大東亜戦争におけるロサンゼルスサンディエゴの歴史

ロサンゼルスはアメリカ西海岸の都市であり、ニューヨークに次いで全米第2の人口規模を持つ。ロサンゼルス市のみの人口は384万人であるが、都市圏となる周辺のロサンゼルス郡とオレンジ郡を合わせた人口は1287万人の大都市である(2006年)。一年を通して温暖な気候であり、年間降水量は300mm程度と少ない(日本は約1800mm)。この気候は映画撮影に適しており、多くの映画制作会社が誕生した。現在もハリウッドは観光地として有名である。

サンディエゴは基地の街でもある。サンディエゴ湾には第二次世界大戦前から海軍の修理基地があったが、開戦後に急増した需要に対応して大幅に拡張された。昭和18年(1943年)から昭和20年(1945年)の間に改装、修理、整備を行った艦船は5117隻以上と記録されている。なお、米空母サラトガは真珠湾攻撃時にサンディエゴで整備中であったために難を逃れている。サンディエゴの海軍基地は現在もアメリカ西海岸最大規模であり、東太平洋を管轄とするアメリカ第三艦隊の司令部はサンディエゴのロマ岬に置かれている。

昭和16年(1941年)12月の大東亜戦争開戦以降、日本海軍の潜水艦はアメリカ西海岸において通商破壊作戦を実施し、タンカーや貨物船を10隻以上撃沈した。また、昭和17年(1942年)2月24日未明には「伊号第一七潜水艦(伊17)」がロサンゼルス近郊サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃作戦を行い、損害を与えた。

開戦当初、真珠湾攻撃、マレー作戦を始め、日本軍は太平洋戦線において連合国軍に対し連戦連勝を収めていた。こういった状況の中でのアメリカ西海岸への攻撃は、アメリカに日本軍機動部隊の米本土空襲や米本土上陸の恐怖感を煽った。アメリカ上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」とし、日本軍上陸後の具体的な迎撃作戦を検討していた。また、アメリカ西海岸沿岸の主要な港湾では、日本軍襲来に備えて防潜網や機雷の敷設が行われた。都市部では防空壕が作られ、防毒マスクが市民へ配布された。

伊17の製油所砲撃の翌日25日午前1時頃、ロサンゼルスの防空レーダーは日本軍機と思われる飛行物体を感知し、飛来数は25機と報告された。陸軍第35沿岸砲兵旅団は、これを撃墜しようとロサンゼルス沿岸部上空をサーチライトで照らし、約1440発の対空砲火を発射した。この様子は全国ネットのラジオ局で中継され、市民は大混乱に陥った。しかし、戦後に明らかにされた日本海軍の記録では、この日のロサンゼルス一帯への攻撃の記録はなく、この日本軍機飛来は誤認であった。

この騒動は「ロサンゼルスの戦い(Battle of Los Angeles)」と呼ばれ、アメリカ側が本土への攻撃を強く警戒していたことを示すものであろう。

ロサンゼルス・サンディエゴの一番の見所は航空博物館である。それぞれの博物館がかなりの収蔵量を持っている。また、博物館にはレストアと整備を行う工房が併設されているところもあり、ここが日本の博物館と大きく異なるところであろう。一部の機体は飛行可能な状態まで整備され、体験搭乗ができるところもある。

この背景となっているのが、航空大国アメリカの航空分野の裾野の広さであろう。アメリカの民間航空機の総数は258,023機に対し、日本は2,256機である。レシプロ機(主として単発の小型飛行機)に限ると、アメリカが226,795機に対し、日本は699機であり、人口当たりの普及率は実に155倍である(1995年)。一つの町に小型機用の空港が一つあるところも多く、農家が農薬散布用に軽飛行機を所有するなど、アメリカでは飛行機はずっと身近な存在である。

現在も軍港として使われているサンディエゴでは、第二次世界大戦中に建造が始まり、終戦にぎりぎり間に合わなかった「航空母艦ミッドウェイ」の巨大な艦体の中を見学することができる。

また、サンディエゴは映画「トップガン」(1986年:アメリカ)の舞台となった街としても有名である。「トップガン」とは1969年にサンディエゴ近郊のミラマー海軍航空基地に創設された最強部隊であり、これが映画のモデルとなった。映画の撮影は主にサンディエゴで行われ、撮影で使われた建物の中には今でも残っているものがある。