「八九式十五糎加農砲(89式15cmカノン砲)」とは
「八九式十五糎加農砲(89式15cmカノン砲)」は支那事変から大東亜戦争にかけて使用された日本陸軍の加農砲(カノン砲)である。
「加農砲(カノン砲)」とは
所謂「加農砲(カノン砲)」とは口径(砲身長/砲口直径)が大きい火砲(大砲)を指す。
同じ砲口直径の火砲に対して、口径(砲身長/砲口直径)が大きい程高初速・長射程である。目安として40口径前後の火砲を「加農砲(カノン砲)」と呼称し、25口径前後の火砲を「榴弾砲」と呼称し、また、特に口径の小さな火砲を「臼砲」と呼称する。これらは、砲口直径が比較的大きく(10cm~20cm)、砲自体が大型である為、運用する際には専門の部隊が必要になる。そこで、通常は砲兵が運用し、大規模な要塞・陣地への攻撃に使用される。
これに対し、「加農砲(カノン砲)」「榴弾砲」をやや小型にした火砲を「野砲」と呼称する。砲口直径は7.5cm程度であり、「加農砲(カノン砲)」「榴弾砲」よりも軽量である為、運用が容易である。その為、「野砲」は主として歩兵が運用し、歩兵に随伴して歩兵戦闘を密接に支援する事が可能である。
ここで、「口径」とは、火砲の場合は砲口直径に対する砲身長の値(砲身長/砲口直径)を指すが、銃器場合は銃口直径の値を指す。
「加農砲(カノン砲)」の砲弾は「榴弾砲」「野砲」等と比較して高初速である為に、その弾道は低伸(低く遠くまで飛ぶ)する。
結果、射程距離が長く、更に敵に対して射撃位置秘匿が容易という利点がある。
また、直径が10cm以上の大きな砲弾を発射するような「加農砲(カノン砲)」は、特に「加農重砲」とも呼ばれ、長期間に渡って対峙する敵陣地帯や包囲した敵要塞など、比較的堅固な敵陣の破壊に用いられる。これは、「加農重砲」は長射程・大威力ではあるが、陣地移動や放列姿勢への転換に時間が掛かる為である。その為、「加農重砲」を特に「攻城重砲」と呼ぶ場合がある。
「八九式十五糎加農砲」の開発
大正9年(1920年)7月、陸軍技術本部兵器研究方針により、装輪牽引式(砲身車と砲架車の2車編成式)の加農重砲の開発が開始された。大正11年(1922年)10月に設計が完了し、大正15年(1926年)に試作砲が完成した。その後、各種試験を経て、昭和2年(1927年)に重砲兵学校に於ける実用試験では実用に適するとの判定を受た。
昭和4年(1929年・皇紀2889年)10月25日、この年の皇紀の下2桁を採って「八九式十五糎加農砲」として制式化された。
併しながら、本砲は、制式化されたもの不十分な点も多く、閉脚式を開脚式に改める等の、各種の改修を行う必要があった。この改修は3回に渡って行われ、昭和6年(1931年)10月に完了した。
昭和6年(1931年)9月18日、満州事変が勃発した。この時、日本陸軍は本砲2門を急遽製造、満州へ輸送した。本砲は満州北部での戦闘に参加し、これが本砲の初陣となった。
続いて製造された第5号砲は、機能良好と判断された。昭和8年(1933年)4月、制式図・製作図への修正が行われ、本砲の改修が制定された。
また、本砲は移動時には砲身車・砲架車に分けて移動した。その為、射撃する際には砲身車・砲架車を結合する必要があり、放列姿勢への転換には2時間程度を要した。そこで、単一編成式の「試製単車八九式十五糎加農砲」が研究され、相当数製造された。
「八九式十五糎加農砲」の構造
本砲は、揺体上の砲身下に駐退複座機を収め、断隔螺式閉鎖機、開脚式砲架(V字型)を装備、という一般的な構造を持った装輪牽引式の加農重砲であった。
砲身は口径149.1mm(40口径)・長さ5963mm、重量3390kgであった。砲身の構造は焼嵌めによる複肉式であり、砲口部が2層、砲尾部が3層の肉厚を持っていた。これにより砲身の強度が確保されていた。
砲身内部の旋條(ライフリング)は右方向に傾度7度で旋回し、楔状腔綫が40条切られていた。溝深さは1.5mmである。
閉鎖機は段型段隔螺式であった。
これはねじ状に溝を切った尾栓を砲尾と合わせ、ねじ込むように閉鎖する形式のものである。閉鎖機は、砲尾の閉鎖機室と9分の1円周の旋回により螺合(かみあって閉鎖)される。
動作は、閉鎖機にとりつけらた槓桿(レバー)乙を右後方へ開くと連結臂と連動して歯板を動かし、歯板が螺体を回転させて砲身との結合を解除する。さらに槓桿乙を開くことで鎖扉が同様に右後方に開く。開ききると螺体は駐子(ストッパー)によって静止される。
本砲は槓桿(レバー)の一挙動で閉鎖機を開閉可能だった。この閉鎖機に撃発装置と安全装置がついており、撃発は撃針式である。
駐退機は「四年式十五糎榴弾砲」と同じ形式で、揺架内部の左側にあり水圧式であった。駐退機用液にはグリセリン・蒸留水・苛性ソーダの混合物(16.5リットル)を使用した。射撃時、砲身と連結されたロッドが駐退機用液に反動の力を加え、漏孔と呼ばれる小さな孔から液を出すことによって反動を長時間受け止めた。
復座機は水気圧式で、揺架内部の右側にあった。圧縮気体によって砲身を押し戻し復座した。気圧は110kg/平方cm、また圧縮気体に発砲時の反作用の力を伝達するため9.5リットルの液を用いた。この液が圧縮気体をさらに押し縮め、復座の力に変換した。
駐退復座機は砲身と連結されており、砲弾発射時の砲身の反動を受けとめ、更に復座させた。
また、本砲は駐退復座機と連接して後座変換装置(漏孔変換機)を装備している事が特徴であった。
後座変換装置(漏孔変換機)は揺架と砲架に連動されており、+20度~+40度まで射角に応じて自動的に駐退復座機内部の漏孔面積を増減させ、復座運動を強化して後座長を減らし、大射角での射撃の際に砲尾が地面に衝突することを防ぐ装置であった。これは節制桿を回転させることで調節した。
射角毎の後座長は、+5度~+20度(長後座)では1.35m~1.5mであったが、+40度以上(単後座)では0.8m~0.95mに短縮された。ただし、最大射角(+43度)では、砲尾の下の地面を50cmほど掘り下げる必要があった。
後退復座は約2秒かかった。
本砲は、左右各20度に方向照準可能であり、操砲ハンドルは砲架左側に位置した。俯仰角は+43度(仰角)から-5度(俯角)に俯仰可能であり、高低照準用ハンドルは砲架右側に位置した。この砲架の射角に連動して距離板が作動し射程を表示した。
本砲は、発射速度は毎分約2発、重さ約40kgの砲弾を最大18100m先まで撃つ事が出来た。
移動時は、砲身を砲身車に、砲架を砲架車にそれぞれ搭載して牽引された。牽引には「九二式八頓牽引車」等が使用され、牽引速度は、通常8km/時、急速度で12km/時であった。
実戦に於ける「八九式十五糎加農砲」
本砲の配備は、各師団に付随していた野砲兵連隊(師団砲兵)ではなく、軍直轄の独立重砲兵大隊に配備された。
独立重砲兵大隊は各作戦の規模に応じて軍や方面軍の下に組み込まれ、軍砲兵として運用された。
本砲の初陣は満州事変(昭和6年)に於ける満州北部の戦闘であった。
更に、昭和14年(1939年)に勃発した「ノモンハン事件」では、本砲8門(ムーリン重砲兵連隊)が戦闘に参加した。日本軍砲兵は、本砲を含む大小84門の火砲をもってソ連軍砲兵と砲撃戦を繰り広げたが、ソ連軍砲兵の長射程と豊富な集積弾薬量に圧倒された日本軍砲兵は苦戦、多数の火砲が破壊された。この時のソ連軍砲兵の集積弾薬量は18000トン(日本軍の15倍)であった。本砲を装備したムーリン重砲兵連隊はソ連軍機甲部隊の攻撃を受けた。移動が困難な本砲は砲兵陣地を包囲され、8門全てが破壊されて失われた。
昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争開戦と共に開始された日本陸軍の「南方作戦」に於いては、本砲は日本軍砲兵隊の一翼を担って参加した。
開戦と同時に開始された「香港攻略」に於いては、当初その存在が予想されていた九龍半島(香港郊外)の英軍要塞地帯(ジンドリンカーズライン)を突破する為、大小129門の火砲をもって第一砲兵隊が編成された。
「香港攻略」に参加した本砲は、第一砲兵隊に配属された独立重砲兵第二大隊 (8門)・独立重砲兵第三大隊 (8門)の16門であった。結果としては、九龍半島(香港郊外)の英軍要塞地帯(ジンドリンカーズライン)は事実上存在せず、本砲が活躍するまでも無く昭和16年(1941年)12月25日、日本軍は 香港を占領した。
本砲が、攻城重砲としてその長射程・大威力を遺憾なく発揮したのが、引き続いて行われた「シンガポール攻略」「コレヒドール要塞攻略」に於いてであった。
「シンガポール攻略」には、独立重砲兵第二大隊の本砲8門を含む、大小178門の火砲が参加した。
昭和17年(1942年)1月31日、マレー半島の英印軍を撃破した日本陸軍第二五軍は約50000名は、マレー半島最南端、シンガポール対岸のジョホールバルに集結した。ここから約1週間にわたり、シンガポールに対して日本軍砲兵の砲撃が続けられた。本砲も、シンガポールの英軍陣地や要塞地帯に対して砲撃を行った。2月8日、日本軍のシンガポールへの上陸が開始された後も、本砲は友軍に対する砲撃支援を続けた。特に、英国総督官邸に対する砲撃では、英印軍総司令官パーシバル中将の降伏決意を早めたと言われている。15日、シンガポールの英印軍は日本軍に降伏し、英国の東洋植民地支配の根拠地であったシンガポールは陥落した。
「コレヒドール要塞攻略」には、独立重砲兵第九大隊の本砲8門を含む、大小180門の火砲が参加した。
コレヒドール要塞はフィリピン諸島ルソン島南部のバターン半島南端に浮かぶコレヒドール島に築かれた米軍の要塞であった。要塞は硬い岩山を刳り抜いたトンネルと厚いコンクリートの防壁で覆われていた。昭和17年(1942年)4月11日、日本軍はバターン半島を攻略、14日、コレヒドール島への砲撃を開始した。ここでも本砲はその長射程・大威力を生かして、第一砲兵隊に配備された 「九六式十五糎榴弾砲」「九二式十糎榴弾砲」等と共に、コレヒドール島の要塞に対して砲弾を撃ち込んだ。要塞の弾薬庫に命中した砲弾は、大爆発を起こして要塞に大きな損害を与えた。5月5日には日本軍がコレヒドール島に上陸し、翌6日、コレヒドール島の米比軍は降伏した。
大東亜戦争緒戦に於ける日本軍は破竹の勢いで進撃し、東南アジア・太平洋地域に広大な占領地を得た。特に南方資源地帯確保を目指す「南方作戦」成功には本砲の活躍も少なからず貢献するところがあった。しかし、やがて太平洋地域に於ける米軍の反撃が開始された。圧倒的物量をもって進撃してくる米軍に対して、もともと国内生産力・補給能力の貧弱な日本は前線に十分な量の武器・弾薬を供給する事が出来ず、日本軍は次第に追い詰められていった。
特に、彼我の砲兵戦力の差は如何ともし難く、日本軍砲兵が1発撃てば米軍砲兵から100発近い応射を受けたと言われた程であった。日本軍砲兵は米軍砲兵に圧倒され、本砲が攻城重砲として活躍する場所は次第に失われていった。
本砲の最後の戦場は沖縄本島であった。
この時期、日本軍は全戦線に渡って守勢に転じており、「沖縄戦」(昭和20年(1945年)4月1日~6月23日)でもそれは例外ではなかった。圧倒的な火力をもって押し寄せる米軍に対して、本砲は攻城重砲としてではなく、他の兵科同様に地下に構築した陣地に身を潜めて戦う以外に道は無かった。
沖縄本島では、日本軍の 「第三二軍司令部」の置かれた首里周辺に独立重砲兵第一〇〇大隊の本砲8門が配備された。圧倒的に不利な条件下ではあったが、部隊は本砲を地下の陣地に秘匿し、加農砲の低伸性を生かした不規則的な砲撃を行って米軍に損害を与え、また、本砲の長射程を生かして米軍占領下の飛行場(「嘉手納・読谷」)に対する砲撃も行った。部隊は本砲を駆使しつつ2ヶ月近くにわたって抵抗を続けたが、米軍の猛烈な砲爆撃によて陣地ごと埋まってしまう本砲もあり、最終的に8門全ての本砲が失われるか、米軍の手に落ちた。
「八九式十五糎加農砲」の性能
放列砲車重量:10422kg 砲身重量:3390kg 口径:149.1mm 砲身長:5963mm(40口径) 初速:734.5 m/s 最大射程距離:18100m
発射速度:1~2発/分 布設所要時間:陣地進入から初弾発射まで約2時間
俯仰角:-5~+43度 水平射角:左右20度 薬室:断隔螺式
使用弾種:九三式榴弾(弾丸重量:40.6kg、炸薬重量:7.77kg、威力半径:60m)
九三式尖鋭弾(弾丸重量:40.2kg、炸薬重量:5.47kg、威力半径:38m)
製造数:約150門