クアラルンプール市街
・独立広場(ムルデカスクエア)周辺
・マレーシア警察博物館
(MUZIUM POLIS DIRAJA MALAYSIA)
・マレーシア国立博物館(MUZIUM NEGARA)
マレーシアの首都クアラルンプールは、19世紀半ばに錫(スズ)鉱山開発のために開拓された街である。掘り出された錫は市内を流れる川で洗われ、街はいつしかマレー語で「泥が(ルンプール)交わる(クアラ)場所」と呼ばれるようになった。気候は一年を通じて27℃程度である。年間降水量は東南アジアでも多く、乾季と雨季はあまりはっきりとはしていない。夕方から激しいスコールに見舞われることが多い。
平成21年(2009年)の都市人口は約180万人、都市圏人口は約720万人である。市内は緑豊かであるが、高速道路や鉄道、モノレールなどのインフラ整備が進み、東南アジア有数の近代都市となっている。クアラルンプールのランドマークであるペトロナスツインタワーは、近代的なビルながらイスラム様式のモスクをかたどった外観が印象的である。1998年の建設当時、452mの88階建ては世界一高い構築物であった。2003年に台北の台北101に世界一の座を譲ったが、2011年現在でもツインタワーでは依然として世界一の高さである。
昭和16年(1941年)12月8日未明、日本海軍の「真珠湾攻撃」に先立つこと1時間20分前、日本陸軍はマレー半島に奇襲上陸を敢行した。開戦と同時に「マレー作戦」が開始されたのである。はイギリスの東洋における一大根拠地、シンガポールを狙ったものであった。シンガポールは沿岸砲台で堅固に守られており、海上からの攻撃ができなかったからである。
日本軍はマレー半島東側のコタバルに上陸、上陸地点に築かれていた英軍陣地からは激しい攻撃が加えられたが、コタバル海岸の一角に橋頭堡を築いた日本軍は内陸に侵攻し、翌日にはコタバル市街を占領した。続いて9日夜半にはタイ領のシンゴラ・パタニにも上陸を行った。タイ軍と小規模な小競り合いがあったが、概ね問題なく上陸が完了した。なお、タイからはその後領内通過の許可を得ることとなる。
タイ領との国境付近には6400名の英軍部隊が守備するジットラ・ラインと呼ばれる堅固な陣地が構築されていた。しかし日本軍の小部隊(佐伯挺身隊:521名)が前衛陣地に突入すると、英軍は混乱し主陣地へ退却を開始した。これを見た主陣地の各部隊も混乱し、各地で敗走が始まり、日本軍はわずか一日でこの陣地を突破した。
マレー方面の英軍の総兵士数は日本軍の二倍を擁していたが、その多くはイギリス植民地から連れて来られた民族の寄せ集めで練度、士気が低かったのである。日本軍は続けてマレー半島を南下したが、英軍は各地で敗退を繰り返した。英軍はマレー半島の要衝クアラルンプールを防衛するため、クアラルンプール北側のトラロク・スリムバー・スリムに北部から退却してきた部隊を集結させ、南部からの増援と合流して日本軍に備えていた。スリム周辺には縦深陣地が築かれ、攻略には困難が予想された。
昭和17年(1942年)1月6日深夜に日本軍戦車部隊がトラロク前方の陣地に夜襲をかけた。翌朝にはトラロク市街を占領し、続けてスリムバーの英軍司令部を急襲してこれを壊滅させた。戦車部隊は更に前進してスリム付近の鉄橋を爆破される前に確保した。司令部を失い退路を絶たれた英軍は大混乱に陥り、多くの兵員が捕虜や行方不明になり、火砲や車両などの兵器多数を失った。日本軍はこの縦深陣地をわずか一日で突破したのである。英軍のクアラルンプール防衛計画は崩壊し、英軍は1月12日にクアラルンプールを放棄した。
その後も英軍は敗走し、1月31日に日本軍はマレー半島南端ジョホールバルに到達した。行程1100kmをわずか55日間で突破したのである。マレー半島での抗戦を断念した英軍はジョホールバルとシンガポール島にかかる橋を爆破してシンガポール島内に撤退した。上陸準備を整えた日本軍は2月9日未明にシンガポール島へ上陸を開始し、一週間の戦闘を経て2月15日に英軍は降伏した。英軍降伏後、マレー半島は日本軍の軍政下に置かれた。
大東亜戦争中、クアラルンプールでは英軍が早々に退却したために大きな戦闘は起きていない。そのため、現在市内に特に戦跡と呼べるようなものは遺されていない。しかし、クアラルンプールは英日統治時代からマレー半島統治の中心であった。市内中心部にはイギリス時代に建設され、日本軍進駐後は軍政に使われた建物が遺されている。また、市内の博物館には若干の日本軍火器、マレー作戦で銀輪部隊が使った自転車や装備品などが展示されている。