バリ島北部
・ブラタン湖のゴア・ジャパン
(Goa Jepang 日本軍防空壕)
・マルガ英雄墓地
・松井兵曹長・荒木兵曹記念塔
・松井兵曹長・荒木兵曹記念像
バリ島東部
・クルンクンのゴア・ジャパン
(Goa Jepang 日本軍防空壕)
・バドゥン海峡(レパン・ビーチ)
・サヌール・ビーチ(サヌール海岸)
バリ島南部
・三浦襄翁の墓
・海軍軍属大館像
・グラライ像(2ヶ所)
・デンパサール国際空港(グラライ国際空港)
バリ島は日本の南南西の方向にあり、ボルネオ島(カリマンタン島)の南で赤道以南に位置する。インドネシアの政治経済の中心のジャワ島の東のバリ海峡をはさんだ東側に位置し、海峡の最も狭い部分は3km程度しかない。面積は5633平方kmで人口は320万人であり、沖縄本島と比べると面積は4.6倍、人口は2.9倍である。島の北部には東西に火山脈が走り、最も高い山はアグン山で標高3142mである。南部には平野が広がり、「グラライ国際空港」や州都デンパサールも南部に位置する。
インドネシアはジャワ人が最も多い多民族国家であるが、バリ島はバリ人が大多数を占める。多くの人々はバリ語を用いてきたが、近年は公用語であるインドネシア語を用いる層が特に都市部で増えてきている。また、イスラム教徒が最も多いインドネシアにおいて、バリ島は唯一のヒンドゥー教の島である。
17世紀に香辛料貿易を求めて来航したオランダはバタヴィア(バタビア・現ジャカルタ)にオランダ東インド会社を置いていた。1800年にはほぼ現在のインドネシアの領域全体をオランダ本国政府の直接統治に入れたが、バリ島は特に特産品がなかったためオランダから注目されずに放置されていた。19世紀中頃までバリ人による自治支配が続いていたが、1846年にオランダはバリ島東北部に軍隊を上陸させ、1908年(明治41年)には全島を支配しバリ人による自治は終焉を迎えた。
昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争が開戦すると日本軍は蘭印(オランダ領インドネシア)への侵攻を計画した。その主な目的は戦争継続に必要な資源の獲得であった。バリ島は蘭印軍の本拠地であるジャワ島に先立って攻略目標に入れられた。なぜならば、バリ島には蘭印軍が建設した飛行場があり、ここを抑えて制空権を取る必要があったからである。
昭和17年(1942年)2月19日、第八駆逐隊の駆逐艦4隻に護衛された2隻の輸送船は、「サヌール海岸」に歩兵1個大隊他を上陸させた。このとき蘭印軍は既にバリ島からジャワ島方面へ撤退しており、上陸に際して連合軍の抵抗は全くなく、同日中に上陸部隊は 「デンパサール飛行場」を占領した。
2月19日深夜から20日未明にかけて、日本軍の侵攻を察知した連合軍艦隊がジャワ島方面から 「サヌール海岸」付近に到着し、第八駆逐隊との間で 「バリ島沖海戦」が発生した。連合軍艦隊は巡洋艦3、駆逐艦7を擁し、戦力としては圧倒的に優勢であったが、駆逐艦1が沈没、巡洋艦1が中破、駆逐艦1が小破した上に、輸送船団は既に上陸作戦を終えていた。一方日本側の損害は駆逐艦1が大破、駆逐艦1が小破であり、日本軍の大勝と言ってよい結果であった。
大東亜戦争が日本の敗戦で終結すると、日本軍に変わってオランダ軍が再進駐してきたが、その狙いはインドネシアの再植民地化であった。バリ島ではジャワ島やスマトラ島よりも先にオランダ軍が侵攻した。
これにバリ人の司令官グラライを中心とした武装組織立ち上がった。バリ島の日本兵の中にも日本に帰国せずにグラライと共に戦った人々がいた。しかし、兵力、装備に勝るオランダ軍の侵攻はいかんともしがたく、グラライとその部隊は昭和21年(1946年)11月20日のオランダ軍の大規模攻撃の際、バリ島中部の「マルガ」にてオランダ軍に突入し全滅したと伝えられている。
現在のバリ島はサヌール地区やクタ地区を始め、古くから観光開発されてきたリゾート地として有名である。観光業はバリ島の経済活動の40%を占め、観光客は日本人が最も多い。
グラライ部隊が全滅した「マルガ」には、独立戦争で戦死したインドネシア人兵士の英雄墓地がある。そしてそこには、独立戦争に参加して戦死した日本人兵士もインドネシア人兵士と全く同じ扱いで祀られている。また、郊外には日本人兵士の記念碑・慰霊碑が建てられているが、これらは地元住人によって自発的に建てられたものである。住民は概ね親日的であるが、それはインドネシア独立のために命をかけた日本人がいたことが大きい。