「国軍博物館(Museum Satriamandala)」の展示内容

大東亜戦争におけるジャカルタの歴史
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ジャカルタ近郊
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ジオラマ

博物館の展示の前半はインドネシア独立期に関するものが中心となっており、ジオラマによる展示が並んでいる。

このジオラマは1945年9月18日、ジャワ島のマランで日本軍とインドネシア人民治安軍の間で起きた軍事衝突の様子を再現している。当時、連合国は日本軍のインドネシア側への武器引渡しを厳禁としていた。武器を求めるインドネシア側はブジス飛行場を攻撃して占領し、数機の日本軍機を接収したと説明されている。

インドネシア側との間で起きた軍事衝突を再現している。英軍は民衆に武器を提出させるチラシを配布し、これがインドネシア側を刺激した。銃撃戦が発生し、英軍の旅団長マラビー准将が射殺された。

当時の銃撃戦の弾痕の残る窓ガラスである。スラバヤのインターネイシオ銀行の窓ガラスであり、1987年に当博物館に寄贈された。

連装機関銃

「八九式旋回機関銃」である。空冷式連装の航空機関銃であり、陸軍機に搭載された。「十一年式軽機関銃」の機構を元に製作され、昭和4年(1929年)に制式採用された。

給弾方式は5発挿弾子を用いた扇状の特殊な装弾機構だった。

連装にしたことによって一分間1400発という高い発射速度を得たが、大型で大きな風圧を受け、操作は難しかった。そのため、後に「テ4」という単装のものが開発されることとなった。

口径は7.7mmである。搭載機は「九三式重爆撃機」や「九三式軽爆撃機」など、大東亜戦争開戦前の支邦事変などの時期の陸軍爆撃機に搭載された。

海軍の航空機用機銃「一〇〇式旋回機銃」と思われる。説明板では「Type100 口径7.7mm」となっている。陸軍は「八九式旋回機関銃」の後継として空冷式連装機関銃「一式旋回機関銃(テ3)」を開発したが、これを海軍が採用したのが「一〇〇式旋回機銃」である。

口径は7.92mmである。100発入りサドル(鞍鞄)型ダブルドラム弾倉を機関部に装着して給弾した。

重機関銃・自動砲

日本陸軍の「九二式重機関銃」である。支那事変から大東亜戦争終戦まで各戦線で広く使用された。制式採用は昭和14年(1939年)である。

当時陸軍は口径6.5mmの「三年式機関銃」を使用していたが、各国の重機関銃と比べて威力不足が目立ってきたため、より大口径の機関銃が求められた。当初、昭和4年(1929年)に制式採用された口径7.7mmの「八九式旋回機関銃」を陸戦用に改造しようとしたが、これは容易ではなく断念された。

この展示されている銃は上下が逆に取り付けられている。本銃の特徴は「ハの字」型の銃把であるが、これは折り畳んでいる状態から開いて射撃する。写真の銃の両側の銃把を開くと「ハの字」が逆になってしまうことが分かるだろう。

生産数も45000丁と多く、当博物館以外でも東南アジア諸国を中心として多く遺されている。

日本陸軍が唯一制式化した口径20mmの対戦車ライフル「九七式自動砲」である。陸軍では口径12.7mm以上の火器は「砲」に分類されるため、「自動砲」という名称が付けられた。生産数は400挺と少ない。

貫通能力に関しては諸説あるものの、垂直に着弾した場合220mで30mm、420mで25mm、700mで20mmの鋼板を貫通させることができたとされる。しかし、戦争後期に連合国の戦車の装甲が厚くなると、威力不足が目立つようになった。しかし、トーチカの銃眼などを狙撃するなどの役割として引き続き使われたようである。

装弾数は7発、箱型弾装が使用された。一分間に20発の発射速度があった。

銃口部分には発射時にガス圧を上下左右に噴出させるマズルブレーキという装置が付いている。これによって銃身がぶれにくくなり、命中精度が向上した。

本砲の価格は当時6400円であり、「三八式歩兵銃」の77円、十一年式軽機関銃」の950円と比べても、かなりの高額兵器であった。

単装機関銃

「九七式車載重機関銃」である。昭和12年(1937年)に制式採用され、戦車や装甲車に搭載された。狭い車内で扱えるように銃床が短いのが概観上の特徴である。射撃の際には薬莢が狭い車内で散乱するのを防ぐために「打穀受け」と呼ばれる袋を装着した。

口径は6.5mmの「九一式車載機関銃」から威力向上がはかられ7.7mmとなった。給弾は20発入りの箱型弾倉が使用された。

「テ4」である。連装式の「八九式旋回機関銃」の左銃を改修して製作された単装機関銃である。「テ」とは小口径機関銃の呼び名に付く記号である。説明板では「Type89」となっているが、「八九式旋回機関銃」の派生型であるものの別物である。しかし、開発経緯から「八九式旋回機関銃の単装型」と表記されることが多いようである。

この銃の引き金の後ろにあるはずの肩当ては失われているようである。

「九八式旋回機関銃」と思われる。ドイツのMG15 7.92mm機関銃を陸軍がライセンス生産したものが甲型、陸軍で多く使われいた口径7.7mmに改良して互換性を高めたものが乙型と呼ばれた。生産数は乙型の方が多い。

「二式複座戦闘機(屠龍)」などに装備された。

「テ4」である。航空機用であり、重量は9.27kgと比較的軽い。

「テ4」は「九七式重爆撃機」や「九九式双発軽爆撃機」、「一〇〇式重爆撃機」など、大東亜戦争期の主力陸軍爆撃機に搭載された。生産数も「八九式旋回機関銃」より多い。

海軍の航空機用機銃「九二式七粍七機銃(92式7.7mm機銃)」と思われる。説明板では「Type369 口径7.92mm」となっている。昭和7年(1932年)に制式採用され、以後改良を加えられながら長く使用された。複座以上の海軍機に搭載された旋回式機銃は、一部を除いて全て「九二式七粍七機銃」であった。

口径7.7mm、初速748mm、発射速度は550発/分であった、また、重量は9.5kgである。

擲弾筒・拳銃・小銃

「十年式擲弾筒」または「八九式重擲弾筒」である。説明板では「TEKIDANTO」、「口径50mm」となっているのだが、この両者は口径が同じで外見が非常に良く似ているため、どちらかははっきりとはしない。擲弾筒とは手榴弾と同程度の威力の擲弾を発射する武器であり、グレネードランチャーという表現の方がなじみがあるかもしれない。

「十年式擲弾筒」は大正14年(1925年)に制式採用されたが、最大射程は175mで命中率は悪かった。「八九式重擲弾筒」は射程と命中率を改善し、昭和7年(1929年)に制式採用された。最大射程は670mである。

写真左側の拳銃は「九四式拳銃」である。南部銃製造所によって設計され、その小ささから将校、戦車兵、航空隊などの特殊兵科で盛んに使用された。口径は8mmである。なお、右側はドイツの「ワルサーM38」である。

「十四年式拳銃」である。九四式拳銃と同じく南部銃製造所の設計で口径は8mmであるが、制式採用はこちらの方が10年ほど古い。

上から二番目が「三八式騎銃」、三番目が「三八式歩兵銃」である。「三八式歩兵銃」が開発された日露戦争当時はまだ騎兵への対抗を考慮する必要があったため、銃剣を付けて馬上へ届く槍としての長さが必要とされた。そのため、全長は1276mm、「三十年式銃剣」を装着した状態では1663mmと長いのが特徴である。

「三八式騎銃」は「三八式歩兵銃」を騎兵用に全長を約300mm短くしたものである。軍事技術の進化により戦場から騎兵は姿を消したが、工兵、砲兵、輜重兵、通信兵などで使用された。

連合国重火器

「M20対戦車ロケット発射器」、通称「スーパーバズーカ」である。バズーカが登場したのは昭和17年(1942年)末である。初速が遅くても高い装甲貫通力を持つ成型炸薬弾頭(HEAT)が実用化されたことにより、単純かつ安価なバズーカは戦車にとって大きな脅威となった。

口径60mmのバズーカは第二次大戦中には大きな効果を上げた。しかし、朝鮮戦争に投入された「T-34-85」には威力不足となり、口径89mmの「スーパーバズーカ」が使用された。

各国の野砲類である。

ロシア製の魚雷である。

九三式中間練習機・二式高等練習機

海軍の練習機、「九三式中間練習機」である。機体は目立つようにオレンジ色に塗られていたことから「赤とんぼ」と呼ばれた。この機体は大東亜戦争終戦時にジャワ島中部のジョグジャカルタ周辺の飛行場に残されていたものをインドネシア独立派に接収されたものである。機体は濃い紺色に塗り替えられており、尾翼は赤と白のインドネシア国旗色の塗装が施されている。

制式採用は昭和9年(1934年)であり、木製骨組みに羽布張りである。ところどころ破れて内部が見えており、痛みは激しい。

接収された日本軍機は最初のインドネシア空軍機となった。この機体は独立戦争のときにオランダ側の占領地域に爆撃を行った。

エンジンにはプレートが付けられている。「天風一一型 二十一空廠」と読み取れる。

生産機数は5591機と多い。「零式艦上戦闘機(零戦)」に次いで二番目に生産機数の多い「一式戦闘機(隼)」の生産機数が5700機である。多くの練習生がこの機体から巣立った。

陸軍の練習機、「二式高等練習機」である。当時旧式化しつつあった「九七式戦闘機」を練習機とし、昭和17年(1942年)に制式採用された。

この機体も大東亜戦争終戦後にインドネシア独立派に接収されたものである。インドネシア空軍でも練習機として使用されていたようである。機体中央にインドネシア国旗が描かれている。「九七式戦闘機」は単座であるが、この機体は訓練用に複座に改造された「乙型」である。他に単座のままの「甲型」もあった。

エンジンは「九七式戦闘機」より低馬力のものに換装された。生産機数3710機であった。

引込脚が主流になりつつあった時代であったが、固定脚が採用されている。整備性や操縦性が良く、練習機に向いていたようである。

なお、現存する「九七式戦闘機」は一機のみであり、「福岡県」の「筑前町立大刀洗平和記念館」に展示されている。

航空機他

アメリカのノースアメリカン社の攻撃機「B-25J(ミッチェル)」である。インドネシア独立後の1950年に空軍力の強化のために導入された。「B25」は陸上爆撃機としては中型であり、軽快な運動性、短い離発着距離が特徴であった。昭和17年(1942年)4月、空母「ホーネット」から発艦しドゥーリットル空襲を行った機種として有名である。また、ビスマルク海海戦では軽快な運動性を生かして「反跳爆撃(スッキップボミング)」を行って戦果を上げた。

尾翼は双垂直尾翼であり、片方の尾翼が損傷しても機体のコントロールを保つことができた。

「J型」は爆弾1360kgのほか機銃を18門搭載した攻撃機タイプである。なお、米陸軍における攻撃機とは、日本海軍での定義とは異なり、地上直協用機の事である。

機首部分の8挺の機銃のほか、機首の両側に2挺ずつの機銃が装備されている。ここから繰り出される機銃掃射は苛烈だったことであろう。

この機体は1976年にここに寄贈された。「B-25」は第二次世界大戦後も各国で運用されていたが、1979年にインドネシアで退役したものが最後だった。

アメリカのノースアメリカン社の陸上戦闘機、「P-51(マスタング)」である。大きな航続力と高高度性能、運動性を合わせ持ち、レシプロ時代の傑作機と評価されている。この機体は1950年にインドネシア空軍に導入され、1979年に当博物館に寄贈された。

イギリスのフェアリー社の艦上対潜哨戒機、「ガネット」である。ずんぐりとした胴体が特徴的である。この機体は1960年にインドネシア空軍に導入され、1974年に当博物館に寄贈された。

アメリカのダグラス社の旅客機「DC-3」である。ジェット旅客機が主流になる前の傑作機であり、各国でライセンス生産された。機体側面に「INDONESIAN AIRWAYS」と描かれている。「DC-3」は日本でも生産され、日本海軍はこれを輸送機に改造した「零式輸送機」を制式採用した。

インドネシア製の「NU-25(KUNANG)」である。実験機として製作されたもののようである。

野砲類

屋内展示場を出たところに野砲類が並べられている。口径75mm程度の比較的に大型のもので、スウェーデンのボフォース社製のものなどが中心である。

出口へ向かう通路の右手側には装甲車類が並べられている。

博物館建物の前に2門のイギリス製の野砲が展示されている。型式等は不明である。説明板には口径88mm、重量1800kg、有効射程12250mと記載されている。

この砲は終戦後に連合国がスマトラ島北部のアチェ州に残していったもののようである。インドネシア国軍に接収され、1960年代あたりまで使用された後に当博物館に寄贈されたようである。

アメリカ製の「M3A3軽戦車(スチュアート)」である。初期型の「M3A1」は昭和16年8月に生産が始まったが、同世代の日本軍の「九五式軽戦車」よりも優れた貫通力と装甲を持っていた。しかし、これらの戦車が運用された大東亜戦争前半は日本軍が優勢であったため、スチュアートは苦戦している。

説明板によると、本車輌は1949年にオランダから得た、とされている。1949年はインドネシアが独立戦争に勝利した年であり、アメリカ製の「M3A3」を装備していたオランダ軍がインドネシアに残していったものであろうか。

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