの距離である。また、前方(南側)は海に向かって崖になっている。
「高角砲③」から海(南側)に向かって右手(西側)に「探照灯」がある。「高角砲③」から数十mの距離である。また、周辺はやや深い草むらになっている。
「高角砲②」「高角砲③」「探照灯」のある山頂の南側から、山頂の北側に向かう。
草むらを掻き分けて進むと、「探照灯」から数十m(徒歩5分程)で「基準点」がある。
「基準点」のある場所から北側に、「高角砲④」の砲身が見えている。周囲は背の高いススキに覆われている。
「高角砲④」の西側、徒歩5分程で「高角砲⑤」がある。山頂の西端である。「高角砲⑤」からはトナチャウ山が見える。
尚、トナチャウ山の山頂からウィティポン山の山頂を見ると、茂みの右側(西側)に、「砲身」が真上を向いた「高角砲④」が、その右側(西側)には「砲身」が右斜め上を向いた「高角砲⑤」が見える。
「高角砲①」 (N:07°26′42.21″ E:151°52′16.83″)
「高角砲②」 (N:07°26′33.90″ E:151°52′06.83″)
「高角砲③」 (N:07°26′33.21″ E:151°52′05.66″)