バンコク
バンコク市街
・ナショナルメモリアル(NATIONAL MEMORIAL)
・タイ王立空軍博物館
(ROYAL THAI AIR FORCE MUSEUM)
・戦勝記念塔(VICTORY MONUMENT)
カンチャナブリー
カンチャナブリー市街
・クウェー川鉄橋
・クウェー川鉄橋駅
・第二次世界大戦博物館(WORLD WAR II MUSEUM)
・泰緬鉄道博物館(THAILAND-BURMA RAILWAY CENTER)
・連合軍共同墓地(KANCHANABURI ALLIED WAR CEMETERY)
・JEATH戦争博物館(JEATH WAR MUSEUM)
カンチャナブリー郊外
・チョンカイ共同墓地(CHONGKAI WAR CEMETERY)
・カオプーンの切り通し
タイの首都バンコクは人口910万人(2010年)を擁し、タイのみならずインドシナ半島の経済、交通の中心地である。大東亜戦争前から日系企業も多く進出しており、駐在員やその子弟が通う日本人学校も多い。バンコクのスワンナプーム国際空港は周辺国への玄関口となるハブ空港として機能している。バンコクの衛星都市であるサムットプラカーンがタイ第2の人口を擁するが、それでも68万人(2007年)であり、都市人口はバンコクに一極集中している。
元々タイ民族は紀元前後には中国南部に住んでいたが、13世紀まで漢民族の進出に押し出される形で徐々にインドシナ半島に移動してきた。その頃、タイの地域はクメール帝国(現在のカンボジア人の国)が支配していたが、タイ民族の小都市国家群がクメール人を追い出してタイ民族最初の国家スコータイ王朝を築いた。その後アユタヤ王朝、トンブリー王朝が興った。トンブリー王朝のタークシン王はビルマの侵攻で破壊されたアユタヤの再建を断念し、現在のチャオプラヤー川西岸のトンブリーに首都を移した。
タークシン王は晩年乱心をきたし、1782年に部下であったラーマ1世に処刑された。ラーマ1世は現代に続くチャクリ王朝を興し、チャオプラヤー川の東岸に遷都した。これがバンコクの都市建設の始まりである。なお、ラーマ9世(プミポン国王、2011年現在)はチャクリ王朝9代目である。
昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争勃発と同時に日本軍は「マレー半島攻略」の為にマレー半島タイ領内のシンゴラに上陸した。ここで両軍の間で小規模な戦闘が起こったが、その後タイは日本軍の領内通過を認めた。これに基づいて仏印からタイ領内を西へ通過した日本軍は12月15日にビルマのラングーンを占領した。
21日に両国は日泰攻守同盟を締結し、翌年1月8日にはタイもイギリスとアメリカに宣戦布告して枢軸国として参戦した。また、シンゴラとコタバルに上陸した日本軍はマレー半島を南下し、昭和17年(1942年)2月15日にシンガポールを占領した。
昭和17年(1942年)、日本軍は海上輸送の危険を避けてビルマ戦線への物資輸送のルートを確立するため、バンコクとラングーン(ミャンマーのヤンゴンの旧称)間に鉄道(泰緬鉄道)を建設に着手した。特に難工事となったのがバンコクの東約100kmのカンチャナブリーにある急流のクウェー川(クワイ川)にかかる鉄橋である。
建設には日本人、朝鮮人約1万5千人のほか、連合国捕虜約6万7千人と東南アジアから徴用された労務者17万人が動員された。建設現場の環境は苛酷であり、食糧不足とコレラ・マラリアが蔓延し、多くの死者が出た。当初5年はかかると言われた工事は、このような過酷な労働によってわずか17ヶ月で完成した。
しかし、昭和19年(1944年)に連合軍の反撃が本格化すると、米英軍は日本軍の補給ルートを遮断するため、クウェー川鉄橋を何度も爆撃した。特に戦争末期は連合軍に橋を破壊されてはかけ直したり、夜間のみ仮設の橋を渡したりしていたようである。
戦後、泰緬鉄道は維持費の高さや重要性の低さから、ビルマ側は全て廃線となった。タイ側では3分の2ほどが廃線となり、現在はバンコクのトンブリ駅からサイヨークのナムトク駅までがタイ国鉄によって引き続き保守・運用されている。クウェー川鉄橋は破壊されて戦後5年ほど使用不能となっていたが、昭和25年(1950年)に日本の手によって修復された。
カンチャナブリーでは映画「戦場にかける橋」(1957年:英)の舞台となった。クウェー川鉄橋を実際に歩いて渡ることができるほか、鉄道建設に関する資料の充実した博物館や工事で死亡した連合国軍兵士の墓地がある。
タイは戦前は欧米から、欧米と関係の悪化した大東亜戦争期は日本から、戦後はアメリカの兵器を主に多く輸入して運用した。そのため、現在も戦前から戦後に至るまでの日本・欧米の様々な兵器類が遺されている。バンコク市内の博物館には「九五式軽戦車」「九九式高等練習機」などが遺されている。