九四式軽装甲車

「九四式軽装甲車(94式軽装甲車・TK車)」とは

「九四式軽装甲車(94式軽装甲車・TK車)」は支那事変から大東亜戦争全期間を通じて使用さた日本陸軍の軽装甲車(装甲牽引車・豆戦車)である。

「軽装甲車」とは

通常、「装甲車」とは装甲板によって防弾を施された装輪式(タイヤ・車輪を装備)車両を指す。
日本陸軍では、小型の装軌式(履帯・キャタピラ・クローラーを装備)装甲車両を「軽装甲車」と呼称した。当時(1920年代後半~1930年代前半)、この様な車両は世界各国で開発され、日本国内では一般的に「豆戦車」「豆タンク」と愛称された。

「カーデン・ロイド機関銃運搬車Mk.VI」

各国で小型装甲車両が開発された理由には、当時(1920年代後半~1930年代前半)の世界情勢があった。第一次世界大戦(大正3年7月28日~大正7年11月11日)後、不況に見舞われた列強は一様に軍縮を行っていた。その為、新たに開発・装備する兵器に関して経済性が重視されていた。そこで、この経済性を徹底的に追求した車両として、イギリスのマーテル社やカーデン社などに於いて、乗員2名・全備重量2t程度の小型装甲車両が相次いで開発された。
時勢柄、これら小型装甲車両は各国陸軍に忽ち広がった。また、イギリスの「カーデン・ロイド機関銃運搬車Mk.VI」は特に優秀で、これを模倣した車両が各国で製作された。

これら小型装甲車両は安価であり、大量の数を揃えるのには適していた。その為、一時期は各国で開発・生産され、大量に装備された。併しながら、これら小型装甲車両は戦闘車両としての性能は十分とは言えなかった。武装は機関銃1挺または機関砲1門を装備する程度で、装甲も薄く(小銃弾に耐えうる程度)、オープントップ(無天蓋)の車両もあった。結果、一時は一世を風靡した小型装甲車両の開発も次第に行われなくなった。
しかし、小型装甲車両は小型・軽量であるが故の運用のし易さから、その後も戦場の裏方として活躍した。多くは被牽引車を牽引して危険物(弾薬・爆薬等)運搬を主とする「装甲牽引車」として運用され、また、機動性・隠密性の高さから偵察・連絡などの任務も使用された。

日本陸軍に於ける「装甲牽引車」の開発

日本陸軍でも、この様な小型装甲車両を研究する為、イギリスの「カーデン・ロイド機関銃運搬車Mk.VI」を輸入した。
昭和6年(1931年)3月~10月、輸入した「カーデン・ロイド機関銃運搬車Mk.VI」を歩兵学校・騎兵学校に交付し、その実用性について各種試験が実施された。
その試験結果に基づき、陸軍技術本部に於いて、以下の様な「装軌式牽引車」の開発案がまとめられた。
   ・被牽引車を牽引し、前線への危険物(弾薬・爆薬)運搬を行う。(「カーデン・ロイド機関銃運搬車Mk.VI」と同形式)
   ・車体全面に装甲を施す。(「カーデン・ロイド機関銃運搬車Mk.VI」は車体全周のみに装甲を有し、車体上面は無天蓋)
   ・車体上面に、自衛用の機関銃1挺を装備した旋回砲塔を搭載する。(「カーデン・ロイド機関銃運搬車Mk.VI」は車体前面に機関1挺装備)

ここで、旋回砲塔を搭載する事が決められた背景には、以下のことが影響していたと考えられる。
当初(昭和4年~6年頃)は歩兵連隊で運用していた戦車(「八九式中戦車」)が、この頃(昭和7年~8年頃)には歩兵連隊から独立して戦車連隊で運用され、歩兵連隊では歩兵が運用可能な戦闘車両の必要性を感じていた。そこに、新たな小型装甲車両の開発が開始される事になった為、これを牽引車両としてのみならず戦闘車両としても運用可能な仕様にしたいと言う、陸軍の意図があったと思われる。

上記開発案に基づいて、昭和7年(1932年)、陸軍技術本部に於いて設計が開始され、原乙未生少佐が担当した。

また、この車両の懸架装置(サスペンション)は、横置コイル・スプリングによるリンク式サスペンション(連成懸架)が新たに考案され、採用される事になった。この横置コイル・スプリングは、従来の戦車に用いられていた縦置コイル・スプリングやリーフスプリング(板バネ)に比べて有効伸縮長を多く取れる為、車両の走行安定性を向上させる事が可能であった。

「九四式軽装甲車(試作車)」と被牽引車(「九四式三/四瓲積被牽引車」)↑

昭和8年(1933年)、東京瓦斯電気工業に発注された試作車が完成した。
この試作車は「TK車」と呼ばれ、「特殊(T)牽引(K)車」の秘匿名であった。これには、当時、装軌式の戦闘車両(所謂「戦車」)の製作・生産は三菱重工業が担当していた為、戦車に形状の似ている(旋回砲塔・履帯を装備している)この試作車を「特殊な牽引車両である」とした、陸軍の配慮もあった。

この試作車は北満(中国東北地方北部)での冬季試験を行い、転輪形状の大型化や排気管形状の変更などの修正を実施した後、昭和9年(1934年・皇紀2894年)、この年の皇紀の下2桁を採って「九四式装甲牽引車」として仮採用された。
完成した車両は、制式化に於いては「九四式軽装甲車」と名称が改められた。
これは、本車を牽引車両としてだけではなく戦闘車両として運用することを想定していた、陸軍参謀本部の指示であった。

また、被牽引車の開発も本車の開発と平行して行われ、昭和8年(1933年)、東京瓦斯電気工業に試作車が発注された。
昭和8年(1933年)12月、積載重量750kg、装軌式で装甲を施した被牽引車の試作車が完成し、昭和9年(1934年)、「九四式三/四瓲積被牽引車」として制式化された。

「九四式軽装甲車」の特徴

「九四式軽装甲車」本車の特徴の一つは、機関銃1挺を装備した旋回砲塔を搭載している事であった。

これは、同時期の各国の「装甲牽引車」と異なる点であった。
そしてこの事は、本車が牽引車両である「装甲牽引車」としてだけではなく、戦闘車両である「軽装甲車(豆戦車)」として運用も想定していた事を示すものであった。

本車は、旋回砲塔に装備した機関銃が全周界に射撃が可能であり、車体前面にある程度の装甲が施され、履帯(キャタピラ)によってある程度の悪路走破性を備え、更に小型・軽量であった。
この様な本車は、「装甲牽引車」としてよりも、歩兵に随伴し、装備した機関銃によって支援射撃を行う、小型の戦闘車両として運用された。そして、実際に運用してみると戦闘車両として実に使い勝手が良かった。

機関銃は砲塔前方の銃架(ボールマウント)に装備され、砲塔を固定したままでもある程度の射界を得る事が出来た。砲塔には旋回用ハンドル等は無く、射手(兼車長)が機関銃を肩で押す事で砲塔を旋回させた。砲塔上部にはハッチが設けられ、砲塔前方(機関銃側)に開く事が出来た。また、砲塔側面には手旗用・観察用の小さなハッチが設けられた。

本車のもう1つの特徴は、懸架装置(サスペンション)の形式であった。
本車の開発に於いては、新たに考案された横置コイル・スプリングによるリンク式サスペンション(連成懸架)が採用されていた。
左写真によって、本車の懸架装置(サスペンション)の様子が分かる。(←)

下側中央の転輪4個は、転輪2個×2組となっており、転輪2個(1組)はハの字型のアームでシーソー式に連結(ボギー式転輪)されていた。ボギー式転輪1組(転輪2個)に取り付けた曲柄(サスアーム)が、これら転輪4個(2組)のすぐ上部の筒状の覆いに伸びていた。この筒状の覆いの中には横置コイル・スプリングが設置され、曲柄(サスアーム)は、この横置コイル・スプリングの両端に連結されていた。
ボギー式転輪1組(転輪2個)のシーソーの動き(上下の動き)が横置コイル・スプリングに伝えられて衝撃を吸収する仕組みとなっていた。

この懸架方式は、その後の日本軍装軌式(キャタピラ)車両の代表的懸架方式となり、後の 「九五式軽戦車」「九七式中戦車」などにも採用された。

本車の履帯(キャタピラ)は外側ガイド式(履帯外側にガイド用の爪がある)であった為、急旋回時に外れ易かった。後に、履帯(キャタピラ)の接地長を延長したり、誘導輪の形状・懸架方式を変更するなどの対策も採られたが、根本的な解決には至らなかった。外側ガイド式履帯(キャタピラ)は、本車以降は採用されず、その後の日本軍装軌式(キャタピラ)車両の履帯(キャタピラ)は全て内側ガイド式(履帯内側にガイド用の爪がある)であった。

更に、車体に全溶接構造を採用した事も本車の特徴であった。
全溶接構造の採用により車体の軽量化が可能になった。
車内は、車体前方に変速装置(ギアボックス)を、その後方左側にエンジンを配置していた。操縦席は車体前方右側(エンジンの右)にあり、車体後方が戦闘室になっており、戦闘室上部に砲塔が搭載されていた。車内は戦闘室・操縦席とエンジン室との仕切り等は無かった。

エンジンは、直列4気筒空冷ガソリンエンジンが採用され、最高出力35馬力(2500rpm)であった。非常に軽快なエンジンであり、信頼性は高かったが、出力的には非力感は否めず、本車を3名で押さえると発進できなかったと言われている。当初はドイツ製であったが、後に国産化された。

エンジンは操縦席のすぐ左にあった為、車内で操縦手が容易に調整できた。併しながら、エンジン室との仕切り等が無い事で、戦闘室・操縦室に熱気・騒音が直接流入し、夏季に密閉状態の本車内で30分以上の戦闘を行う事は、乗員にとっては非常に負担であった。

後に、ディーゼルエンジン搭載の車両も製作された。
この場合、エンジンの位置は車体前方右側に変更され、それに伴って操縦席は左側に変更されていた。この車両は、ごく少数が試作された。

砲塔上部と操縦席上部にはハッチが設けられ、砲塔前方・車体前方に開く事が出来た。これらは、本車からの乗降用に使用された。
また、車体後面には大きなハッチが設けられていた。砲塔上部や操縦席上部のハッチは位置が高い為、これらハッチからの乗降は、戦闘時はに敵弾を受ける可能性があった。そこで、この車体後面のハッチが、特に戦闘時に於ける本車からの乗降用に使用された。

この車体後面のハッチは、本車が「装甲牽引車」としても設計されていた為、車体後部に連結される被牽引車の着脱作業や荷物の積降作業時の利便性を考慮して設けられていた。車体後部には被牽引車を連結するフックが、緩衝用のリーフスプリング(板バネ)を介して装備されていた。

本車の乗員は2名であった。
1名は操縦席に位置する操縦手、もう1名は砲塔内に位置する射手兼車長であった。

本車には、無線機等は装備されておらず、外部との疎通は、ハッチから身を乗り出して行うか、砲塔側面に設けられた小さなハッチから手旗を出す事で行われた。

本車が装備した機関銃は「九一式車載軽機関銃」であった。
これは、「十一年式軽機関銃」(大正11年・1922年制式採用)を車載用に改造した機関銃であった。口径6.5mm、装填架(ホッパー式弾倉)で給弾し、45発装填可能であった。
弾薬は「三八式実包」を使用し、弾薬携行数は1980発であった。

後に、「九七式車載重機関銃」(昭和12年・1937年制式採用)が登場すると順次換装され、武装が強化された。
「九七式車載重機関銃」は、口径7.7mm、箱型弾倉(20発入り)で給弾した。
弾薬は「九二式実包」を使用し、弾薬携行数は1980発であった。
また、銃架(ボールマウント)から取外し、二脚架を装着して車外で射撃を行う事も可能であった。

この時、それまでの戦訓によって、車外に露出している機関銃の銃身に保護用覆い(装甲ジャケット)が装備された。また、「九七式車載重機関銃」の照準眼鏡には、射手の眼を機関銃発射時の反動から保護する為、接眼部に厚いゴム製クッションが装備された。

また、武装を機関銃1挺から口径37mmの「九四式三十七粍戦車砲」1門に換装し、火力強化を図った車両も製作された。

「九四式三十七粍戦車砲」は、「九四式三十七粍砲」を車載用に改造した砲であり、「九五式軽戦車」(昭和10年・1935年制式採用)にも搭載されていた。

この車両は試作に留まり量産はされなかったが、本車の後継として開発された 「九七式軽装甲車」には「九四式三十七粍戦車砲」が搭載された。

本車の装甲は、車体が前面12mm・側面8mm~10mm・後面8mm・上面6mm・下面4mmであり、砲塔が前面12mm・側面10mm・後面10mm・上面6mmであった。

この装甲板の厚みは、小銃・機関銃弾の射撃に耐えられる程度の防御力を有していた。
当然、対戦車砲や大口径機関銃などに対しては殆ど無力であったが、これに関しては本車が純粋な戦闘車両ではなく、あくまで牽引車両に戦闘能力を付加した車両であり、小型・軽量である事が運用上必要であった事を考えると、やむを得ない部分もあった。

併しながら、日本陸軍(陸軍技術本部第四研究所:装甲車両の研究を担当))に於ける装甲板の試験では、当時、日本陸軍が使用していた「三八式実包」(口径6.5mm)や「九二式実包」(口径7.7mm)による耐弾試験は行われていたが、それ以外に各国が使用していた小銃弾・機関銃弾による耐弾試験は十分に実施されていなかった。

その為、「三八式実包」(口径6.5mm)や「九二式実包」(口径7.7mm)に対しては十分耐えうる厚みとされた装甲板は、当時の中国軍が主使用していた強力な小銃弾・機関銃弾(モーゼル式・口径7.92mm)に対しては耐弾性が不十分であった。
結果、中国大陸での戦闘に参加した本車の多くは、至近距離で発砲された中国軍の小銃弾・機関銃弾に装甲板を貫通されてしまう事があった。

この事は後に開発された日本軍の戦闘車両に関しても同様であり、「九五式軽戦車」(昭和10年・1935年制式採用)等も、小銃弾・機関銃弾に耐えうるとした装甲を施されたにも関わらず、実際は中国軍の小銃弾・機関銃弾が装甲板を貫通してしまい、被害を蒙る事が多々あった。

「九四式軽装甲車」の配備・運用

本車は、制式採用後(昭和9年・1934年)直ちに量産が開始され、昭和10年(1935年)には300両が生産された。生産は東京瓦斯電気工業(現:いすゞ自動車工業)で行われた。
本車用に開発された被牽引車である「九四式三/四瓲積被牽引車」は、本車が牽引車してよりも戦闘車両として運用された事もあり、ごく少数の生産に留まった。

本車の部隊配備は昭和10年(1935年)頃から開始され、戦車中隊に本車1個小隊が編成された。
また、歩兵師団内に戦闘車両の運用を研究する為の軽装甲車訓練所が新設された。後に、軽装甲車訓練所は11個歩兵師団に設立され、歩兵師団に於ける機甲兵器の普及・運用の母体となっていった。

更に、独立軽装甲車中隊も編成され、本車が配備された。
昭和12年(1937年)7月7日、支那事変が始まると勃発に伴い、7個独立軽装甲車中隊が動員され、中国大陸に於ける戦闘に参加した。独立軽装甲車中隊は順次増設され、昭和12年(1937年)12月には、13個中隊に達した。この独立軽装甲車中隊は、後に戦車連隊への母体となった。

戦車中隊や独立軽装甲車中隊に配備された本車は、戦車(「八九式中戦」「九五式軽戦車」)と共に、機甲兵力の一翼として活躍した。特に、独立軽装甲車中隊は戦車中隊と同様の任務を与えられ、歩兵戦闘時に於ける近接火力支援を行った。

本車は非常に軽量(全備重量:3.45t)であった為、運用面に於いて特別な資材を殆ど必要としなかった。渡河に於いても戦車橋・重門橋等は必要なく、丸太や板材で急造した簡易な橋で十分であり、重量のある戦車が通過できないような地形に於いても、歩兵に追随する事が出来た。

この様に、本車はその使い勝手の良さから歩兵と共に行動する事が多く、歩兵にとっては戦車(「八九式中戦」 「九五式軽戦車」)よりも身近な装軌式装甲戦闘車両であった。
その為、歩兵からは「豆戦車」「豆タンク」の愛称で呼ばれて信頼され、更に、この愛称は当時の日本国内でも大いに報道されて国民にも親しまれた。

昭和14年(1939年)10月、独立軽装甲車中隊は戦車連隊に昇格した。
戦車連隊に「九五式軽戦車」(昭和10年・1935年制式採用)や 「九七式中戦車」(昭和12年・1937年制式採用)が配備されるに従って、本車と置き換えられていった。

また、昭和12年(1937年)頃、それまで馬によって捜索(偵察)・連絡を行っていた騎兵の機械化が実施されており、歩兵師団の騎兵(師団騎兵)は捜索連隊として改編されていた。
この捜索連隊には軽装甲車中隊が新設され、馬に替わる移動手段として小型・軽量である軽装甲車を採用した。本車は、1個軽装甲車中隊に7両~16両配備された。

捜索連隊の運用する本車は、歩兵師団が独自に運用できる唯一の装軌式装甲戦闘車両として重宝され、捜索(偵察)・連絡等の任務以外にも、歩兵戦闘時の支援車両(「豆戦車」「豆タンク」)として火力支援を行った。

師団騎兵の機械化・捜索連隊への軽装甲車の配備は順次行われ、昭和14年(1939年)には、多くの歩兵師団が軽装甲車装備の捜索連隊を持っていたが、この頃になると、本車の後継として開発された「九七式軽装甲車」(昭和12年・1937年制式採用)の生産・配備が進んでおり、本車は次第に第一線から退いていった。

併しながら、本車は機甲兵器の絶対数が不足していた日本陸軍に於いては数少ない装軌式装甲戦闘車両であり、また、特殊な運用資材や大勢の人員を必要としないという使い勝手の良さから、依然として貴重な車両であった。
その為、第一線から退いた後も、あらゆる戦場に於いて各種任務に使用され続けた。特に、大東亜戦争後半の南方の島嶼防衛に於いても使用され、終戦まで歩兵と共に最前線で戦い続けた。

本車は戦闘車両として見た場合、武装・装甲は十分ではなく、エンジンも非力であり、その他幾つかの問題点もあった。併しながら、本車が多数が生産され、独立軽装甲車中隊や師団騎兵(後の捜索連隊)へ配備されて運用された事には重要な意義があった。

独立軽装甲車中隊は、昭和14年(1939年)10月、戦車連隊へと昇格し、更にその後、戦車連隊によって戦車師団が編成された。戦車師団は日本陸軍の機甲兵器運用の中核となっていった。
また、歩兵師団内に創設された軽装甲車訓練所では歩兵師団での戦闘車両運用の研究が行われた。それは、騎兵の機械化の促進と、それに伴う捜索連隊(師団騎兵)での軽装甲車の普及・運用に繋がっていった。

日本陸軍に於いて機甲兵器が普及・発展し、その運用が可能になっていった背景には、規模の大きな戦車(「八九式中戦車」「九五式軽戦車」「九七式中戦車」)の開発・配備・運用だけではなく、本車のような小型・軽量の戦闘車両(「豆戦車」「豆タンク」)多数が配備・運用された事で得られた経験値が大きく貢献していたであろう。

本車は、その後の日本陸軍に於ける機甲兵器運用の基礎を築いたという点で、その果たした役割は大きかったと考えられる。

「九四式軽装甲車」の改良

本車が実戦に参加した結果、幾つかの問題点も明らかになった。 主な問題点は下記の通りであった。 ・戦闘車両としては火力・防御力が不足していた。             → 武装が機関銃1挺のみ。小銃弾が貫通する事があった。 ・牽引車両としてはエンジン出力が不足していた。             → 悪路走破性が悪く、荷重時の発進も困難だった。 ・戦闘室・操縦席とエンジン室との仕切り等が無かった。             → エンジンの熱気・騒音が乗員への負担になった。 ・覗視孔(車外観察用の横に細長い穴・スリット)に防弾ガラスが無かった。             → 敵弾が乗員の眼・顔面に危害を及ぼした。 ・履帯(キャタピラ)幅・接地長が短かった。             → 機関銃発射時に車体が安定しなかった。             → 悪路走行時にピッチング(縦揺れ)を起して走破性が悪かった。 ・履帯(キャタピラ)が外側ガイド方式であった。             → 急旋回時に外れやすかった。 ・乗員2人では戦闘時に支障があった。             → 1人が負傷した場合、もう1人が戦闘・操縦をしなければならなかった。

「九四式軽装甲車(後期改修型)」

これら戦訓を取り入れた改良が実施され、改修した車両が製作された。
この車両は「改修九四式軽装甲車」と呼称され、「後期改修型」とも通称された。昭和11年(1936年)から生産が開始された。生産は東京瓦斯電気工業(現:いすゞ自動車工業)と三菱重工業で行われた。「従来型」からの主要な変更点は以下の通りであった。

・誘導輪(後部転輪)を大型化して接地させた。
・誘導輪(後部転輪)に曲柄(スイングアーム)・減衰装置(ショックアブソーバー)を追加した。
・履帯(キャタピラ)を延長した。それに伴い、泥除け(フェンダー)を後部まで延長した。
・被牽引車(トレーラー)が干渉が車体にしない様、車体後部の牽引フックを延長した
・履帯(キャタピラ)緊張装置のクランクを延長した。
・履帯(キャタピラ)緊張装置の格納位置を車体右側から車体上部に変更した。
・標識(ナンバープレート)支持架を延長した。
・車内(操縦席・戦闘室)に耐火パネルが装着された。

改修点の殆どは、誘導輪(後部転輪)の大型化による履帯(キャタピラ)の延長に関してであった。

「後期改修型」は履帯の接地長が「従来型」より78cm増加し、走破性・安定性の低さは改善され、高速走行・不整地走行・行進間射撃が容易になった。しかし、そもそも本車は小型・軽量に設計されていた為、超壕能力・超堤能力はさほど改善しなかった。

この「後期改修型」は、支那事変に於ける「広東攻略」(昭和14年)の頃が初陣であると考えられる。「後期改修型」を装備したいたのは新編成の独立軽装甲車中隊であり、「従来型」を装備している独立軽装甲車中隊では「後期改修型」は装備していなかったようである。
これは各中隊に於ける補給部品・整備性等の運用面を考慮した結果と考えられる。

これ以外の問題点である、火力・防御力の不足や、エンジン出力の不足に関しては、既述のように、「九四式三十七粍戦車砲」(口径37mm)を装備した車両や、ディーゼルエンジンを搭載した車両も製作されたが、少数の生産や試作車に留まった。

併しながら、、本車の後継である「九七式軽装甲車」(昭和12年・1937年制式採用)の開発ではこれら問題点に対する改善が盛り込まれ、本車で得られた戦訓は余すことなく生かされた。

実戦に於ける「九四式軽装甲車」

「中華門(南京)」前の「九四式軽装甲車」本車は、独立軽装甲車中隊や戦車連隊の軽装甲車中隊に配備され、後には捜索連隊にも配備されて、各地の戦場で歩兵と共に戦闘に参加した。

昭和12年(1937年)7月7日、支那事変が勃発すると7個独立軽装甲車中隊が動員された。

昭和12年(1937年)12月、「南京攻略」に於いて、本車を装備した独立軽戦車第二中隊(中隊長:藤田實彦少佐)・独立軽戦車第六中隊(中隊長:井上大尉)の2個中隊が参加した。各中隊は歩兵の支援車両として、歩兵の進撃に追随して「南京」を目指した。
本車は、「南京」の入り口の一つである「中華門」への突入の際、歩兵と共に敵陣地に肉薄してこれを制圧、正に「豆戦車」としての本領を発揮して「南京攻略」に於ける立役者となった。
併しながら、「豆戦車」であるが故の非力さも露呈した。。「鉄心橋」付近の戦闘に於いて、中国軍の対戦車砲によってり井上部隊(独立軽装甲車第六中隊)の本車4両が撃破され、8名中7名の乗員が戦死した。

「南京攻略」後、昭和13年(1938年)1月1日、「広徳」付近を進撃する独立軽戦車第二中隊(藤田部隊)の車列を撮影した写真が遺されている。(↓)
「九四式三/四瓲積被牽引車」を牽引し、歩兵と共に進撃する本車の様子が分かる。

昭和13年(1938年)10月、「広東攻略」に於いて、本車を装備した独立軽戦車第十一中隊(中隊長:上田少佐)・独立軽戦車第五一中隊(中隊長:小坂大尉)の2個中隊が参加した。この時も、本車は歩兵と共に「広東」へ進撃した。

上田部隊・小坂部隊は競い合って「広東」に向かった。中国軍は対戦車砲・装甲車両によって反撃を試みたが、進撃は順調に進み、日本軍は「広東」に突入した。上田部隊・小坂部隊の損害も軽傷8名のみであった。
この時、あまりに日本軍の進撃が速く、オートバイに乗った中国軍将校が、「広東」へ向かう本車の車列を中国軍の装甲車両と誤認する程であったという。

また、この時、独立軽装甲車第五二中隊は、「広東攻略」の支作戦であった「虎門要塞攻略」に参加した。

ソ連軍に捕獲された「九四式軽装甲車」

昭和15年(1939年)、「南昌攻略」に於いて、松本部隊の本車1両(車長:川村伍長、操縦手:中村一等兵)が歩兵と共に「魏家営」の中国軍陣地へ突入した。

友軍歩兵の先頭を切って鉄条網を乗り越え、銃火を犯して中国軍の塹壕に肉薄したが、陣前に敷設された地雷の爆発によって跳ね上げられ、擱座してしまった。忽ち中国兵が擱座した本車を取り囲んだが、本車の機関銃が応戦を開始し、群がった中国兵をなぎ倒した。直ちに駆けつけた友軍歩兵が突撃を敢行、中国軍を撃退して陣地を占領した。
中国軍陣地占領後、駆け寄った友軍歩兵が満身創痍の本車に駆け寄り、車内を除くと、2名の乗員(車長:川村伍長、操縦手:中村一等兵)は全身血達磨で倒れていたが、その手はしっかりと機関銃の銃把を握りしめていた。
この逸話はある程度の脚色はあるものの、当時は戦場美談として伝えられ、戦意高揚の為の戦争画の題材にもなった。

昭和14年(1939年)に発生した「ノモンハン事件」にも本車は参加した。

「ノモンハン事件」に於いては、歩兵第二三師団・第一戦車団(戦車第三連隊・戦車第四連隊)が投入された。戦車第三連隊には8両、、捜索第二三連隊(歩兵第二三師団)には7両、合計15両の本車が配備されていた。「ノモンハン事件」には、本車以外にも「八九式中戦車」34両・「九五式軽戦車(北満型)」35両・ 「九七式軽装甲車」4両・ 「九七式中戦車」4両も参加していた。

ソ連軍・外蒙古軍も、ノモンハン周辺に多数の戦車(「BT-5」「BT-7」「T-26」)・装甲車両(「BA10」)を集結させた。「BT-5」の装甲は車体前面13mm・砲塔全周15mm・防盾15mmであり、「BT-7」「T-26」の装甲は車体前面22mm・砲塔15mmであった。

「ノモンハン事件」は日本軍が始めて経験した本格的な機甲戦闘であった。
日本軍は、一部の歩兵・砲兵の活躍によって多数のソ連軍の戦車・装甲車両を撃破したものの、日本軍も多数の戦車・装甲車(本車も含む)を撃破・捕獲され、歩兵もソ連軍の戦車・装甲車や砲兵に圧倒された。日本軍は大きな損害を出し、「ノモンハン事件」は大敗に終わった。

昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争が開戦した。

この時、本車は既に旧式化しており、後継の「九七式軽装甲車」(昭和12年・1937年制式採用)が、主として捜索連(歩兵師団)を中心に配備されつつあった。
併しながら、多くの本車も依然として、多くの捜索連隊(歩兵師団)や軽装甲車中隊(戦車連隊)に配備されており、その老骨に鞭打って大東亜戦争に参加した。

大東亜戦争開戦と同時に開始された「南方作戦」には、多数の本車が参加した。

昭和16年(1941年)12月12日未明、フィリピン諸島ルソン島リンガエン湾に、第十六軍(「フィリピン諸島攻略」を担当)隷下の歩兵第四八師団・戦車第四連隊・戦車第七連隊が上陸を開始した。

本車は、捜索第四八連隊(歩兵第四八師団)の2個装甲車中隊及び戦車第七連隊に配備されていた。この時、戦車第四連隊は3個軽戦車中(「九五式軽戦車」)で編成され、戦車第七連隊は3個中戦車中隊(「八九式中戦車」)から編成されていた。

マレー半島に於ける「九四式軽装甲車」

昭和16年(1941年)12月12日11時頃(日本軍上陸開始約3時間後)、リンガエン湾の日本軍上陸地点付近(セント・トーマス)に対して、米軍「M2A4軽戦車」15両(第192戦車大隊)が進出してきた。

ここには戦車第七連隊の一部(本車・「八九式中戦車」)が上陸しており、米軍「M2A4軽戦車」及び随伴の米軍歩兵と遭遇、戦闘が開始された。本車を含む戦車第七連隊の一部は友軍歩兵と協力して米軍を撃退。12日20時までに、米軍はセント・トーマス南東方のロザリオに撤退した。

「蘭印攻略」に際して、「チモール島攻略」に参加した伊東支隊(支隊長:伊東武夫少将、歩兵第三八師団より抽出)には本車11両(1個装甲車中隊)が配備されていた。

昭和17年(1942年)2月20日、伊東支隊はチモール島クーパンに上陸、22日にはクーパン市街に進出し、郊外の飛行場を占領していた横須賀第三特別陸戦隊(海軍の落下傘部隊)との連絡を取る事ができた。

この時、クーパン郊外の飛行場北側には豪州軍部隊(指揮官:レガット中佐、約1000名)が守備しており、須賀第三特別陸戦隊(海軍の落下傘部隊)を包囲しつつあった。これに対して伊東支隊からは、本車11両・1個歩兵中隊(自動車)・速射砲1門 (「九四式三十七粍砲」)が支援に向かった。

撃破された「九四式軽装甲車」と「M4中戦車(シャーマン)」

昭和17年(1942年)2月22日、日本軍の増援部隊の攻撃によって、レガット中佐指揮の豪州軍部隊は対戦車砲2門「2ポンド砲」を放棄し、クーパン市街の東方36km地点まで後退した。

2月23日06時、レガット中佐は偵察隊(装甲車1両・トッラク2両)を出した。23日07時50分、この偵察隊から、日本軍装甲車が接近しているとの報告が入った。これこそレガット中佐指揮の豪州軍部隊を追撃していた日本軍増援部隊の先頭(本車5両)であった。

本車5両は、レガット中佐指揮の豪州軍部隊のトラックの車列に突入、反撃の暇も無く対戦車砲を封じられた豪州軍兵士は狼狽した、本車の乗員は豪州軍兵士には発砲せず、車内から降伏を呼びかけた。本車5両に突入され、混乱した豪州軍兵士は次々に降伏、レガット中佐は動揺し、昭和17年(1942年)2月23日09時、付近の豪州軍部隊に降伏を指示した。

やがて、後続の日本軍増援部隊(本車6両・1個歩兵中隊)が追いつき、周辺の豪州軍部隊を次々と武装解除した。その結果、捕虜1000名を得、トラック・装甲車100両を捕獲するという戦果を挙げた。

昭和17年(1942年)2月23日、チモール島東部(ポルトガル領)のディリも、歩兵第二二八連隊(歩兵第三八師団)が占領し、「チモール島攻略」は完了した。

この様に、大東亜戦争開戦当初の日本軍の華々しい進撃の下、本車もその機動力を生かして大いに活躍した。併しながら、やがて戦局が悪化するに従い、日本軍は各地で守勢に立たされるようになった。開戦当初の様に、日本軍が大規模な攻勢作戦を行う事はなくなっていた。

その結果、本車は、その最大の武器である機動力を発揮する機会を失っていった。機動力を封じられた本車は、単なる非力な戦闘車両に過ぎなかった。更にこの頃、米軍歩兵は携帯用対戦車火器(バズーカ砲等)で武装し、本車のみならず多くの日本軍装甲車両にとって脅威であった。本車の様な「豆戦車」「豆タンク」を戦闘に使用する事は最早自殺行為に過ぎなくなっていた。
しかし、それでも尚、本車は、苛烈な最前線に於いて日本軍の歩兵と共に戦い続けた。

沖縄本島で撃破された「九四式軽装甲車」

昭和19年(1944年)10月20日、フィリピン諸島レイテ島に来寇した米軍を迎え撃つべく「捷一号作戦」が発動された。
決戦兵力として「捷一号作戦」に参加した歩兵第一師団隷下の捜索第一連隊(連隊長:今田義男少佐)には、本車約10両が配備されていた。この時、捜索第一連隊は改編縮小され、兵力約200名(機動歩兵1個中隊・機関銃1個小隊・装甲車1個中隊・山砲等)の兵力であった。

昭和19年(1944年)11月1日夜、レイテ島オルモックに上陸した捜索第一連隊は、歩兵第一師団の先遣隊として直ちに北上、リモン峠・カリガラ平野を目指した。

昭和19年(1944年)11月3日、捜索第一連隊はリモン峠に於いて有力な米軍(米陸軍第24師団)と遭遇した。翌11月4日、リモン峠の北方海岸に米軍上陸用舟艇7隻(「LCVP」・米陸軍第24師団1個大隊約1000名)が上陸しようとしていた。この時、付近の海岸にいた捜索第一連隊の本車2両は、海岸に接近してきた米軍上陸用舟艇に対して車載機関銃(「九七式車載重機関銃」)による攻撃を行い、これを損傷させた。
これは、本車が、海上の米軍舟艇に対して行った唯一の攻撃事例と戦果であった。

沖縄本島で撃破された「九四式軽装甲車」

この後、約1ヶ月間、捜索第一連隊は後続の歩兵第一師団の主力と離れてリモン峠山頂に布陣し、米軍と激しい戦闘を展開した。捜索第一連隊はリモン峠山頂の陣地を12月17日頃まで死守していたが殆どの兵員が戦死、連隊長(今田義男少佐)も、昭和20年(1945年)1月17日、戦死し、壊滅状態に陥った。約200名の兵力の内、脱出できたのは45名であった。

昭和20年(1945年)4月1日、米軍は沖縄本島に上陸を開始した。
沖縄を守備する日本軍は、陸軍第三二軍(2個歩兵師団・1個独立混成旅団)・海軍部隊を基幹とする約8万名の将兵であった。 この時、本車は各歩兵師団の捜索連隊に配備され、沖縄本島に於ける戦闘に参加した。

陸軍第三二軍は、当初、長期持久の方針に基づいて戦闘を展開していたが、大本営からの度重なる督促により、遂に米軍に対する総反攻の実施を決意した。昭和20年(1945年)5月4日、約1個師団を投入した日本軍の総反攻が実施され、多くの本車が歩兵と共に前進、米軍に対して逆襲を試みた。併しながら、日本軍の総反攻は失敗し、多くの将兵と共に多くの本車も失われた。
昭和20年(1945年)6月23日、陸軍第三二軍司令官牛島満中将をはじめとする幕僚が自決、殆どの将兵も戦死し、 沖縄本島に於ける日本軍の組織的抵抗は終了した。

沖縄本島での戦闘が終了してから約2ヵ月、昭和20年(1945年)8月15日、大東亜戦争が終結した。
同時に、本車もその役目を終えた。それは制式採用(昭和9年・1934年)から11年後であった。
当時の機甲兵器の進化は著しく、「豆戦車」「豆タンク」は既に過去の兵器であり、有力な機甲兵器ではなかった。しかし、本車は11年間、絶えず戦場にあり、歩兵・騎兵の友として共に歩き、戦い、信頼された。戦局が悪化した後も、各地で苦しい戦いを続け、多くの乗員は本車と運命を共にした。

「九四式軽装甲車」の性能

全長3.358m 全幅1.620m 全高:1.626m 最低地上高:0.30m 接地長:2.26m 履帯幅:16.4cm 全備重量:3.45t(自重:3.20t) 接地圧:0.465kg/cm2
登坂能力:最大27度~30度 超堤能力:62cm 超濠能力:1.4m 渡渉水深:0.6m 回転半径:3.158m
主武装:「九一式車載軽機関銃」(口径:6.5mm)1挺 弾薬:1980発 又は 「九七式車載重機関重」(口径:7.7mm)1挺 弾薬:1980発
装甲:車体 前面12mm 側面8mm~10mm 後面8mm 上面6mm 下面4mm  砲塔 前面12mm 側面10mm 後面10mm 上面6mm
エンジン:4気筒空冷ガソリンエンジン 最大出力:35馬力/2500rpm 燃料容量:88リットル 燃費:2.27km/リットル
最大速度:40km/時(路上)・30km/時(牽引) 最大航続距離:200km(路上)
乗員:2名(射手兼車長・操縦手)
製造数:843両 (昭和10年:300両 昭和11年:246両 昭和12年:200両 昭和14年:2両)