九二式歩兵砲

「九二式歩兵砲(92式歩兵砲)」とは

「九二式歩兵砲(92式歩兵砲)」は支那事変から大東亜戦争にかけて使用された日本陸軍の歩兵砲である。

「歩兵砲」の特徴

所謂「歩兵砲」とは歩兵が運用して火力支援を行う小型の火砲を指す。

通常、火砲の多くは砲兵が運用し、歩兵の支援要請や作戦自体の要請に応じて敵陣地等に対して火力支援を行う。砲兵は大型の火砲を多数運用している為、大規模な歩兵戦闘での支援要請に対してや、堅固な敵陣地の破壊に対しては有効な火力支援を行う事が出来る。
併しながら、砲兵の運用する大型の火砲では、小部隊に対する火力支援には適さず、また、基本的には歩兵と砲兵は別々の指揮系統を持っており、互いに随伴して行動しない為、現場の歩兵の支援要請に対して即座に対応する事は難しい。

第一次世界大戦に於ける塹壕戦

第一次世界大戦(大正3年7月28日~大正7年11月11日)に於いて「機関銃」が登場すると、歩兵は、「機関銃」を配置した陣地(特火点)や敵兵が多数潜む塹壕への攻撃で、多大な犠牲を出すようになった。

通常、歩兵の攻撃の前には砲兵よる敵陣地への準備砲撃が行われた。しかし、敵特火点はコンクリートや土塁で強固に防御されており、直撃弾を受けない限り無力化できず、敵兵は塹壕内の退避豪に分散退避している為、大きな損害を与える事は難しかった。即ち、砲兵が準備射撃を入念に行っても、敵特火点の多くは無傷で残り、敵塹壕内の敵兵は準備射撃が行われている間は退避豪に身をめ、準備射撃が終わると直ちに自陣に復帰して攻撃に備えた。
結果、歩兵は、特火点や塹壕で構成された敵陣地への攻撃を、小銃や手榴弾のみで行わねばならず、多大な犠牲強いられた。

この状況を鑑み、第一次世界大戦(大正3年7月28日~大正7年11月11日)に於いては、歩兵支援火器として、攻撃する側の歩兵が運用可能な「軽量の機関銃」(「軽機関銃」)が、各国で開発されたが、更に強力な歩兵支援火器として、歩兵が運用可能な「軽量の火砲」が必要とされた。特に、「機関銃」を備えた特火点は堅固な防塁に覆われている為、通常の砲撃では容易に破壊できなかった。

そこで、特火点の銃眼を狙い撃つことの出来る火砲が開発された。これは、水平に砲弾を発射(平射)する、所謂「平射砲」であり、特に「狙撃砲」とも呼ばれた。口径は小さく、射程も短いが、小型・軽量で運用が容易な火砲であった。また、閉鎖機や駐退復座機を装備する通常の火砲と同じ構造をしおり、砲架は三脚架や車輪に搭載されていた。

また、塹壕内に潜む敵兵を攻撃する為に、頭上から砲弾を塹壕内を落下させる必要があった、そこで砲弾を山なりに発射(曲射)する火砲、即ち「迫撃砲」(「曲射砲」)も開発された。こちらは、構造は更に簡単で、砲身と脚からなっており、砲口から砲弾を装填する為、閉鎖機や駐退復座機は装備していなかった。

これら小型・軽量の歩兵支援用火砲の最大の特徴は、歩兵が運用するという点である。その為、広義ではこれらの火砲(「平射砲(狙撃砲)」「迫撃砲(曲射砲)」)を「歩兵砲」と呼ぶ。
併しながら、一般的には、通常の火砲と同じ構造(閉鎖機や駐退復座機を装備)を持つ歩兵支援用火砲を狭義の「歩兵砲」と呼び、構造が簡単で、曲射のみを行う火砲に対しては、別に「迫撃砲(曲射砲)」と呼んで区別する事が一般的である。以後、「歩兵砲」と呼称する場合は基本的に狭義の「歩兵砲」を指す。

「歩兵砲」は、歩兵が大隊程度の規模で運用し、近接戦闘に於ける火力支援が主である。
その為、「歩兵砲」は小型・軽量である。多くの「歩兵砲」は分解可能で運搬も容易である為、大型の火砲の運用が困難な地形でも運用でき、航空機による機動を行う空挺部隊で運用する事も可能である。反面、射程・威力・命中精度は他の火砲に比較して劣る。後には、平射・曲射が可能な「歩兵砲」も登場した。

「歩兵砲」と類似の火砲として「山砲」がある。「山砲」も他の火砲に比べて小型・軽量であり、運搬の便を主目的とした火砲である。「歩兵砲」との相違点は、「山砲」は砲兵が運用するという点であり、「歩兵用」よりやや規模が大きいのが一般的である。
日本陸軍では満州事変(昭和6年・1931年)以降、「山砲」( 「四一式山砲」)や「速射砲」( 「九四式三十七粍砲」)を歩兵支援火砲として、歩兵で運用していたが、この場合は連隊規模での運用であった。

「九二式歩兵砲」の開発

日本陸軍では、歩兵の支援火砲(「歩兵砲」)として、大正11年(1922年)制式採用の「十一年式平射歩兵砲」「十一年式曲射歩兵砲」を」を装備していた。
しかし、口径37mmの「十一年式平射歩兵砲」は、榴弾の被害半径も小さく、威力不足であった。また、平射砲と曲射砲の両方を装備せねばななかった。

そこで、日本陸軍では、従来の「歩兵砲」より威力があり、更に、運用の便を図る為に平射も曲射も行える新しい「歩兵砲」の必要性を感じ、その開発を決定した。

昭和6年(1931年)、研究開発が開始され、「試製重歩兵砲」「試製歩兵随伴砲」等の試作砲が製造された。
開発に於いてはラインメタル社製「75mm歩兵随伴砲」(ドイツ)が参考にされたが、重量が300kg以上あり、当時の日本陸軍の歩兵用重火器の上限300kgを超えていた。そこで、口径を75mmより小さくする必要があった。また、当時装備していた「十一年式曲射歩兵砲」は口径70mmであり、新しい「歩兵砲」も口径70mmとされた。このうち「試製歩兵随伴砲」は口径70mmであり、クランク式の車軸を持ち、これを上下させる事で平射と曲射が可能であった。

この「試製歩兵随伴砲」の増加試作砲が数門製造され、満州事変(昭和6年9月18日~)に参加した。この際、当初は車輪は木製であったが、敵陣地前での移動時にきしみ音があると言う事から、鋼鉄製に変更された。

「試製歩兵随伴砲」の構造・性能をほぼそのまま採用し、昭和7年(1932年・皇紀2892年)、この年の皇紀の下2桁を採って「九二式歩兵砲」として制式制定された。

「九二式歩兵砲」の構造と運用

本砲は、放列砲車重量204kg、口径70mm、砲身長790mm(11.3口径)、主として、非装甲目標への榴弾発射を目的とする、歩兵支援用の軽火砲であった。

初速197m/s、最大射程距離2800mと、低初速・短射程であったが、歩兵戦闘の近接支援火砲であり、歩兵による運用が容易なように軽量である事が必要な為、火砲としての性能が制限される事はやむをえなかった。また、比較的大口径(口径70mm)であった為、発射音・発砲炎が大きく、鼓膜を痛める兵士もあったという。

本砲の最大の特徴は、平射と曲射が可能な事であった。これは、クランク状の車軸を操作して砲身の高さを調整することで行われた。

平射時は砲身を低位置にし、俯仰角は+51度(仰角)から-5度(俯角)に俯仰可能であった。
曲射時は砲身を高位置にし、俯仰角は+80度(仰角)から-7度(俯角)に俯仰可能であった。

水平射界(左右方向)各20度に方向照準可能であり、操砲ハンドル(左右射角)・高低照準用ハンドル(俯仰角)共に砲架右側に位置した。

本砲は歩兵大隊に於いて「大隊砲」と通称され、歩兵連隊に於ける「連隊砲( 「四一式山砲」)」「速射砲( 「九四式三十七粍砲」)」と共に歩兵支援用の火砲として、歩兵によって運用された。
1個歩兵大隊に本砲2門が配備され、歩兵砲小隊(2個歩兵分隊・1個弾薬分隊)で運用された。
1個歩兵砲小隊は1門の本砲を運用し、編成は以下の通りであった。

歩兵砲小隊

小隊本部(指揮班):10名
小隊長(少尉または中尉):1名
人事記録係曹長:1名 兵器・器械係下士官:1名
観測係下士官:1名 伝令・当番兵:5名 衛生兵:1名
戦砲班(2個歩兵砲分隊):30名
第一分隊(本砲1門):15名 分隊長(下士官):1名 観測手:1名 砲手:6名 弾薬手:7名
第二分隊(本砲1門):15名 分隊長(下士官):1名 観測手:1名 砲手:6名 弾薬手:7名
弾薬分隊:15名
弾薬144発・馬匹・弾薬車等

歩兵砲小隊では、戦砲班(第一分隊・第二分隊)に於いて本砲2門を運用した。本砲1門に対して弾薬20発が即応弾として付随し、弾薬手(7名)がこれを運搬した。
また、弾薬分隊(15人)に於いて、弾薬144発を運搬した。

本砲1門(放列砲車重量:204kg)に対して、弾薬定数(184発=20発×2門分+144発)は重量870kgであった。
機械化の遅れていた日本陸軍では、弾薬の運搬は、僅かな馬匹以外、多くの場合は人力(兵士が背負って徒歩で運搬)によって行われていた。その為、各国と比較して、日本陸軍の弾薬分隊は人数が突出して多い特徴があった。

実際、1個歩兵砲小隊分(本砲2門:204kg×2・弾薬:870kg)の重量は、中型(3トン)トラック1台分で積載可能であったが、日本陸軍では、全ての歩兵砲小隊に行き渡る十分な数の車両を整備する事が出来なかった。

標準的な編成の場合、1個歩兵連隊は3個歩兵大隊(各1個歩兵砲小隊を持つ)から編成され、1個歩兵連隊に配備される歩兵支援用火砲は、「大隊砲(本砲)」6門(各歩兵大隊に2門)・「連隊砲( 「四一式山砲」)」4門(連隊砲大隊)・「速射砲( 「九四式三十七粍砲」)」4門(連隊砲大隊)、であった。

本砲は、歩兵支援用の軽火砲(「歩兵砲」)であった為、重量は204kgと非常に軽かった。
その為、本砲の移動は、繋駕(分解・梱包を行わずに牽引する事)は馬1頭で可能であり、人間が行う場合でも3名で可能であった。更に、砲架・砲身・車輪等に分解して運搬可能であり、馬3頭に駄載するか、兵士10人が脾力搬送(人間が担いで運ぶ事)する事が可能であった。

本砲には、懸架装置(サスペンション)が無く、鋼鉄製車輪であった為、車両牽引(機械牽引)は出来なかった。車両を用いて移動する場合は、車両の荷台や運搬車に搭載した。

「九二式歩兵砲」の弾薬・弾薬箱・弾薬車

弾薬(薬莢・砲弾)
・本砲の薬莢は、固定式(単一式)薬莢と半固定式(接続式)薬莢の2種類が用意された。

「九二式歩兵砲弾薬莢」

半固定式(接続式)薬莢は、砲弾尾部(弾尾)と薬莢頭部(薬頭)との間に間隙があり、薬莢本体(薬筒)を分離して装薬を挿入する事が出来た。
装薬は一号(50g)・二号(31g)・三号(22g)・四号(17g)の4種類が用意されおり、射程・弾道に応じて薬莢に挿入する装薬の量を選択した。装薬を挿入した薬莢は砲弾と嵌合・一体化され、本砲に装填・発射された。

発射後の薬莢は再利用可能で、発射時に薬莢底部に使用回数を示す点が打たれた。

・本砲は数種類の砲弾が使用可能であった。

「九二式榴弾」

本砲用の榴弾である。

昭和7年(1932年)に制式化された。
砲弾重量:3.81kg・炸薬量:0.630kg・殺傷半径:22m(有効破片密度:1個/㎡)
信管:「八八式瞬発信管」 短延期信管「野山加」
後に「九四式七糎戦車砲」の砲弾としても使用された。

「九二式代用弾」

本砲用の演習用砲弾である。

昭和8年(1933年)に制式化された。
砲弾重量:3.81kg(弾道性能は九二式榴弾と同一)
信管:「八八式瞬発信管」 短延期信管「野山加」
後に「九四式七糎戦車砲」の砲弾としても使用された。

「九五式照明弾」

本砲用の照明弾である。

昭和9年(1934年)、試験が開始された。
主剤としてマグナリウム(マグネシウムとナトリウムの混合物)とマグネシウムの比較を実施した結果、マグネシウムを主剤に決定し、昭和10年(1935年)、制式化を上申した。
砲弾重量:3.49kg・最大射程:2600m・照明時間:20秒・照明光度:約90000燭光
(高度150m以内の曳火射撃に適する。)
信管:「八九式小曳火信管」

「九七式鋼製銃榴弾」

本砲用の榴弾である。

戦時の弾丸鋼の不足を鑑み、弾体の材料に市販の原料鉄を使用した。
伊良湖射撃場で試験を実施し、性能はおおむね良好であった。
昭和13年(1938年)、制式化を上申した。
砲弾重量:3.92kg・炸薬量:0.370kg・殺傷半径:殺傷半径15m(有効破片密度:1個/㎡)
信管:「八八式瞬発信管」 短延期信管「榴白」

「空砲」

装薬には一号空包薬を使用した。

弾薬箱・弾薬車

弾薬は、5発入りの弾薬箱(重量:30kg)に収納された。兵士1人が弾薬箱1箱を担いで運ぶか、馬1頭で弾薬箱4箱を運んだ。

また、本砲の弾薬(弾薬箱)を積載する専用の弾薬車も開発された。

昭和6年(1931年)~昭和7年(1932年)、大阪砲兵工廠に於いて試作車両が完成、これを陸軍歩兵学校に委託して各種試験を行った。昭和8年(1933年)、北満州での実地試験と各師団の意見に基づき修正を実施した。

翌昭和9年(1934年)2月、「九二式歩兵砲弾薬車」として制式化された。

弾薬車は同一形状の前車と後車から成り、それぞれ弾薬箱5箱(25発)を積載した。移動時は、前車・後車を連結して馬1頭で牽引した。その際は、全長:4259mm、全備重量:512kg、弾薬箱10箱(50発)を積載した。
また、前車・後車それぞれを兵士が牽引する事も可能であり、この場合は車軸両端に曳索を取り付けて複数の兵士で牽引した。

実戦に於ける「九二式歩兵砲」

本砲の初陣は、試作砲数門が満州事変(昭和6年9月18日~)に参加した。
その後、昭和7年(1932年)に制式化されると、主力歩兵砲として歩兵大隊に配備され、支那事変(昭和11年7月7日~)に於いても、歩兵支援用の火砲として広く使用された。

本砲は、平射と曲射が可能な歩兵砲であり、その為、閉鎖機や駐退復座機を装備する通常形式の火砲として開発された。
併しながら、実際に戦場で運用してみると平射を行う事は問題があった。

平射を行う場合は直接照準で射撃する為、目標となる敵火点・敵陣地に対して目視線上に本砲を据えて射撃する必要があった。更に、本砲は砲身長が短く(11.3口径)、砲弾初速が遅い為、短射程(最大射程距離:2800m)であった。結果、目標に対して接近せねばならなかったが、口径70mmという比較的大口径である本砲は発射音・発砲炎が大きく、1発発砲すると、容易に発見され、敵陣地から忽ち応射を受ける事になった。
これは、本砲に限らず、各国の多くの歩兵砲にも言える事であり、本砲の様な通常形式の歩兵砲の多くは、平射・曲射が可能な設計であったものの、実際に平射を行う事は自衛戦闘等を除いて稀であった。

また、本砲特有の問題として、常装薬を使用して平射を行った場合、初速が不足気味で弾道が安定しなかった。その為、目標に命中させる為には、敵陣地に相当に接近する必要があった。
また、初速や射程を確保する為に強装薬(一号:50g)を使用して平射を行った場合、信管(「八八式瞬発信管」)が作動せず、跳弾(砲弾が地面に当り、爆発せずに跳ねる)になってしまうという事があった。

結果、本砲はもっぱら曲射を行う事が多かった。

曲射のみを行うならば、所謂「迫撃砲(曲射砲)」の方が構造も簡単であり、軽量であるので運搬も容易であった。日本陸軍では、昭和11年(1936年)、「九七式曲射歩兵砲」を制式化し、歩兵砲として配備したが、本砲と完全に更新されることは無く、「九七式曲射歩兵砲」は生産優先度も低かった。

これは、「九七式曲射歩兵砲」がストークブラン式迫撃砲(砲口先端から砲弾を落とし込む、墜発式の迫撃砲)であり、この形式の迫撃砲は、発射速度は高いが、精度に劣り、面制圧を主とする火砲である。その為に砲弾を大量に消費するの特徴がある。
この事は、日本陸軍の補給事情(生産能力・輸送能力)からして運用の難しい兵器と判断された、と考えられる。

また、既に大量に配備されていた本砲からの更新は、訓練や運用法の再検討が必要になる為、本砲が運用され続けたとも考えられる。

結果として、日本陸軍では、本砲を主力歩兵砲として運用し続け、ストークブラン式迫撃砲は殆ど普及しなかった。これは、初めに通常形式の火砲である本砲を採用した事が原因である、という説もある。

昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争開戦と共に日本軍は各地に進撃した。
本砲は上記のような問題点も抱えていたが、進撃する日本陸軍の歩兵支援用の火砲としてあらゆる戦場で活躍し、歩兵からの信頼も厚かった。

大東亜戦争後半、日本軍が守勢に転じると、本砲も連合軍の反撃の矢面で奮戦した。
特に、南方の島嶼防衛に於いても本砲は使用された。他の火砲同様、米軍の圧倒的な砲爆撃に晒される島嶼に於いては、本砲は各種陣地に秘匿された。本砲はこれら陣地に於ける特火点として運用され、上陸してきた米軍に対して近接射撃による迎撃を行って大きな損害を与えた。
本砲による迎撃を受けた米軍は、本砲に一定の評価を与えた。日本軍の捕獲兵器の使用法を記したマニュアルに本砲を載せ、実に捕獲した本砲を米軍兵士が使用することもあった。

「九二式歩兵砲」の性能

放列砲車重量:204kg 口径:70mm 砲身長:790mm(11.3口径) 初速:197m/s 最大射程距離:2800m
俯仰角:-7~+80度(高位置) -5~+51度(低位置) 水平射角:左右20度
発射速度:10発/分 薬室:垂直鎖栓式
使用弾種:九二式榴弾 九二式代用弾 九二式照明弾 九七式鋼製銃榴弾 空砲 等
使用薬莢:九二式歩兵砲弾薬莢