「タイ王立空軍博物館(ROYAL THAI AIR FORCE MUSEUM)」の展示内容

大東亜戦争におけるバンコク・カンチャナブリーの歴史
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九九式高等練習機

立川飛行機の「九九式高等練習機(九九式高練)」である。試作名称は「キ55」である。当時の航空機の進化はめざましく、時代は複葉機から「九七式戦闘機」などの低翼単葉機に移行しつつある時期であった。そのため、搭乗員養成のための練習機も低翼単葉機が必要とされたのである。

「九九式高練」は1386機が生産され、タイには数十機が輸出された。当博物館に遺されるこの機体は世界に現存する唯一の「九九式高練」である。

昭和14年(1939年)、陸軍は立川飛行機に対し「九八式直接協同偵察機(九八式直協機)」(キ36)の練習機への改造を指示した。立川は製作途中の「九八式直協機」を改造して原型機として開発期間を短縮し、同年7月には制式採用された。外観上の違いは主脚のスパッツ(カバー)が廃止された点である。この機体ではスパッツが付いているが、タイ軍が納入後に改造して付けたのであろうか。

元々は爆撃可能な機体であったためか、主翼の後ろにダイブブレーキのようなっものが付いている。

「九八式直協機」から改造される際、通信と爆撃、後部旋回機関銃は廃止されたが、機首の7.7mm「八九式固定機関銃」はそのまま残された。操縦席の手前に照準器が取り付けられている。

機は二人乗りである。前席に練習生が座り、後席から教官が指導したのであろう。操縦や整備が容易であり、練習機としては使い勝手が良い機体だったようである。

自重1292kg、全備重量1721kgの機体に日立航空機のエンジンを搭載していた。最大速度は349km/h、航続距離は1060km、実用上昇限度は8180mであった。

エンジンには銘板が取り付けられている。「九八式四五〇馬力発動機 製造年月日 昭和17年6月」と読み取れる。

九七式戦闘機

中島飛行機の陸軍戦闘機「九七式戦闘機」のエンジンと主翼の一部である。「九七式戦闘機」は陸軍最初の単葉戦闘機であった。本機以前の戦闘機開発は複葉欧米戦闘機の発展型であったが、本機は日本独自の設計思想に基づいて開発されるようになる転換点となった機体である。

これらの残骸はタイ北東部のNAKORNSRI THAMMARAT県において地元漁師によって発見されたものである。

漁師はエンジンや7.7mm機銃2挺などの部品を発見し、後にタイ王立空軍の調査によって大東亜戦争中にタイに展開していた「九七式戦闘機乙型」(キ27)であることが判明した。

エンジンは空冷9気筒の中島ハ1乙、地上正規出力は610馬力であった。

主翼の上に2挺の銃身のようなものが見られるが、これは機体の構造を支える支柱の一部のようである。「九七式戦闘機」は機軸に近いエンジンの隙間に銃身が配置されていた。

「九七式戦闘機」は昭和17年に12機がタイに輸出された。なお、12機のうちの数機は練習機型の「二式高等練習機」であったようである。

タイ側の記録によると、タイ軍の「九七式戦闘機」5機は、昭和19年(1944年)11月11日にタイ北部に飛来した計25機米軍戦闘機を迎撃し、うち「P-51(マスタング)」に損傷を与え、「P-38(ライトニング)」1機を撃墜した、とされている。戦後もタイ軍では本機を1949年まで使用していたそうである。

なお、福岡県の「筑前町立大刀洗平和記念館」に「九七式戦闘機」、インドネシアのジャカルタの「国軍博物館」に「二式高等練習機」の機体が、ほぼ完全な状態で遺されている。

残骸の横には説明板が設置されている。

模型絵画

タイ軍仕様に塗装された三菱重工業の陸軍の「九七式軽爆撃機」の模型である。タイ軍は当初アメリカ・イギリス・フランス製の航空機を輸入して運用していたが、欧米との関係が悪化するに従って日本機輸入のウエイトが高まっていった。本機は昭和15年(1940年)に日本から輸入された最初の航空機である。計25機が輸出された。

翌年のタイ・フランス領インドシナ紛争においてフランス領インドシナの飛行場の空襲に投入された。ナコーン・ワット上空で仏印軍機と戦った本機の様子を描いた絵である。

三菱重工業の陸軍の「九七式重爆撃機」の模型である。昭和17年(1942年)から9機が輸出された。近代爆撃機として敵戦闘機を振り切れる高速性能が重視された。

中島飛行機の陸軍の「九七式戦闘機」の模型である。昭和17年(1942年)に12機が輸出された。

中島飛行機の陸軍の「一式戦闘機二型(隼)」の模型である。940馬力のエンジン、7.7mm機銃2挺であった「一型」から、1130馬力、12.7mm機銃2挺へと速力、火力ともに強化された「二型」が制式採用されたのは昭和17年(1942年)6月のことである。

昭和18年(1943年)から24機が輸出された。輸出当時は日本軍の中でも配備が始まったばかりの最新鋭戦闘機であり、同盟国への配慮が伺える。

タイ側の記録によると、昭和19年(1944年)11月27日にバンコクに来襲したB29を7機の「隼」が迎撃に上がり、B29を1機撃墜した、とされている。一方、米軍側の当日の記録においても、バンコクを空襲した第45爆撃飛行隊は1機が未帰還、1機が損傷とされている。

終戦時には14機の「隼」を保持しており、うち3機は飛行可能であった。

SB2C(ヘルダイバー)

アメリカ・カーチス社の艦上爆撃機「SB2C(ヘルダイバー)」である。タイ軍は戦後アメリカから6機の「ヘルダイバー」を輸入した。

「ヘルダイバー」は「SBD(ドーントレス)」の後継として昭和18年(1943年)11月から実戦に投入された。「ドーントレス」とは異なり、爆弾は胴体下部の爆弾倉内に格納する形式となっている。

SB2C(ヘルダイバー)SB2C(ヘルダイバー)主翼の後ろ側には急降下爆撃のためのダイブブレーキが見られる。

大きな速度・爆弾搭載量が要求されたが、これは開発において機体を大型化させた。しかし、艦上爆撃機としては空母のエレベーターに収めることが絶対条件であり、無理に機体後半部を切り詰めた設計となっている。

SB2C(ヘルダイバー)SB2C(ヘルダイバー)その無理な設計に加え、性能よりも生産性重視の仕様にされたため、操縦性や離着艦性能は良くなかったようである。そのため、当時の操縦士からは評判が良くなかった。操縦席部分である。

乗員は操縦士と無線士兼爆撃手の2名である。

「ヘルダイバー」は昭和19年(1944年)以降、主に太平洋各地、日本本土空襲に使われた。坊の岬沖海戦では戦艦「大和」を攻撃、撃沈した。

F8F(ベアキャット)

アメリカ・グラマン社の艦上戦闘機「F8F(ベアキャット)」である。先代の「F6F(ヘルキャット)」が大型化して護衛空母で運用できなくなったため、「ベアキャット」はあらゆる空母で運用できるサイズとして開発され、「零式艦上戦闘機」よりも小さかった。

昭和20年(1945年)2月に最初の生産機が完成してから急ピッチで生産が進んだが、最初の実戦部隊を搭載した空母が日本近海に移動中に終戦を迎えた。空母への搭載数を増加させるための折りたたみ式の設計は、米軍艦上機に共通する特徴である。

主翼の下にはミサイルが搭載されている。戦後はジェット機の時代を迎えたが、近代化改装を施すことによって運用したのであろう。1963年まで運用された。

戦後タイ軍は204機の「ベアキャット」を輸入した。この機数はタイ軍が輸入した様々な機種の中ではかなり多い部類である。第二次世界大戦が終結し、軍用機の余剰が大量に発生した時期であり、安く入手できたのであろうか。塗装の古代の神様のような図柄がいかにもタイ風である。

スピットファイア Mk.14

イギリス・スーパーマリン社の陸上戦闘機「スピットファイア Mk.14」である。戦後タイ軍は引き続き「一式戦闘機(隼)」や旧式の複葉機を使用していたが、1950年から本機が輸入されて機材更新が行われた。しかし、1948年に「スピットファイア」は生産を終了していて部品調達が困難であり、1955年までにはタイ軍から全ての「スピットファイア」は退役した。

「Mk.14」型は先代から機首を延長してプロペラ枚数を増やして5翅にする改良が加えられた。

また、尾翼も大型化された。とは言うものの、他の戦闘機と比べると小さいように感じる。なお、垂直尾翼、水平尾翼の先端についている小さなプレートは「トリム」である。

トリムは操縦席から操作できるようになっており、これを微調整することによって機軸・上下方向のバランスを取るのである。調整した後は操縦桿から手を離しても機体は直進するため、操縦士の巡航中の負担は大きく軽減される。風防から操縦席を覗き込むことができる。

C-47(スカイトレイン)

アメリカ・ダグラス社の陸軍輸送機「C-47(スカイトレイン)」である。秀逸な性能を持つ傑作機で各国で運用され、各タイプの総生産数は1万機を越える。日本海軍も戦前に民間機型の「DC-3」の製造権を獲得して国産化し、「零式輸送機」として制式化した。

この機体は1946年にイギリスから導入された8機の中の1機であり、最終的には計32機を輸入した。2003年頃には完全な形で展示されていたようだが、2011年現在は主翼が取り外されてスクラップ置き場のようなところに置かれている。

なんと扉が開いており、自由に中に入れるようになっている。普通の航空博物館でこのような歴史的な機体の中に入れるところはほとんどない。嬉しいような、痛んでしまわないか心配になるような、微妙な心境である。

中には電車のような長椅子が両側に設置されている。武装兵28名か、最大2722kgの物資を搭載することができた。

機首部分は操縦室の手前に電子機器が設置されているスペースがあるが、その手前の壁面に写真が貼られている。なにやら高僧の写真のようであるが、タイっぽさを感じる。

操縦室には操縦桿やレバー、各種スイッチのほか、計器がはめられていたパネルを見ることができる。

「スカイトレイン」はタイ軍でなんと1997年まで現役で飛んでいたそうである。

O-3U(コルセア)

アメリカ・ヴォート社の観測機「O-3U(コルセア)」である。タイ軍は爆撃機としても使える戦闘機として、昭和8年(1933年)からこの機体を配備し始めた。これは世界で現存する唯一の機体である。

「コルセア」はタイの航空史上初めて空戦を行った機種である。タイ・フランス領インドシナ紛争において、昭和15年(1940年)11月28日に仏印軍の爆撃機5機がタイ西部のナコン・パノム県に来襲した。1機の「コルセア」は2機の「ホークⅢ」を従えて迎撃に上がり、仏印軍の爆撃機1機に命中弾を得た。

タイ軍では「V-93」という型番で呼ばれ、100機近く現地生産された。また、日本も「コルセア」をごく少数ながら参考機体と輸入し、上海事変では中国国民党にも使用された。

二人乗りであり、後部には旋回機銃が装備されている。

なお、「コルセア」という愛称は後の同社の単葉艦上戦闘機「F4U」に引き継がれている。

Hawk Ⅲ

アメリカ・カーチス社の複葉戦闘機「Hawk Ⅲ」である。昭和10年(1935年)に初号機が輸入され、昭和12年~14年(1937年~1939年)にかけて現地生産された。この機体も世界に現存する唯一の機体である。

「Hawk Ⅲ」は複葉機にしては珍しい引込脚の機構を装備している。足回りの外観は「F4F(ワイルドキャット)」に良く似ているように見える。

この絵の注釈によると、昭和16年(1941年)12月8日の開戦当初に日本軍の「九七式戦闘機」25機がバンコクの東のプラチンブリ県の飛行場を攻撃に来たところを、タイ軍の「Hawk Ⅲ」3機が迎撃に上がり、3機とも撃墜されたとされている。

また、「Hawk Ⅲ」は大東亜戦争末期に米軍戦闘機「P-51(マスタング)」と空戦を行ったと記録されている。

その他退役航空機

アメリカ・フェアチャイルド社の輸送機「C-123B」である。当博物館において最も大きい航空機である。この機体は操縦席に入ることができる。

後ろに回ると大きな貨物用扉が開いている。貨物のほか、人員なら62名を載せることができる。

アメリカ・ダグラス社の艦上攻撃機「A-1(スカイレイダー)」である。この機体はベトナム戦争で使われ、その後バンコク北西のナコン・パトムの飛行場に残されていたものを、当博物館が展示用に購入したものである。

アメリカ・ノースアメリカン社のジェット戦闘機「F-86L(セイバー)」である。日本の航空自衛隊も「セイバー」を運用していた。

アメリカ・ノースアメリカン社の高等練習機「T-6(テキサン)」である。映画「トラ・トラ・トラ!」(1970年:日米合作)で改造を加えられた「テキサン」が「零式艦上戦闘機」や「九七式艦上攻撃機」に扮して出演したほか、多数の映画に出演している。

タイ語の説明しかないが、スウェーデン・ボフォース社の機関砲のようである。

資料館

ハンガーを改造したような建物にタイ軍に関する資料が展示されている。

タイ軍の男性・女性兵士用の軍服である。

大きい筒のような構造物の中に椅子が並んでいる。作戦室か指揮所の訓練装置であろうか。

アメリカ・ロッキード社の「F-16(ファルコン)」の訓練装置である。パイロットの養成において実機を使った訓練には莫大なコストがかかる。そのため、パイロットはまず訓練の初期段階でこのような簡易的な訓練装置で操作手順を練習し、ある程度の基礎を学んでから実機訓練に投入されるのである。この装置からも多くのタイ軍パイロットが巣立ったことであろう。

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