福岡県は九州北部の福岡平野や筑紫平野を域内に持ち、人口は約508万人で九州最大である。県内で最も人口が多いのは県庁所在地の福岡市で約146万人、次いで北九州市の約98万人である。
九州北部には筑豊炭田を始め、糟屋炭田や三池炭田など、豊富な石炭資源があった。その開発の歴史は古く室町時代に遡る。室町時代には地元住民が石炭の存在に気付き、薪よりも効率のよい燃料として使っていた。江戸時代中期に製塩業が興ると、海水を蒸発させて濃縮させるための燃料として、小倉藩や福岡藩が本格的な炭鉱の開発を始めた。明治維新を迎えると日本にも産業革命の波が到来し、明治政府は産業の原動力となる炭鉱の開発を奨励した。
明治政府は殖産興業のスローガンのもと、明治24年(1891年)に八幡村(現北九州市)に八幡製鉄所の建設を開始した。八幡村が建設地に選ばれたのは、製鉄の過程で欠かせない石炭を筑豊炭田から鉄道で大量に調達することができたからである。建設費には日清戦争の賠償金が充てられた。
明治34年(1901年)に操業を開始したものの、技術的な問題から生産量が予定の半分程度しか出せず、大赤字を出してすぐに操業停止してしまった。しかし、明治38年(1904年)に日露戦争が勃発すると鉄の需要が急増し、操業が再開された。
大東亜戦争末期になると、福岡県も米軍の本土爆撃の対象とされた。アメリカ軍の戦略爆撃の一環として計画。マリアナ諸島を出発したB-29爆撃機の編隊239機は九州を北上して福岡上空に到達。福岡市には高射第4師団博多区隊が駐屯(本部:東平尾)し、高射砲6門で編成された中隊が市内各地に配置され、さらに独立照空第21大隊(本部:筑紫郡春日村、現春日市)が4ヵ所に配置されていた。さらに、中央区輝国や糸島郡高祖山にも高射砲陣地があったという証言がある。
敵機襲来と同時に高射砲陣地が応戦するも、友軍機の迎撃は一切無く、また九州兵器(現・渡辺鉄工所本社工場)や博多港など市の北部と東部に防空機能を位置づけていた上、南九州の防空のために一部の高射砲部隊が転戦しており、さらに肝心の高射砲が射高が低く命中しなかったため、福岡市南部の脊振山方面から進入してきた爆撃隊には効果なく、日本時間6月19日23時11分から焼夷弾投下が開始された。
博多や天神を中心に爆撃が行われ、東西は御笠川から樋井川まで、南北は博多湾海岸線から櫛田神社・大濠公園までの一帯が焼失した。約2時間の空襲により福岡市の3分の1の家屋が罹災。戦後の調査によれば、市内でもとりわけ奈良屋・冷泉・大浜・大名・簀子の5校区の被害が激しく、死傷者の9割を占め、簀子校区は2軒を残して全ての家屋が全焼するなど、あたり一帯は瓦礫ばかりの焼け野原と化した。
そのような中において、1931年に建設された奈良屋小学校(現在の博多小学校の立地)の鉄筋コンクリート製の一校舎は住民の消火活動もあって焼け残り、翌朝から遺体安置所として遺体の身元確認が行なわれた。避難所であった旧十五銀行福岡支店(現在の博多座の立地)の地下室は、停電による扉の不作動で避難民が閉じ込められたうえ、空襲の高熱で水道管が破裂。熱湯と化した上水が地下室に流れ込み、62人が熱死するという惨事も起きた。後日行われた遺体搬出作業には、当時佐世保相浦海兵団輸送班員であった村田英雄も携わった。
また脊振山の山裾に位置する早良郡・糸島郡・筑紫郡の村々も爆撃された。これは脊振山の影を博多湾の海岸線と誤認したためであった。このうち糸島郡雷山村(現在の糸島市雷山地区)では30棟が全焼し、8人の死者を数えた。筑紫郡安徳村(現在の那珂川町北部)では、わずか3世帯しかない瀬戸地区が空襲され、うち1世帯の母屋と納屋が消失した(集落東側の採石場を標的にしたと考えられている)。
日本軍の施設のうち、福岡城址の西部軍司令部や歩兵第124連隊の建築物に被害が出た。しかし同年5月に滑走路が完成していた席田飛行場(現在の福岡空港)には被害はなく、終戦後の同年10月に米軍板付基地として接収されることとなった。空襲の翌日、西部軍司令部に収監されていた連合国軍捕虜が報復処刑された。同様の処刑は原子爆弾投下後の8月10日、終戦の8月15日頃にも行われた。