「九五式軽戦車(95式軽戦車)」とは
「九五式軽戦車」は大東亜戦争全期間を通して使用された日本陸軍の軽戦車である。
「九五式軽戦車の開発」
「九五式軽戦車」陸軍では、国産初の主力戦車であった「八九式中戦車」の速度が遅く、歩兵やトラックに随伴しての作戦行動が困難であるという点に鑑み、新たに機動力を重視した戦車の開発を開始した。この戦車は機動力の重視と多数を装備するという目的から軽戦車として開発され、昭和10年(1935年)、「九五式軽戦車」として正式採用された。
本車の開発に於いて、機動力の重視と、日本国内の輸送事情によって重量が7t前後に制限された。また、本車のエンジンは空冷ディーゼルエンジンが採用された。ディーゼルエンジンは被弾時の火災の危険性が少なく、燃料調達が容易、冷却水補給が不要で製造時の工作が簡素化できる利点があった。反面、重量に対して出力が少なく、重量や寸法が大きくなってしまう不利もあった。結果、重量軽減が主眼の本車の開発に於いて火力・防御力が犠牲にされることになった。
「九五式軽戦車の特徴」
本車の装甲は最大12mmという当時の諸外国の軽戦車と比較しても薄いものであった。これは本車の開発に於いて、重量の制限があった為、装甲の厚みを犠牲にして重量軽減を図らざるを得なかったからである。さすがに、本車の装甲の薄さは否めず、場所によっては小銃弾でも貫通してしまう場合があった。これに関しては、後に車体側面に避弾経始に優れた円錐形のバルジ(張出部)を装着するなどの対策も実施された。
本車の主砲は、「九四式三十七粍戦車砲」を装備していた。この砲は対戦車戦を意識した比較的初速の高い速射砲であった。併しながら、非常に狭い本車の砲塔に収めるよう設計されたこの砲の薬室は小さく、砲弾の装薬も少なかった。その為、同口径の速射砲に比較して初速が小く、貫徹能力も劣る事になった。また、砲塔後部と車体前面に車載銃(「九七式車載重機関銃」)をそれぞれ装備していた。
本車の乗員は3名。車体右前方に操縦手、車体左前方に無線手兼前方銃手がすわり、砲塔内に車長が位置する。本車の砲塔は非常に狭い上に、砲塔後部には車載銃が装備されていた。その為、本車の車長は主砲の操作、車載銃の操作、周囲の監視、指揮を行わねばならず、かなりの負担であったという。
本車は、軽量であるが為に火力・防御力においては十分とは言い切れなかった。結果、陸軍の主力戦車にはなり得ず、更なる主力戦車として「九七式中戦車」が開発されていく。
「実戦に於ける九五式軽戦車」
本車は正式採用後に量産が開始され、部隊で運用されるようになるとあらゆる戦場で活躍した。特に本車の機動力と信頼性の高さには定評があった。昭和14年(1939年)の「ノモンハン事件」に於いては、本車の機動力と戦車兵の練度の高さで辛くもソ連軍戦車に対抗できた。対戦車戦闘以外にも偵察・連絡にも多用された。
昭和16年(1941年)の大東亜戦争開戦後も緒戦の「南方作戦」に於いても、その機動力と信頼性の高さをを生かして「マレー半島攻略」に活躍し、連合軍を圧倒した。
併しながら、本車の本質的な火力・防御力不足を機動力や戦車兵の練度で補う事も限界になってきた。緒戦に於いて遭遇した「M3軽戦車(スチュアート)」に対して苦戦を強いられたのである。「M3軽戦車(スチュアート)」は同じ軽戦車とはいえ重量は倍、装甲も3倍近い厚みだった。やがて連合軍の反撃が開始されると共に出現した「M4中戦車(シャーマン)」に対しては、最早本車の火力・防御力を以ってしては成す術は無かったのである。
本車の後継である「二式軽戦車」や、本車の車体を利用した「三式軽戦車」「四式軽戦車」の開発も行われたが、結局は量産に至らなかった。連合軍の戦車に対抗するのに、軽戦車ではその能力に限界があったのである。結果、本車が陸軍の主力軽戦車として大東亜戦争を戦い抜く事になったのである。
尚、本車の一部(40~50両)が当時の友好国であったタイ王国に輸出され、大東亜戦争開戦前の仏印での国境紛争で活躍している。更に、戦後に各地に残された本車は、それぞれの地域で各勢力によって使用されている。中国大陸での国共内戦においては、国民党軍・共産軍共に本車を使用している。仏印に於いては、フランス軍が独立運動勢力に対して使用している。
「九五式軽戦車の性能」
全長4.30m 全幅2.07m 全高:2.28m 重量:7.4t
武装:九四式三十七粍戦車砲 九一式車載機関銃(口径:6.5mm)又は九七式車載重機関(口径:7.7mm)
装甲:車体前面12mm 車体後面10mm 砲塔外周12mm 砲塔上面9mm
エンジン:三菱 NVD 6120 4ストローク直列6気筒空冷ディーゼル 120 馬力
乗員:3名 製造数: