大東亜戦争におけるジャカルタの歴史

独立広場周辺
・独立記念塔(モナス)
・日本軍政監部
・今村軍司令官官邸
・碑文博物館(Museum Taman Prasasti)
・日本軍司令部

ジャカルタ近郊
・日本人納骨堂
・国軍博物館(Museum Satriamandala)
・カリバタ英雄墓地

インドネシアの首都ジャカルタの人口は958万人、都市圏人口は2409万人の大都市である。16世紀のバンテン王国時代はジャヤカルタと呼ばれていたが、オランダ当地時代にバタヴィアと改名された。日本統治時代に再びジャカルタに改称され、現在に至る。

昭和16年(1941年)8月1日、日本はアメリカより対日石油輸出禁止措置を取られた。日本は石油のほぼ全量を輸入に頼っており、蘭印の油田を早期に確保しなければ戦わずして艦艇、航空機が動かせなくなってしまうことは必至であった。同年12月8日、真珠湾攻撃によって大東亜戦争の火蓋が切って落とされ、同時に南方作戦が始まった。南方作戦の最終目標は蘭印軍の本拠地であるジャワ島であった。

日本軍は昭和17年(1942年)1月11日のタラカン島、セレベス島のメナドへの上陸を皮切りに快進撃を続けた。蘭印最大の油田であるパレンバンは油田設備を敵に破壊される前に確保する必要があったため、空挺部隊が投入された。スラバヤ沖海戦、バタビア沖海戦で勝利し、占領した飛行場に航空隊を進出させて制空権、制海権を握った日本軍は3月1日、ジャワ島に40000名を上陸させた。連合国軍の士気は低く、同月10日、上陸からわずか9日間で連合国は降伏した。長いオランダ支配に不満が鬱積していたインドネシア人は日本軍を熱狂的に迎え入れた。

大東亜戦争中、インドネシアは連合軍の大規模な攻撃を受けることはなかった。3年半に渡る軍政ののち昭和20年(1945年)8月15日の終戦を迎えると、その2日後の17日に民族主義者のリーダーであったスカルノは独立を宣言した。一方インドネシアの再植民地化を狙うオランダは部隊を続々と送り込み、その数は12万人に達し、緊張は高まっていった。

昭和22年(1947年)7月17日、オランダ軍は全面攻勢を開始した。装備面ではインドネシア側は圧倒的に劣勢であり、オランダ軍は臨時首都であったジョグジャカルタを初め主要都市部を占領した。しかし、日本軍の軍事教練によって戦うことを覚えた彼らは、もはやオランダ植民地支配に甘んじる人々ではなかった。彼らは、5年前(昭和17年・1942年)に、有色人種である日本軍が、白人であるオランダ軍をあっという間に蹴散らすのをその目で見ていたのである。最早、彼らに「有色人種が白人には勝てない」という意識はなかった。

インドネシア人は民族自決のために立ち上がった。スディルマン国軍司令官のもと、郷土防衛義勇軍(PETA)を母体とした武装勢力が農村部や地方都市でゲリラ戦を展開し、昭和24年(1949年)3月1日、ジョグジャカルタをオランダ軍から奪還した。

オランダ経済はドイツの占領で疲弊しており、長引く戦争による過大な軍事費支出に耐えられなくなってきていた。1949年12月27日、オランダはインドネシアの主権を共和国側へ移譲し、300年間に及ぶ植民地支配は遂に終焉を迎えた。

日本がインドネシアの資源の確保が主目的であったことは事実である。また、独立を勝ち取ったのは自ら立ち上がって血を流したインドネシア人自身である。しかし、日本がインドネシア人の意識の変革、オランダに対抗しうる組織を形成するきっかけを作ったのもまた独立戦争の歴史の背景と言えよう。

日本人兵士の中にはインドネシア独立の約束を果たすため、あるいはPETAの教官として教え子に請われ、帰国せずに独立戦争に参加した者たちがいた。独立戦争に身を投じた日本兵約2000名のうち、約半数が祖国の地を踏むことなく戦死した。彼らはジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ、インドネシア各地の英雄墓地に、インドネシア人兵士と全く同じ扱いで葬られている。

独立広場付近では軍政期の建物が現在でも政府系の施設として使われている。また、日本軍の武器が独立戦争で広く使われた経緯から、博物館に多くの武器が遺されている。

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