航空母艦「雲鷹(うんよう)」

「雲鷹」とは

航空母艦「雲鷹(うんよう)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の航空母艦である。
日本郵船の豪華客船「八幡丸」を改造、特設航空母艦「八幡丸」として竣工した。後に航空母艦へ艦種変更されて軍艦「雲鷹」と命名された。
大鷹型航空母艦の二番艦であった。

昭和13年(1938年)12月14日、長崎県の三菱重工長崎造船所に於いて、日本郵船の豪華客船「八幡丸」として起工、昭和14年(1940年)10月31日に進水し、昭和15年(1940年)07月31日に竣工した。
その後北米航路に就航、姉妹船「新田丸」と共に約1年就役したが、日米関係の悪化と共に北米航路が休止となり、昭和16年(1941年)10月21日に海軍に徴庸され、特設航空母艦への改造が決定した。昭和17年(1942年)1月21日に広島県の呉海軍工廠で空母への改造工事が開始され、3ヵ月後の5月31日に改造工事が完了、特設航空母艦「八幡丸」となった。その後、8月1日には海軍省に買収、8月31日には軍艦「雲鷹」と命名され、航空母艦「雲鷹」として海軍籍に入った。

「雲鷹」は、商船改造空母であった為、搭載機数が少なく、空母としては低速であった。結果、第一線での作戦行動に用いるには性能不足であったが、ソロモン諸島・東部ニューギニアに於ける航空戦を支える為、航空機輸送任務に従事する事になった。 そして、姉妹艦「大鷹」「冲鷹」と共に、日本本土とトラック泊地との間を往復、時には蘭印(オランダ領インドネシア)方面に行動して陸軍機を輸送する事もあった。
「雲鷹」は、昭和17年(1942年)9月から昭和19年(1944年)1月までの1年半に16回もの航空機輸送を行った。しかし、その航海は決して安全ではなく、昭和18年(1943年)12月4日には姉妹艦「冲鷹」が米潜水艦の雷撃によって撃沈されている。

昭和18年(1943年)後半になると、日本本土と南方とを結ぶ航路が米潜水艦の攻撃に曝され、海上護衛が急務となってきた。そこで、「雲鷹」以下商船改造空母は新設の海上護衛総隊に配属され、船団護衛任務に従事する事になった。そして、昭和19年(1944年)8月以降、「雲鷹」は、南方からの資源を輸送するヒ船団に同行、搭載する哨戒機によって米潜水艦から輸送船団を護衛した。
しかし、その1回目の航海の帰途、昭和19年(1944年)9月17日、ヒ74船団の護衛中、香港南西の東沙島沖に於いて、米潜水艦「バーブ」の雷撃によって撃沈された。豪華客船として竣工してから4年目、特設航空母艦として竣工してから2年目であった。

「雲鷹」は決して高性能な航空母艦では無く、その活動は非常に地味であった。
しかし、「雲鷹」以下商船改造空母による航空機輸送任務が無ければ、最前線での航空戦を継続する事は困難であっただろう。また、同様に船団護衛任務が無ければ、米潜水艦による日本輸送船の損害は更に多くなっていただろう。しかし、日本海軍の海上護衛は後手に回り、護衛艦艇ですら撃沈されていた。
「雲鷹」は貴重な海上護衛戦力として期待されつつも、その任務中に沈んでいった。

豪華客船「八幡丸」の建造

昭和11年(1936年)のベルリンオリンピックに続き、昭和15年(1940年)秋に東京オリンピックが開催される事になった。当時の欧州航路には客船10隻が就航しており、2週間に1回定期運行をしていたが、東京オリンピックでは大勢の外国人観光客の来日が予想され、また、当時就航していた客船は欧米各国の客船に対して性能的に見劣りがしていた。そこで昭和12年(1937年)、日本郵船は欧州航路用として新鋭豪華客船3隻の建造を計画した。この3隻は、起工順に「新田丸(Nittamaru)」「八幡丸(Yawatamaru)」「春日丸(Kasugamaru)」と命名され、船名は著名な神社である新田神社(東京都)・石清水八幡宮(京都府)・春日大社(奈良県)から採られており、更に、日本郵船株式会社のイニシャルNYKにも因んでいた。

尚、建造に際して海軍省の「優秀船舶建造助成法」を受けていた。「優秀船舶建造助成法」は、優秀船舶の整備を目的とており、総トン数6000トン以上・最高速力19ノット以上の商船に対して海軍省が建造費の一部を負担した。その代わり戦時には海軍が徴傭、軍務に従事する事になっており、昭和12年(1937年)4月に施行された。 この「優秀船舶建造助成法」を受けた優秀商船としては、昭和14年(1939年)に起工された日本商船の豪華客船「橿原丸」「出雲丸」があり、この2隻は当初から空母への改造を予定しており、後にそれぞれ航空母艦「隼鷹」「飛鷹」となった。これに対し、「新田丸」「八幡丸」「春日丸」は、当初から空母への改造は予定されていなかった。
そして、一番船「新田丸」が、昭和13年(1938年)5月9日に長崎県の三菱重工長崎造船所で起工された。

二番船「八幡丸」は、昭和13年(1938年)12月14日に同じく三菱重工長崎造船所で起工され、昭和14年(1940年)10月31日に進水、昭和15年(1940年)7月31日に竣工した。
「八幡丸」は、当時の最高の設計・技術で建造された豪華客船で、総トン数17150トン・計画最高速力21.5ノット・旅客定員285名(一等127名・二等88名・三等70名)であった。また、その旅客設備は世界的にも素晴らしく、一等客室には専用の豪華なシャワー・浴室と社交室・読書室が整備されており、どの部屋からも海上の眺望が見えるようになっていた。また、一等客室・一等食堂・二等食堂・理容室・美容室には冷房が完備され、更には、開閉式の天井を備えた温水プールまで設けられていた。内装も高級国産材をふんだんに使用し、国内の一流建築家・有名職人の手によって新日本様式に仕上げられていた。

併しながら、ヨーロッパでは昭和14年(1939年)9月1日に第二次世界大戦が勃発、欧州航路は事実上休止しており、先に竣工していた姉妹船「新田丸」は北米航路に竣役していた。「八幡丸」も、昭和15年(1940年)7月31日に竣工すると、北米航路に就航する事になった。これは、当時の太平洋航路の起点マニラを出航し、香港・上海を経て一旦日本(神戸港・横浜港)に寄港した後、ホノルル・サンフランシスコ・ロサンゼルスへと向かい、再び日本に戻ってマニラに向かう航路で、1回の航海は約2ヶ月であった。
ところが、昭和15年(1940年)に入るとアメリカとの関係も悪化、遂に北米航路も休止となり、「八幡丸」の航海も昭和16年(1941年)8月の第6回航海が最後になった。そして、10月には海軍に徴傭される事になり、更に11月には特設航空母艦への改造が決定した。

特設航空母艦「八幡丸」への改造

昭和17年(1942年)1月、「八幡丸」の特設航空母艦への改造工事が開始された。この改造工事は、同型船から改造された特設航空母艦「春日丸(後の「大鷹」)」と同様であった。
即ち、客船としての遊歩甲板(プロムナード・デッキ)より上の構造物は全て撤去され、そこに航空機用の格納庫が設けられ、更にその上に飛行甲板が設置された。羅針艦橋は遊歩甲板前部の飛行甲板直下に置かれ、煙突は右舷に下向き湾曲煙突が装備された。また、船体前後の船倉は弾薬庫や軽質油(ガソリン)タンクに改造された。
兵装も、「春日丸」と同様、単装高角砲4基4門(「四十五口径十年式十二糎高角砲」B2型)であった。これは、昭和19年(1944年)4月に2基2門増設されて合計6基6門となった。高角機銃は、空母として竣工した時は25mm機銃(「九六式二十五粍高角機銃」)が連装4基8門であったが、次第に増設されて最終的に、25mm機銃は連装2基4門・三連装8基24門、13mm機銃(「九六式十三粍機銃」)は単装10基10門に強化された。尚、「八幡丸」に続いて改造された「新田丸」では「四十口径八九式十二糎七高角砲」を搭載している。
尚、機関は客船の機関をそのまま使用、最高速力は21ノットであった。

昭和17年(1942年)1月21日、広島県の呉海軍工廠で改造工事が開始され、同年5月31日、特設航空母艦「八幡丸」として竣工した。竣工後は連合艦隊付属となり、サイパン島やビスマルク諸島への輸送任務に従事した。また、瀬戸内海西部で発着艦訓練を行った。
その後、昭和17年(1942年)8月1日に海軍省に買収され、31日には特設航空母艦から航空母艦に艦種が変更されると共に軍艦「雲鷹」と命名され、正式な航空母艦となった。嘗て大勢の旅客を楽しませた豪華な調度品や美しい内装は全て撤去され、その姿も厳しい航空母艦「雲鷹」として竣工し、日本海軍の軍艦籍に入った。
この時、同型船を改造した特設航空母艦「春日丸」も軍艦「大鷹」と命名され、大鷹型航空母艦の一番艦となり、「雲鷹」はその二番艦となった。更に、3ヵ月後の昭和17年(1942年)11月25日には、同型船「新田丸」が空母「冲鷹」に改造され、三番艦となった。因みに、客船としては、一番船「新田丸」・二番船「八幡丸」・三番船「春日丸」の順に起工・竣工したが、空母としての竣工は順番が逆になっている。

併しながら、大鷹型航空母艦は、空母への改造工事の期間を短縮する為に客船の機関をそのまま使用ており、最高速力は21ノットと、空母としては低速であった。結果、高速航行する艦隊に随伴したり、多数の艦載機を迅速に発艦させる事が困難となり、第一線で使用する空母としては性能不足が否めなかった。従って、大鷹型航空母艦は、主として輸送任務や船団護衛に使用される、補助的な空母として位置づけられ、第一線で使用される正規空母とは区別された。

航空母艦「雲鷹」による航空機輸送

この頃、大東亜戦争の焦点は南東方面のソロモン諸島にあり、同諸島のガダルカナル島を巡る日米の攻防戦が激化していた。日本海軍はビスマルク諸島ラバウルやブーゲンビル島を基地とし、連合軍と連日激しい航空戦を展開していたが、連日の戦闘によって次々と機材を消耗、これを補充する為の航空機輸送が急務となった。併しながら、日本本土で生産された航空機を前線まで輸送する事は容易ではなかった。航空機を飛ばせて輸送(空輸)する場合、移動中の事故や故障によって消耗する危険性がある。また、空輸には多数の搭乗員を必要とするが、当時は前線の基地航空隊ですら搭乗員が不足しており、空輸の為に搭乗員を割く余裕はなかった。結果、船舶に航空機を搭載して輸送する事になるが、航空機は精密機器であるため、木箱のように積み上げる訳にはいかない。分解して収納する事も可能であるが、搭載時の分解・梱包や、現地に到着した後での開封・組立ては非常に手間と時間がかかる。前線では一刻も早い補充機材の到着が望まれており、航空機をそのまま搭載可能な船舶が必要であった。これに最適なのは航空母艦であるが、昭和17年(1942年)6月に行われたミッドウェー海戦に於いて日本海軍は正規空母4隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)を喪失、更には8月の第二次ソロモン沖海戦や10月の南太平洋海戦と、一連の日米海軍機動部隊同士の海戦によって多数の熟練搭乗員を失い、目下、母艦飛行隊の再建中であった。
そこで、この航空機輸送の大役を仰せつかったのが大鷹型航空母艦を初めとする商船改造空母であった。最高速力21ノットの大鷹型航空母艦は、空母としては低速であり、第一線で使用するには性能不足であったが、輸送船としては非常に高速であり、更に艦内の格納庫や艦上の飛行甲板は航空機を搭載するには最適であった。

昭和17年(1942年)9月以降、「雲鷹」は、姉妹艦「大鷹」と共に、地味ではあるが非常に重要な航空機輸送任務に従事する事になった。更に、12月には三番艦「冲鷹」も竣工、これに加わり、三姉妹艦による航空機輸送が大車輪で行われる事になった。
これは、神奈川県の横須賀軍港で補充機材と補給物資を搭載してトラック環礁に向って出航。4日~6日で内南洋の海軍拠点トラック泊地に到着。ここは大規模な港湾設備が無く、環礁内に停泊した空母から艀(バージ)で飛行機を1機づつ揚陸する為、荷降ろし3日~6日を要した。また、入れ替わりに現地の要修理機材を積込んだ。そして再びトラック泊地を出航して4日~6日後に横須賀軍港に入港、1回の航海に3週間程を要した。この航海では、護衛艦艇と船団を組み、何れかの空母2隻が同一の船団で行動する事が多かった。また時には、ビスマルク諸島ラバウル・カビエン付近まで足を伸ばす事もあった。

この航空機輸送任務では海軍機のみならず陸軍機も輸送した。
「雲鷹」は、昭和17年(1942年)12月2日、 蘭印(オランダ領インドネシア)のジャワ島東部スラバヤに入港、陸軍第六飛行師団第十二飛行団飛行第十一戦隊の「一式戦闘機『隼』」45機を搭載、ボルネオ島バリックパパンで燃料を補給した後、13日にトラック諸島に入港して陸軍機材を揚陸した。その後再び24日にスラバヤに入港、陸軍飛行第一戦隊の「一式戦闘機『隼』」33機を搭載し、翌昭和18年(1943年)1月3日にトラック諸島に再度入港して陸軍機材を揚陸した。この時は、スラバヤの飛行場から港まで広い舗装道路があり、ここを陸軍の整備員が飛行機を押して港まで運んだ。港では岸壁に「雲鷹」が接岸しており、岸壁まで運ばれた飛行機飛を母艦の水兵が飛行甲板に設けられたデリックで1機づつ吊り上げて搭載した。飛行機は艦内格納庫の他、飛行甲板にも繋留された。搭載が終わると、陸軍の整備員も「雲鷹」に便乗してトラック諸島へと向かった。
また、昭和18年(1943年)2月1日には陸軍飛行第二百八戦隊の「九九式双発軽爆撃機」36機を搭載して横須賀軍港を出港、姉妹艦「大鷹」ととトラック諸島に向かった。7日にトラック泊地に入港して陸軍機材を揚陸した。

「雲鷹」は、昭和17年(1942年)9月から昭和19年(1944年)12月までの1年半に日本本土とトラック諸島を15往復し、多数の航空機や整備要員、補給物資を輸送した。しかし、日本本土と南方とを結ぶ航路には、米海軍の潜水艦が潜伏しており、航海は決して安全ではなかった。特に、米潜水艦がレーダーを搭載して集団(狼群:ウルフパック)で行動するようになると日本船舶の被害が激増、航空機輸送は非常に危険な任務であった。
昭和18年(1943年)7月31日、軽巡「長良」・駆逐艦「曙」と横須賀軍港(神奈川県)を出港、翌8月1日には戦艦「武蔵」以下の連合艦隊主力と合流してトラック諸島に向かった。05日02時、トラック泊地への入港直前、米潜水艦「スティールヘッド」の雷撃を受け、魚雷6本が発射されたが、これは命中しなかった。
しかし、昭和18年(1943年)11月30日、空母「瑞鳳」「冲鷹」・重巡「摩耶」・駆逐艦「曙」「朧」「漣」「浦風」とトラック泊地を出港したが、12月4日、東京都八丈島東方に於いて、姉妹艦「冲鷹」が米潜水艦「セイルフィッシュ」の雷撃によって撃沈された。この時、撃沈された米潜水艦「スカルピン」から救助された捕虜41名がおり、「雲鷹」には21名が、「冲鷹」には20名が便乗していたが、「冲鷹」の沈没によって捕虜19名が死亡した。

更に、昭和19年(1944年)1月4日、16回目の航空機輸送任務として横須賀軍港を出港、トラック諸島に向かった。9日にはトラック泊地に入港、18日に出航して軽巡「能代」等の護衛を受けて横須賀軍港に向かった。しかし翌19日、サイパン島沖(北緯12度50分・東経146度23分)に於いて、米潜水艦「ハドック」の雷撃を受けた。この時発射された魚雷6本中2本が前部船倉に命中して艦首が大破、幸いにも航行可能であったので、翌20日にサイパン島に入港し工作艦「明石」により応急修理が実施され、破損した艦首の除去と船体・甲板の補強を行った。23日には護衛の駆逐艦「潮」がトラック諸島から到着した。25日、米潜水艦「ハリバット」がサイパン島の泊地に侵入したが被害は無く、27日に駆逐艦「潮」と出港、横須賀軍港に向かった。途中、2月2日に米潜水艦「ガジョン」「ソーリー」に視認されたが、駆逐艦「潮」が爆雷攻撃によって撃退、更に7日には波浪によって損傷した艦首部が切断されて喪失したが、翌8日に横須賀軍港に入港することが出来た。
損傷した「雲鷹」は、4月1日に修理が開始され、2日には横須賀海軍工廠第四船渠に入渠、またこの時、飛行甲板前端部の10m延長・12cm高角砲(「四十五口径十年式十二糎高角砲」)2基増設・機銃(「九六式二十五粍高角機銃」「九六式十三粍機銃」)増設等が実施された。修理には約3ヶ月かかり、6月28日に出渠した。

航空母艦「雲鷹」による船団護衛

昭和18年(1943年)末より戦局急速に悪化、ソロモン諸島はほぼ米軍によって制圧され、同方面の根拠地であるビスマルク諸島ラバウルは孤立、また、昭和19年(1944年)2月には内南洋最大の海軍根拠地トラック泊地が米軍の空襲によって壊滅していた。
更に、この頃になると米潜水艦の跳梁が激しくなり、物資や資源を運ぶ貨物船や油槽船(タンカー)が次々と撃沈され、日本本土と南方資源地帯との輸送路が寸断されようとしていた。「雲鷹」と常に行動を共にしていた姉妹艦「冲鷹」も、昭和18年(1943年)12月4日に米潜水艦「セイルフィッシュ」によって撃沈されており、輸送船団の護衛が急務となっていた。そこで、この事態に対処すべく、輸送船団の護衛を任務とする海上護衛総隊が設立された。しかし、電探(レーダー)を備えて集団で潜伏する米潜水艦の攻撃に対し、従来のような少数の艦艇による護衛では最早歯が立つものではなかった。そこで、「大鷹」以下の商船改造空母が海上護衛総隊に編入され、船団護衛任務に従事する事になった。即ち、空母の艦載機による対戦哨戒によって米潜水艦を発見・攻撃し、船団を護衛するのである。
この様な船団護衛は、大西洋方面の連合軍艦隊に於いても護送船団(コンボイ)として実施されており、商船を改造した護衛空母とその艦載機による対潜哨戒と、護衛駆逐艦による対潜攻撃によって、ドイツ海軍潜水艦(Uボート)と熾烈な戦いを展開していた。

「雲鷹」は、昭和18年(1943年)12月15日に海上護衛総隊司令部付属となった。それに伴い、対潜哨戒機として第九三一航空隊の「九七式艦上攻撃機」12機が配備された。その後、昭和19年(1944年)1月19日の被雷によって6月28日まで入渠・修理を余儀なくされたが、その間に高角砲・機銃を増設、爆雷とその投下台も装備した。そして8月12日に修理を完了して横須賀軍港を出港した。15日には第一海上護衛隊に編入され、早速船団護衛任務に従事する事になった。
当時、山口県の門司港と南方資源地帯の主要港であるシンガポールのセレター軍港やフィリピン諸島ルソン島のマニラ港との間を往復するヒ船団が、南方からの資源輸送路(主として石油)として重要視されており、姉妹艦「大鷹」は、既に5月から船団護衛任務に従事していた。併しながら、日本本土と南方資源地帯との航路は既に米潜水艦の行動範囲となっており、毎回の航海は危険と隣り合わせであった。

航空母艦「雲鷹」の最期

「雲鷹」は、最初の護衛任務としてヒ73船団を護衛する事になった。
ヒ73船団は、油槽船(タンカー)9隻(「東邦丸」他)・貨物船4隻(「讃岐丸(元特設水上機母艦)」「護国丸(元特設巡洋艦)」「吉備丸(元陸軍上陸用舟艇母艦)」他)・給糧艦1隻と、護衛艦艇として練習巡洋艦「香椎」・海防艦「千振」「第十三号」「第十九号」「第二十一号」「第二十七号」から編成されており、南方への補給物資輸送と日本本土への資源輸送を行う重要船団であった。

「雲鷹」は、昭和19年(1944年)8月17日に広島県の呉軍港を出港した後、瀬戸内海西部で待機、そして25日06時30分、山口県の門司港を出港したヒ73船団と合流、シンガポールに向けて出航した。この時「雲鷹」は、対潜哨戒機として第九三一航空隊の「九七式艦上攻撃機」10機・「九三式練習機」6機を搭載していた。
航海中は対潜警戒を厳にし、常に米潜水艦の攻撃に備えねば成らなかった。出港した当日の25日11時40分には潜望鏡を発見し、海防艦「千振」と共にこれを攻撃した。28日17時12分には対潜哨戒を実施していた「九七艦攻」1機が不時着した。途中の29日~31日に台湾の高雄に寄港した。そして31日14時35分、台湾とフィリピン諸島の間のルソン海峡に於いて、「雲鷹」搭載の「九七艦攻」が米潜水艦「タニー」の潜望鏡を発見、直ちに深度33mの「タニー」に対して60kg対潜爆弾2発を投下した。更に、海防艦「千振」「第二十一号」・特設運送艦「讃岐丸」が爆雷を投下した。この攻撃によって「タニー」は後部発射管室前方左側の耐圧内殻が変形、発射管のジャイロ設定機器の大半が損傷し、他にも故障多数と浸水が発生した。「タニー」は沈没は免れたが、作戦行動不能になりハワイ諸島オアフ島の米海軍基地に帰投した。この様に、対潜哨戒機を搭載する空母による船団護衛は、米潜水艦を事前に発見する事が可能であり、非常に有効な護衛であった。しかし、9月2日には着艦に失敗した「九七艦攻」1機が墜落するという事故がおきた。
それでも、「雲鷹」以下護衛艦艇の活躍によってヒ73船団は大きな被害を受けることも無く、5日には無事にシンガポールのセレター軍港に入港する事が出来た。

ヒ73船団は、セレター軍港で一旦解散となり、折り返し門司港に向かうヒ74船団が編成された。ヒ74船団は、油槽船・貨物船5隻(「あづさ丸」他)と護衛艦艇6隻(空母「雲鷹」・練習巡洋艦「香椎」・海防艦「千振」「第二十七号」他)から成っており、特に油槽船・貨物船は石油を始めとする重要な戦略資源を大量に積載しており、これらを無事に日本本土まで送り届ける事が「雲鷹」以下護衛艦艇の重要な任務であった。昭和19年(1944年)9月11日、ヒ74船団はセレター軍港を出港、門司港を目指して北上した。
しかし、船団の行く手にはまたもや米潜水艦よる網が張られていた。そして17日00時40分、香港南西の東沙島沖(北緯19度08分・東経116度33分)に於いて、米潜水艦「バーブ」が魚雷6本を発射、まず油槽船「あづさ丸」が被雷して沈没、続いて00時50分、「雲鷹」の右舷舵取り室に魚雷1本が命中、続い右舷主機室にも1本が命中した。合計2本の魚雷が命中した「雲鷹」は航行不能に陥り、浸水によって右舷に傾斜し始めた。そして被雷から約7時間後、東沙島南東及びプラタス島南方170kmの南シナ海に於いて沈没した。

時に昭和19年(1944年)9月15日07時30分、場所は南シナ海の北緯19度04分・東経116度26分、「雲鷹」と運命を共にしたのは艦長木村行蔵大佐以下約900名(乗員・便乗者)であった。沈没時、「雲鷹」には乗員750名・便乗者約1000名乗艦していたが、こ の内761名が海防艦「千振」「第二十七号」によって救助された。
「雲鷹」は、豪華客船「八幡丸」としては華々しく登場、約1年間北米航路で就役し、その豪華な内装と最新の設備によって大勢の旅客を楽しませた。しかし、国家の危機に際してその姿を航空母艦へと変え、軍艦「雲鷹」として戦列に伍した。
「雲鷹」は決して高性能な空母ではなかったが、その航空機積載能力を生かして航空機輸送任務に活躍し、日本軍の航空戦を支え続けた。また、日本本土と南方との資源輸送路を確保する為の船団護衛任務にも従事し、米潜水艦の跳梁する海域へと乗り出して行った。しかし、日本海軍の海上護衛は後手後手に回り、電探(レーダー)や音探(ソナー)の開発の遅れや、護衛艦艇の不足によって充分な効果を挙げることは出来なかった。しかし、その様な不利な状況に於いても、「雲鷹」以下の海上護衛戦力は奮戦したが、米海軍による通商破壊を阻止する事は出来ず、「雲鷹」はその任務中に生涯を終えた。

「雲鷹」の要目

<竣工時(豪華客船「八幡丸」):昭和14年(1939年)>

純トン数:9379トン
総トン数:17127トン
全長179.8m 全幅:22.5m 喫水:8.8m(満載)
主機:三菱ツェリー式オールギヤードタービン2基
缶:三菱三胴型水管式缶4基
出力:2万7792馬力
最大速力:22.1ノット
貨物艙容量:13000立法メートル
乗員定員:220名
旅客定員:285名(一等127名・二等88名・三等70名)
船舶番号:47477
信号符号:JWQM

<改造時(特設航空母艦「八幡丸」):昭和17年(1942年)>

基準排水量:17830トン
公試排水量:20000トン
満載排水量:トン
全長1984m 水線長:173.7m 全幅:22.5m 喫水:8m(公試)
飛行甲板全長:172m 飛行甲板全幅:23.5m
主機:三菱ツェリー式オールギヤードタービン2基
缶:三菱三胴型水管式缶4基
出力:2万5200馬力
燃料:2273トン(重油)
最大速力:21ノット
航続距離:18ノット・8500海里
搭載機数:常用機27機・補用4機
       艦戦 常用11機・補用2機 (零式艦上戦闘機)
       艦攻 常用16機・補用2機 (九七式艦上攻撃機)
兵装:12センチ単装高角砲4基4門 (四十五口径十年式十二糎高角砲)
    25ミリ連装機銃4基8挺 (九六式二十五粍高角機銃)
乗員:747名

<修理時(航空母艦「雲鷹」):昭和18年(1943年)>

基準排水量:17830トン
公試排水量:20000トン
満載排水量:トン
全長1984m 水線長:173.7m 全幅:22.5m 喫水:8m(公試)
飛行甲板全長:172m 飛行甲板全幅:23.5m
主機:三菱ツェリー式オールギヤードタービン2基
缶:三菱三胴型水管式缶4基
出力:2万5200馬力
燃料:2273トン(重油)
最大速力:21ノット
航続距離:18ノット・8500海里
搭載機数:常用機27機・補用4機
       艦戦 常用11機・補用2機 (零式艦上戦闘機)
       艦攻 常用16機・補用2機 (九七式艦上攻撃機)
兵装:12センチ単装高角砲4基4門 (四十五口径十年式十二糎高角砲)
    25ミリ三連装機銃6基18挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    25ミリ連装機銃6基12挺 (九六式二十五粍高角機銃)
乗員:747名

<最終時(航空母艦「雲鷹」):昭和19年(1944年)>

基準排水量:17830トン
公試排水量:20000トン
満載排水量:トン
全長1984m 水線長:173.7m 全幅:22.5m 喫水:8m(公試)
飛行甲板全長:172m 飛行甲板全幅:23.5m
主機:三菱ツェリー式オールギヤードタービン2基
缶:三菱三胴型水管式缶4基
出力:2万5200馬力
燃料:2273トン(重油)
最大速力:21ノット
航続距離:18ノット・8500海里
搭載機数:常用機27機・補用4機
       艦戦 常用11機・補用2機 (零式艦上戦闘機)
       艦攻 常用16機・補用2機 (九七式艦上攻撃機)
兵装:12センチ単装高角砲6基6門 (四十五口径十年式十二糎高角砲)
    25ミリ三連装機銃8基24挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    25ミリ連装機銃2基4挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    25ミリ単装機銃36基36挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    13ミリ単装機銃10基10挺 (九六式十三粍機銃)
    九五式爆雷8個・手動投下台1組
乗員:850名

参考文献

「撃沈戦記」

「帝国海軍 空母大全」
「日本空母と艦載機のすべて」

「雲鷹」の艦歴

昭和13年(1938年)12月14日:三菱重工長崎造船所(長崎県)で豪華客船として起工。
昭和14年(1940年)10月31日:三菱重工長崎造船所(長崎県)で豪華客船として進水。
                   「八幡丸」と命名。
昭和15年(1940年)07月31日:三菱重工長崎造船所(長崎県)で豪華客船として竣工。
昭和15年(1940年)08月21日:三菱重工長崎造船所(長崎県)を出港。
                   門司港(山口県)・神戸港(兵庫県)に向かう。
昭和15年(1940年)08月26日:神戸港(兵庫県)を出港。第1回航海。
                   名古屋港(愛知県)・横浜港(神奈川県)に向かう。
昭和15年(1940年)08月31日:横浜港(神奈川県)を出港。
昭和15年(1940年)09月10日:バンクーバー(カナダ)に入港。
昭和15年(1940年)09月11日:シアトル(アメリカ)に入港。
昭和15年(1940年)09月20日:シアトル(アメリカ)を出港。
                   バンクーバー(カナダ)に向かう。
                   横浜港(神奈川県)・神戸港(兵庫県)に向かう。
昭和15年(1940年)10月09日:神戸港(兵庫県)に入港。
                   第2回航海。
昭和15年(1940年)11月01日:マニラ港(フィリピン諸島)を出港。
                   香港・上海(中国)に向かう。
                   神戸港(兵庫県)に向かう。
昭和15年(1940年)11月11日:神戸港(兵庫県)を出港。
                   横浜港(神奈川県)に向かう。
                   ホノルル(ハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   サンフランシスコ(アメリカ)に向かう。
昭和15年(1940年)11月29日:ロサンゼルス(アメリカ)に入港。
昭和15年(1940年)12月01日:ロサンゼルス(アメリカ)を出港。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
                   ホノルル(ハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   横浜港(神奈川県)に向かう。
昭和15年(1940年)12月20日:横浜港(神奈川県)を出港。
昭和15年(1940年)12月21日:神戸港(兵庫県)に入港。
昭和15年(1940年)12月22日:神戸港(兵庫県)を出港。
昭和15年(1940年)12月24日:大連(中国)に入港。
昭和15年(1940年)12月27日:大連(中国)を出港。
昭和15年(1940年)12月29日:神戸港(兵庫県)に入港。
昭和15年(1940年)12月31日:横浜港(神奈川県)に入港。
                   第3回航海。
昭和16年(1941年)01月21日:神戸港(兵庫県)に入港。
昭和16年(1941年)01月22日:神戸港(兵庫県)を出港。
                   上海・香港(中国)に向かう。
                   横浜港(神奈川県)に向かう。
昭和16年(1941年)02月04日:神戸港(兵庫県)を出港。
                   ホノルル(ハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
昭和16年(1941年)02月20日:サンフランシスコ(アメリカ)に入港。
昭和16年(1941年)02月22日:ロサンゼルス(アメリカ)に入港。
昭和16年(1941年)02月24日:ロサンゼルス(アメリカ)を出港。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
                   ホノルル(ハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   横浜港(神奈川県)・神戸港(兵庫県)に向かう。
昭和16年(1941年)03月16日:神戸港(兵庫県)に入港。
昭和16年(1941年)03月22日:神戸港(兵庫県)を出港。第4回航海。
                   上海(中国)・マニラ(フィリピン諸島)に向かう。
昭和16年(1941年)04月08日:神戸港(兵庫県)を出港。
昭和16年(1941年)05月30日:横浜港(神奈川県)を出港。
                   ホノルル(ハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
昭和16年(1941年)04月26日:ロサンゼルス(アメリカ)に入港。
昭和16年(1941年)04月28日:ロサンゼルス(アメリカ)を出港。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
                   ホノルル(ハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   横浜港(神奈川県)・神戸港(兵庫県)に向かう。
昭和16年(1941年)05月18日:神戸港(兵庫県)に入港。
昭和16年(1941年)05月31日:神戸港(兵庫県)を出港。第5回航海。
                   上海(中国)・マニラ(フィリピン諸島)に向かう。
昭和16年(1941年)06月18日:神戸港(兵庫県)を出港。第6回航海。
                   横浜港(神奈川県)に向かう。
                   ホノルル(ハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
昭和16年(1941年)07月07日:ロサンゼルス(アメリカ)に入港。
昭和16年(1941年)07月09日:ロサンゼルス(アメリカ)を出港。
                   サンフランシスコ(アメリカ)向かう。
                   ホノルル(ハワイ諸島オアフ島)に向かう。
                   横浜港(神奈川県)・神戸港(兵庫県)に向かう。
昭和16年(1941年)08月15日:神戸港(兵庫県)に入港。
昭和16年(1941年)08月16日:神戸港(兵庫県)を出港。
                   上海(中国)に向かう。
昭和16年(1941年)08月23日:上海(中国)に入港。
昭和16年(1941年)08月27日:横浜港(神奈川県)に入港。
昭和16年(1941年)10月05日:海軍への徴傭が決定。
昭和16年(1941年)10月21日:海軍に徴傭される。
昭和16年(1941年)11月25日:特設航空母艦「八幡丸」となる。
                   呉鎮守府所管に編入。
昭和16年(1941年)12月10日:艤装員長としてとして湊慶譲大佐が着任。
昭和17年(1942年)01月21日:呉海軍工廠(広島県)で空母への改造工事に着手。
昭和17年(1942年)05月31日:呉海軍工廠(広島県)で空母への改造工事が完了。
                   初代艦長として湊慶譲大佐が着任。
昭和17年(1942年)06月12日:呉軍港(広島県)を出港。同日入港。
昭和17年(1942年)06月24日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和17年(1942年)06月27日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)07月01日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和17年(1942年)07月09日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)07月25日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和17年(1942年)07月26日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)07月29日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和17年(1942年)08月01日:海軍省に買収される。
昭和17年(1942年)08月02日:サイパン島に入港。同日出航。
                   ビスマルク諸島方面に向かう。
昭和17年(1942年)08月14日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)08月18日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和17年(1942年)08月21日:官房機密第10468号によって機銃の装備訓令。
昭和17年(1942年)08月28日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)08月31日:内令第1614号によって航空母艦に艦種類別される。
                   達第244号によって軍艦「雲鷹」と命名。
                   初代艦長として湊慶譲大佐が着任。
                   内令第1625号によって呉鎮守府籍に編入。
                   連合艦隊付属となる。
昭和17年(1942年)09月01日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和17年(1942年)09月02日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)09月04日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
昭和17年(1942年)09月07日:サイパン島に入港。同日出航。
                   駆逐艦「雪風」とトラック諸島・ビスマルク諸島に向かう。
昭和17年(1942年)09月09日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)09月18日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)09月25日:呉軍港(広島県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   第一航空艦隊の機材をトラック諸島に輸送。
昭和17年(1942年)10月01日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)10月04日:トラック泊地を出航。
                   駆逐艦「潮」と横須賀軍港(神奈川県)に向かう。
昭和17年(1942年)10月09日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)10月11日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   第十一航空艦隊の機材をトラック諸島に輸送。
昭和17年(1942年)10月16日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)10月17日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)10月24日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)10月28日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和17年(1942年)11月02日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)11月03日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)11月08日:パラオ泊地に入港。
昭和17年(1942年)11月11日:パラオ泊地を出航。
昭和17年(1942年)11月13日:フィリピン諸島南部ダバオに入港。
昭和17年(1942年)11月15日:パラオ泊地に入港。
昭和17年(1942年)11月16日:パラオ泊地を出航。
昭和17年(1942年)11月21日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)11月24日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)12月02日:ジャワ島東部(インドネシア)スラバヤに入港。
                   陸軍第六飛行師団第十二飛行団飛行第十一戦隊を輸送。
                   「一式戦闘機『隼』」45機を搭載。
昭和17年(1942年)12月05日:ジャワ島東部(インドネシア)スラバヤを出港。
昭和17年(1942年)12月06日:ボルネオ島(インドネシア)バリックパパンに入港。
昭和17年(1942年)12月07日:ボルネオ島(インドネシア)バリックパパンを出港。
昭和17年(1942年)12月13日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)12月17日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)12月24日:ジャワ島東部(インドネシア)スラバヤに入港。
昭和17年(1942年)12月26日:ジャワ島東部(インドネシア)スラバヤを出港。
                   陸軍飛行第一戦隊を輸送。
                   「一式戦闘機『隼』」33機を搭載。
昭和17年(1942年)12月28日:ボルネオ島(インドネシア)バリックパパンに入港。
昭和17年(1942年)12月29日:ボルネオ島(インドネシア)バリックパパンを出港。
昭和17年(1942年)01月03日:トラック泊地に入港。
                   風圧潮流により給油艦「大瀬」と接触して損傷
昭和17年(1942年)01月05日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)01月10日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
                   横須賀海軍工廠(神奈川県)で損傷箇所の修理を行う。
昭和18年(1943年)01月18日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   横浜港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)01月18日:三菱重工横浜造船所(神奈川県)に入渠。
                   艦首と艦尾に25ミリ三連装機銃(二型)各2基を増備
昭和18年(1943年)01月24日:三菱重工横浜造船所(神奈川県)を出渠。
                   横浜港(神奈川県)を出港。
昭和18年(1943年)01月24日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)01月28日:2代目艦長として相徳一郎大佐が着任。
昭和18年(1943年)02月01日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   空母「大鷹」とトラック諸島に向かう。
                   陸軍飛行第二百八戦隊を輸送。
                   「九九式双発軽爆撃機」36機を搭載。
昭和18年(1943年)02月07日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)02月11日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)02月17日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)02月24日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   第十一航空艦隊の機材をトラック諸島に輸送。
昭和18年(1943年)03月02日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)03月06日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)03月12日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)03月20日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)03月25日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)04月05日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)04月10日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)04月14日:3代目艦長として関郁平大佐が着任。
昭和18年(1943年)04月25日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   空母「冲鷹」・軽巡「那珂」とトラック諸島に向かう。
昭和18年(1943年)04月30日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)05月08日:トラック泊地を出航。
                   空母「冲鷹」と横須賀軍港(神奈川県)に向かう。
                   戦艦「大和」以下が同行。
昭和18年(1943年)05月13日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)05月24日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   空母「冲鷹」とトラック諸島に向かう。
昭和18年(1943年)05月29日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)06月05日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)06月09日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)06月16日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   空母「冲鷹」とトラック諸島に向かう。
                   戦艦「金剛」以下が同行。
                   途中、米潜水艦と遭遇。
昭和18年(1943年)06月21日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)06月28日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)07月02日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)07月06日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   第二〇一航空隊の機材をトラック諸島に輸送。
                   「零戦」45機を搭載。
                   特設巡洋艦「愛国丸」とトラック諸島に向かう。
昭和18年(1943年)07月10日:同行していた特設巡洋艦「愛国丸」が被雷。
昭和18年(1943年)07月11日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)07月19日:トラック泊地を出航。
                   空母「龍鳳」と内地に向かう。
昭和18年(1943年)07月24日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)07月31日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   軽巡「長良」・駆逐艦「曙」とトラック諸島に向かう。
昭和18年(1943年)08月01日:戦艦「武蔵」以下連合艦隊主力と合流。
昭和18年(1943年)08月05日:入港直前に米潜水艦の雷撃を受けるが命中せず。
                   トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)08月12日:トラック泊地を出航。
                   重巡「鳥海」・駆逐艦「野分」「白露」が同行。
昭和18年(1943年)08月16日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)08月26日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   駆逐艦「野分」とトラック諸島に向かう。
昭和18年(1943年)09月02日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)09月06日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)09月11日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)09月31日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
昭和18年(1943年)10月03日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
昭和18年(1943年)10月13日:呉軍港(広島県)を出港。
                   横須賀軍港(神奈川県)に向かう。
                   空母「隼鷹」と宇品港(広島県)に向かう。
                   陸軍部隊の輸送作戦(丁三号輸送)に参加。
昭和18年(1943年)10月19日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)10月31日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)11月05日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)11月16日:「九七式艦上攻撃機」12機が配備される。
昭和18年(1943年)11月16日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   空母「瑞鳳」とトラック諸島に向かう。
昭和18年(1943年)11月21日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)11月30日:トラック泊地を出航。
                   同行した艦艇は以下の通り。
                   空母「瑞鳳」「冲鷹」・重巡「摩耶」
                   駆逐艦「曙」「朧」「漣」「浦風」
昭和18年(1943年)12月04日:同行していた空母「冲鷹」が米潜水艦の雷撃で撃沈される。
昭和18年(1943年)12月05日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)12月12日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)12月17日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)12月24日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)12月29日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)12月15日:海上護衛総隊司令部付属となる。
昭和19年(1944年)01月04日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   航空機輸送任務に従事。
                   空母「瑞鳳」とトラック諸島に向かう。
昭和19年(1944年)01月09日:トラック泊地に入港。
昭和19年(1944年)01月18日:トラック泊地を出航。
                   軽巡「能代」等と内地に向かう。
昭和19年(1944年)01月19日:サイパン島近海で米潜水艦の雷撃で魚雷2本被雷。
                   艦首が大破。
昭和19年(1944年)01月20日:サイパン島に入港。
                   工作艦「明石」により応急修理。
昭和19年(1944年)01月27日:サイパン島を出航。
                   駆逐艦「潮」と内地に向かう。
昭和19年(1944年)01月29日:重巡「高雄」が合流。
昭和19年(1944年)02月02日:米潜水艦に視認されるが被害無し。
昭和19年(1944年)02月06日:重巡「高雄」が分離。
昭和19年(1944年)02月07日:波浪で損傷した艦首を切断・喪失。
昭和19年(1944年)02月08日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和19年(1944年)03月01日:4代目艦長として平塚四郎大佐が着任。
昭和19年(1944年)04月01日:損傷箇所の修理を開始。
昭和19年(1944年)04月02日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
                   艦首の修理。
                   飛行甲板前端部を延長。
                   12センチ高角砲2門・機銃を増設。
昭和19年(1944年)06月28日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和19年(1944年)07月01日:5代目艦長として木村行蔵大佐が着任。
昭和19年(1944年)08月12日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和19年(1944年)08月13日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)08月15日:第一海上護衛隊に編入。
昭和19年(1944年)08月17日:呉軍港(広島県)を出港。
                   瀬戸内海西部で待機。
昭和19年(1944年)08月18日:官房機密第5038号によって機銃の装備訓令。
昭和19年(1944年)08月25日:瀬戸内海西部を出航。
                   輸送船団護衛任務に従事。
                   ヒ73船団とセレター軍港(シンガポール)に向かう。
昭和19年(1944年)08月28日:搭載していた「九七式艦攻」1機が不時着。
昭和19年(1944年)08月29日:高雄(台湾)に入港。
昭和19年(1944年)08月31日:高雄(台湾)を出港。
                   ルソン海峡で米潜水艦を発見。
                   艦載機・海防艦「千振」「第二一号」と協同攻撃して撃破。
昭和19年(1944年)09月02日:搭載していた「九七式艦攻」1機が着艦に失敗・墜落。
昭和19年(1944年)09月05日:セレター軍港(シンガポール)に入港。
昭和19年(1944年)09月11日:セレター軍港(シンガポール)を出港。
                   輸送船団護衛任務に従事。
                   ヒ74船団と門司港(山口県)に向かう。
昭和19年(1944年)09月17日:米潜水艦の雷撃により魚雷2本被雷。
                   香港(中国)南西東沙島南東約400km付近で沈没。
昭和19年(1944年)11月10日:艦籍から除籍される。