春島東部:春島北東端(日本灯台周辺)

春島北東端の戦跡一覧

日本軍トーチカ群

春島北東端の岬の南側の海岸沿いに多数の「日本軍トーチカ」が遺されている。
全て海岸の直ぐ側に建設されているが、周囲には遮蔽物は少なく、「トーチカ」同士の間隔も広い為、有効な水際防御は望めない。しかし、付近は大規模な砂浜も無く、上陸地点としては不適当であるので、対着上陸用の水際防御拠点というよりも警備用の監視所という意味合いで建設されたのではないだろうか。

「トーチカ①」

海岸沿いに建設されたようだが、現在は壁面が開くように崩壊しており、天蓋も失われている。
米軍の攻撃によって崩壊したのではなく、海岸沿いの地盤が軟弱であった為、戦後、次第に自然崩壊したと考えられる。

銃眼は東向きに1つあり、ここより東側の海岸線いを射界に収めている。銃眼の大きさから機関銃用の掩体であったと思われる。

「トーチカ②」

海岸から2,3m先の海中に遺されている。建設当時は陸地であったのが、時間経過とともに周囲の土砂が流出して海中に取り残されたのだろうか。
比較的原型を保っているが、軟弱地盤の為に自然崩壊しつつある。壁面には大きな亀裂が入り、天蓋が崩落寸前である。

「トーチカ①」とほぼ同様の構造をしており、銃眼は東向きに1つある。陸地側(北側)が出入口になっている。

「トーチカ③」

海岸沿いに建設され、現在は半分以上埋没しているが、大きな崩壊は見られず、保存状態は良い。
銃眼は海に向かって1つだけあり、反対側(陸地側)に出入口がある。
壁面のコンクリートは板材で整形してあるが、天蓋は石を混ぜたコンクリートが盛ってあり、壁面に比べると造りが粗い。

天蓋の中央には通風孔と思われる小さな四角い穴がある。

「トーチカ④」

海岸から10m程内陸の斜面の麓に建設されている。銃眼は2箇所あり、左右(東西)に向いている。海岸線に対する側射を考慮したものであろう。
形状は五角形であり、ほぼ正方形の「トーチカ①~③」とは異なる。

出入口は側面(東側)にある。保存状態は良く、自然崩壊は殆ど見られない。

「トーチカ⑤」

海岸から5m程内陸の斜面の麓に建設されている。銃眼は2箇所あり、正面(南側・海側)と側面(西側)に向いている。
上部の天蓋の縁が面取りされている。

後方に出入口があり、「石垣」が積んである。この「石垣」は付近の「民家」の入口近くまで伸びており、当時に建設された「石垣」かどうかは不明である。

「トーチカ⑥」

海岸から15m程内陸の、斜面上に建設されている。銃眼は2箇所あり、正面(南側・海側)と側面(西側)に向いているが、側面の銃眼は木に埋もれている。

後部は地中に埋まっている。
「トーチカ⑥」の背後で斜面が終わって平坦になっており、そこに「壕」が掘られている。「壕」の内部に「トーチカ⑥」の出入口がある。
木や藪に覆われているが、保存状態は良い。

「トーチカ⑦」

海岸から5m程内陸の藪に建設されている。銃眼は2箇所あり、正面(南側・海側)と側面(西側)に向いている。後方に出入口があり、天蓋の中央には換気用と思われる小さな四角い穴がある。

側壁のコンクリートは整形されているが、天蓋は石や岩を混ぜたコンクリートが盛られており、厚みも側壁に比べて薄い。石や岩を混ぜてあるのは築城資材であったコンクリートを節約する為だったと考えられる。

「トーチカ⑧」

海岸から5m程内陸の藪に建設されている。大きな岩を積み、その上に石と岩を混ぜたコンクリートの天蓋が載っているが、各所が崩れており、あまり原型を保っていない。一部に銃眼らしき部分が確認できるが、天蓋の上には数本のボルトが固定されている等、何かの土台だった可能性もある。

銃眼と思しき部分も、内部は埋もれており、詳細不明である。

「トーチカ⑨」

海岸から5m程内陸の土手の上に建設されている。正面(海側)と左右(東西)の計3箇所の銃眼を備え、出入口は後方にある。また、天蓋の中央には円形の穴が開いてる。側壁・天蓋ともに整形されたコンクリートで、付近では最も完成度が高い。

内部には「13mm機銃」用と思われる「銃架」が遺されている。ちょうど真上に円形の穴があるが、当時はこの部分に何らかの構造物が載っていた可能性もある。

「日本軍トーチカ群」の歩き方

春島北東端にある。

「チューク国際空港」から島の北岸沿いに道路を東に向かう。途中、「旧日本軍陸橋」を越えて約4.7km行くと「T字路①」がある。

「T字路①」を右折して坂道を登りきると、「T字路②」があるので左折して坂道を下る。
なお、「T字路②」を右折して坂道を登っていくと「旧日本軍通信所(ザビエル高校)」や「ウィティポン山への登山道」がある。

「T字路②」から坂道を降りていくと海岸沿いの道に斜めに合流する「分岐」がある。「分岐」には4本の柱で囲まれた「消火栓」がある。
「分岐」で海岸沿いの道に合流したら右に鋭角に折れ、海岸沿いの道を西に向かう。

「分岐」から200m程(徒歩3分程)行くと左手(南側・海側)の道の脇に「トーチカ①」がある。

付近は、道の左手がすぐ海になっている。
道は真っ直ぐで見通しが利く為、少し手前から「トーチカ①」が見える。

「トーチカ①」から海岸沿いに更に西に向かう。

途中、コンクリートと石で固められた「船着場」を越え、「トーチカ①」から500m程(徒歩10分弱)行くと左手(南側・海側)の岸から2~3m程の海面上に「トーチカ②」がある。

付近は、道の左手がすぐ海になっている。
また、目の前の海は入江の様になっており、「トーチカ②」の正面(南側)には木々の生い茂った対岸がある。

「T字路②」から坂道を降りていくと海岸沿いの道に斜めに合流する「分岐」がある。「分岐」には4本の柱で囲まれた「消火栓」がある。
「分岐」で海岸沿いの道に合流したら道なりに左に曲がり、海岸沿いの道を東に向かう。

「分岐」から100m程(徒歩1分程)行くと、道の左手(北側・山側)が開けており、「民家」がある。

「民家」の手前の道の右手(南側・海側)の木立の下に「トーチカ③」がある。

「トーチカ③」から海岸沿いに更に東に向かう。

「トーチカ③」から100m程(徒歩1分程)行くと道の左右が開け、数軒の「民家」がある。

道が開ける所の左手(北側・山側)の道の脇に「トーチカ④」がある。

周囲は芝生になっており、「トーチカ④」の背後は斜面になっている。

「トーチカ④」から海岸沿いに更に東に向かう。

「トーチカ④」から300m程(徒歩5分程)行くと道の左手(北側・山側)の土手の上に比較的大きな「民家」がある。

この「民家」の敷地の入口付近の道の脇に「トーチカ⑤」がある。
「トーチカ⑤」の背後の「石垣」は土手の上の「民家」まで続いている。土手の上は私有地なので無断で立ち入ってはいけない。

「トーチカ⑤」から海岸沿いに更に東に向かう。

「トーチカ⑤」の上の土手の「民家」を越えてすぐに、道の左手(北側・山側)の土手の上に「トーチカ⑥」がある。

「トーチカ⑥」は道から5m程上の土手の斜面にあり、滑りやすいので足元に注意すること。

「トーチカ⑥」のすぐ上で土手が平らになっており、ここに「トーチカ⑥」の入口と「塹壕」がある。

「トーチカ⑥」から海岸沿いに更に東に向かう。

「トーチカ⑥」から200m程(徒歩3分程)行くと道の左手(北側・山側)に「トーチカ⑦」がある。

「トーチカ⑦」は道のすぐ脇にあるが、一部が藪に覆われている為、若干見つけにくい。

「トーチカ⑦」から海岸沿いに更に東に向かう。

「トーチカ⑦」から200m程(徒歩3分程)行くと道の左手(北側・山側)に「トーチカ⑧」がある。

「トーチカ⑧」は道のすぐ脇にあるが、藪に覆われ、崩れている為、分かりにくい。

尚、「トーチカ⑧」から300m程(徒歩5分程)行くと「旧日本軍桟橋」がある。「トーチカ⑧」の前の道からも前方(東側)に見えている。

「トーチカ⑧」から海岸沿いに更に東に向かう。

「トーチカ⑧」から300m程(徒歩5分程)行くと道の右手(南側・海側)の海上に「旧日本軍桟橋」がある。「桟橋」を越えた辺りから道が海岸線から離れていくが、海岸沿いに獣道があるのでこれを東に進む。途中、護岸の石垣の上も通る。

「桟橋」から海岸沿いに300m程(徒歩5分程)行くと藪の中に「トーチカ⑨」がある。
「トーチカ⑨」は海岸から3m程離れ、海面から1m程高い所にある。

旧日本軍桟橋

海岸沿いに「旧日本軍桟橋」が遺されている。

現在も「Japanese Dock」と呼ばれており、付近の住民に使用されているようである。
日本統治時代に建設されたようだが、いつ頃建設されたかは詳細不明である。

「桟橋」は土台が石垣で出来ている。
周囲は水深も浅い為、内火艇やカッター等の小型舟艇用であったと考えられる。

「旧日本軍桟橋」の歩き方

春島北東端にある。

「旧日本軍通信所(ザビエル高校)」の下の「T字路②」から海岸沿いの道に降り、「分岐」から海岸沿いに東に約1.2km行く。

途中、道沿いに「トーチカ③~⑧」がある。
「トーチカ⑧」を過ぎて300m程(徒歩5分程)行くと道の右手(南側・海側)の海上に「旧日本軍桟橋」がある。「桟橋」は「トーチカ⑧」辺りから右手前方に見える。

洞窟

「日本灯台跡」に向かう登山道の途中に「洞窟」が遺されている。

奥行きはあまり無く、壁面にも人が手を加えた跡が殆ど見られない為、自然に出来た「洞窟」であると考えられる。

当時、何らかの施設か防空壕として使われていた可能性もあるが、詳細不明である。

「洞窟」の歩き方

春島北東端にある。

「旧日本軍通信所(ザビエル高校)」の下の「T字路②」から海岸沿いの道に降り、「分岐」から海岸沿いに東に約1.2km行く。

途中、道沿いに「トーチカ③~⑨」がある。
「旧日本軍桟橋」を越えて300m程行くと左手(北側・山側)に「集落」が見えてくる。「トーチカ⑨」からも山側の「集落」に続くに獣道がある。

「集落」の中を山側に続く「道」が通っており、「道」の脇には一部に側溝がある。この「道」に沿って進む。

やがて「集落」が終わる辺りから山側に続く登山道になっていく。
尚、登山道の右側(海側)は崖になっており、下には「集落」が見下ろせる。

登山道を少し登ると、左側(山側)の土手に「洞窟」がある。

「集落」には日本灯台周辺の地権者がおり、この一帯で見学や写真撮影をするには地権者に見学料として1人5ドルを支払う。
現地人ガイドか付近の信頼できそうな人と同行すると、話がスムーズに進むだろう。

日本軍砲台跡(砲塔)

春島北東端の山中に「日本軍砲台跡」が遺されており、「単装砲塔」1基が遺されている。

「砲塔」は山の中腹の平坦な場所に据えられており、周囲には援体や壕などは無く、ほぼ野ざらしである。「砲塔」には「20cm 砲」1門が装備されている。

ここには、昭和18年(1943年)12月~昭和19年(1944年)3月にかけて海軍の「沿岸砲台」が建設され、「砲台」には4門の「20cm砲」が設置された。「砲台」は、トラック環礁の北東水道を扼する位置にあり、第四七警備隊が運用していた。

現在、「20cm砲」は1門のみ遺されているようであり、残り3門は所在不明である。

「砲身」の尾部にはイタリア語でSTABILIMENTO ARMSTRONG-POZZUOLIと刻印され、製造は明治35年(1902年)である。

これはイギリスのアームストロング社製の「8インチ速射砲」をイタリアでライセンス生産した事を示す。
即ち、この「20cm砲」は、明治時代にイタリアで建造された装甲巡洋艦「春日」「日進」が装備しており、後に取外してここに設置されたものである。

装甲巡洋艦「春日」である。

装甲巡洋艦「日進」である。

「春日」「日進」は、明治37年(1904年)1月~2月にイタリアのアンサルド社ジェノバ造船所で竣工したが、当初はアルゼンチンが発注した軍艦であった。 しかし、ロシアとの関係が悪化していた日本がイギリスの仲介によってこの2隻を購入、明治37年(1904年)2月16日、英海軍の護衛を受けて日本に回航された。
そして、明治37年(1904年)2月8日には日露戦争が開戦、翌明治38年(1905年)5月27日、連合艦隊は対馬海峡於いてロシア海軍バルチック艦隊を迎え撃った。世に言う日本海海戦である。

「春日」「日進」は連合艦隊の一員として第一艦隊第一戦隊に配属され、日本海海戦に参加した。この海戦では日本海軍連合艦隊が圧倒的な勝利を収め、同年9月5日に日露戦争の講和が行われた。
大正10年(1921年)9月、「春日」「日進」は旧式艦となり第一線を引退、海防艦に類別変更され、装備していた「20cm砲」は取外された。そして後に、これら旧式艦砲が沿岸砲台に転用された。

「春日」「日進」の「20cm砲」は、当初は「連装砲塔」に装備されていたが、ここに遺されている「20cm砲」は「単装砲塔」に装備されている。

これは、「春日」「日進」の「連装砲塔」から「20cm砲」を取外し、沿岸砲台で再使用する際に、別な艦の「単装砲塔」に載せ替えた為だと思われる。

大東亜戦争開戦後、「春日」「日進」の「20cm砲」はトラック諸島の「沿岸砲台」に転用され、「単装砲塔」と共にここまで運ばれてきた。
即ち、この「20cm砲」は、日本海海戦に於いてバルチック艦隊と戦った戦歴を持ち、明治35年(1902年)製造という大東亜戦争当時でも既に40年以上前の老兵であったが、その老骨に鞭打って再び第一線の護りに就いたのである。

この「20cm砲」は、当初はシンガポールの英軍要塞に設置されていたものを大東亜戦争後の昭和17年(1942年)2月に日本軍が捕獲した、と伝えられていたがこれは誤りである。
また、「砲塔」の形状が「砲室(砲郭)」に似ている事から、イギリスで建造された戦艦「金剛」の副砲である、と伝えられていた事もあったがこれも誤りである。「金剛」の副砲は「15cm砲」で、「20cm砲」よりもひとまわり以上小さい。

因みに、ギルバート諸島タラワ環礁ベティオ島には、同様の経緯で、明治時代の装甲巡洋艦「常盤」「磐手」の「20cm砲」が遺されている。

「日本軍砲台跡(砲塔)」の歩き方

春島北東端にある。

「旧日本軍通信所(ザビエル高校)」の下の「T字路②」から海岸沿いの道に降り、「分岐」から海岸沿いに東に約1.2km行く。

「旧日本軍桟橋」を越えて300m程行くと左手(北側・山側)に「集落」が見えてくる。「トーチカ⑨」からも山側の「集落」に続くに獣道がある。

「集落」を抜け、山に向かって登山道を登る。途中、「洞窟」を越えて更に進む。

「洞窟」から登山道に沿って進むと、途中に2軒程の「民家」がある。

「洞窟」から300m程(徒歩5分程)行くと、「民家」の庭先に「「日本軍砲台跡(砲塔)」がある。

付近は私有地のようであるが、日本灯台周辺の地権者に見学料を支払っておけば、改めてここで見学料を支払う必要は無い。
現地人ガイドか付近の信頼できそうな人と同行すると、話がスムーズに進むだろう。

日本軍観測所跡

春島北東端の山中にコンクリート製の「掩体」や「壕」が遺されている。

「援体」の2,3m横の地面には、内部をコンクリートと鉄板で固めたタコツボ状の「壕」がある。
「壕」の内部には横穴があり、地下通路が「援体」まで続いている。

これらは、「砲塔」から更に登った斜面にあり、「砲台」の「観測所」であったと考えられる。

「援体」は分厚いコンクリートの天蓋を持ち、銃眼状の窓が三方に開いているが、窓は細長い形状をしている為、射撃用の銃眼ではなく、観測用の監視孔であると考えられる。

監視孔は地面とほぼ同じ高さである。また、コンクリートの側壁は隅や天蓋の縁が面取りされている。

「掩体」には直接の出入口は無く、2,3m横の「壕」の横穴から地下通路を通って出入する構造になっている。

「日本軍観測所跡」の歩き方

春島北東端にある。

「砲塔」の裏手から少し登った山の斜面である。
「日本軍砲台跡(砲塔)」の歩き方を参照。

「砲塔」の直ぐ背後は斜面になっており、更に上に登る獣道がある。

獣道を3分程登っていくと、斜面の途中にやや平らになった場所がある。

ここの右手に「日本軍観測所跡」がある。
獣道の脇に入口の「壕」があり、そのすぐ先にコンクリート製の「援体」がある。

「日本軍壕跡」「探照灯」

島北東端の山中に「弾薬庫」と思しき「日本軍壕跡」が遺されている。
「弾薬庫跡(壕跡)」は山の斜面に横穴状に掘られており、天井は分厚いコンクリートで、壁面は交互に組んだ石垣で造られている。

奥には小さな入口があり、内部に部屋があったようだが、現在は土砂でまっている。

「砲塔」「観測所跡」から少し登った場所にある事から「弾薬庫」だったと思われる。

「砲塔」「観測所」「弾薬庫」等、「砲台」関連の施設だったのだろうか。

「弾薬庫跡」の入口付近には「探照灯」が遺されている。「台座」から外れて転がっている。

「外殻」や「架台」は遺っているものの、内部のレンズや球は失われている。

形状から海軍の「110cm探照灯」であると思われるが、詳細不明である。

「外郭」は一部腐食している。

「台座」は円形で、中央に支柱がある。
「架台」が載る部分にの内側には歯車が切られている。

「探照灯」はちょうど「弾薬庫跡」の出入口にあるが、当時からここにあったのか、別な場所にあったのを移動させたのか、詳細不明である。
尚、同様の「探照灯」は春島東部のウィティポン山の山頂付近にも遺されている。

「弾薬庫跡」のやや上に「建物跡」が遺されている。
「建物跡」は鉄板と鉄骨で造られており、周囲には「石垣」が組まれている。

鉄板は薄く、一部が腐食している。銃眼等も無い事から、「トーチカ」や「援体」の様な防御施設では無いと思われる。何らかの「土台」にも見えるが、詳細不明である。

大東亜戦争末期、この周辺には海軍第四七警備隊が展開し、「沿岸砲台」を設営していた。また、付近には同部隊が運用する「高角機銃座(対空陣地)」があった模様であり、その関連の施設だったと思われる。

「日本軍壕跡」「探照灯」の歩き方

春島北東端にある。

「砲塔」の裏手から登った山の斜面である。
「日本軍砲台跡(砲塔)」の歩き方を参照。

「砲塔」の直ぐ背後から獣道を登っていく。
途中、「観測所跡」を越えて更に登る。

「観測所跡」から更に3分程登っていくと、やや平坦な場所があり、奥に獣道が続いている。

そのまま行くと「建物跡」があり、すぐ側の崖の下に「弾薬庫跡」「探照灯」がある。

日本灯台跡

春島北東端の山中に日本統治時代の「灯台跡」が遺されている。
この「灯台」は、昭和12年(1937年)に建設され、北東水道から環礁にはいる船舶の道しるべとなった。その後、大東亜戦争末期には付近に「砲台」が設営され、「灯台」は「監視所」として使用された。

現在は「灯塔」「灯室」が遺されているが、「灯ろう」「灯ろう屋根」は失われている。また、「灯塔」「灯室」の側面には米軍機の機銃掃射による弾痕が多数遺されている。

「ザビエル高校」の屋上から「灯台跡」を見る。

「灯台跡」は春島北東端の山頂にある。

現在、春島東端はSapukと呼ばれているが、日本統治時代に「灯台」が建設されると、「灯台山」と呼ばれていたそうである。
戦後も「日本灯台(Japanese Lighthouse)と呼ばれ、現地でも特徴的なランドマークとして知られている。「灯台山」の麓にある「ザビエル高校」の校舎内に生徒が製作した壁画にも「日本灯台」が描かれている。

「灯塔」の基部は半円形の「建屋」になっており、内部の床や壁の一部にはタイルによる装飾が成されている。特に床のタイルは当時のままである。

半円形の部分の外側には柱が並んでおり、テラスの様な造りになっている。

尚、マリアナ諸島のサイパン島にも「日本灯台跡」が遺されており、「灯塔」「灯室」の形状や、基部にある「建屋」の造りがよく似ている。同一の規格で建設されたのであろうか。

「灯室」の内部には「灯ろう」に続くレンズ部分の基部が遺されている。現在は、「灯ろう」「灯ろう屋根」は失われており、内部のレンズも失われている。

「灯室」の周囲はテラスになっており、更に上の「灯ろう」に続く「梯子」が遺されている。「梯子」には機銃掃射による弾痕が遺されている。
これらの弾痕の多くは、昭和20年(1945年)6月14日の英海軍による空襲・艦砲射撃の際、英軍艦載機の機銃掃射によるものである。この時、「灯台」の上部で対空戦闘の指揮を執っていた高角機銃の指揮官が、弾片によって戦死したそうである。

「日本灯台跡」の歩き方

春島北東端にある。

「砲塔」の裏手から登った山の頂上である。
「日本軍砲台跡(砲塔)」の歩き方を参照。

「砲塔」の直ぐ背後から獣道を登っていく。

途中、「観測所跡」を越え、3分程登ると「弾薬庫跡」がある。「弾薬庫跡」の裏手(山側)から更に獣道が続いており、途中にコンクリートの「段差」がある。

「段差」を越えてすぐ、前方(西側)に「日本灯台跡」が見えてくる。ちょうど山の頂上にあたる。
「灯台跡」を挟んで反対側(西側)には、「灯台跡」に続く当時の「階段跡」がある。

「灯台跡」の麓(西側・海側)の「集落」には日本灯台周辺の地権者がおり、この一帯で見学や写真撮影をするには地権者に見学料として1人5ドルを支払う。
現地人ガイドか付近の信頼できそうな人と同行すると、話がスムーズに進むだろう。「集落」へは「洞窟」の歩き方を参照。