四十五口径十年式十二糎高角砲

「四十五口径十年式十二糎高角砲(45口径10年式12cm高角砲)」とは

「四十五口径十年式十二糎高角砲(45口径10年式12cm高角砲)」は大正時代からから大東亜戦争にかけて使用された日本海軍の高角砲である。

「高角砲」とは

所謂「高角砲」とは、大きな仰角(上向きの角度)を取ることがが可能な火砲をさす。
一般的に、火砲が大仰角を取ると言う事は、砲身(砲口)を上に向けると言う事とであり、必然的に砲弾を上空に発射する事になる。

火砲が、砲弾を上空に発射する目的は、上空に目標が存在するからであり、それは航空機に他ならない。
即ち、「高角砲」は、大きな仰角で砲弾を発射し、上空で砲弾を炸裂させる事で航空機の撃墜狙った、対空射撃が目的の火砲であるといえる。
実際、「高角砲」の殆どは対空射撃に使用する火砲である。

併しながら、火砲が大きな仰角で砲弾を発射するのは、対空射撃のみとは限らない。
砲弾を山なりに発射(曲射)して、地上にある目標の頭上から砲弾を落下させる事を目的とした射撃が行われる場合がある。。砲弾を曲射する事で、周囲を遮蔽された陣地に潜む敵に損害を与えたり、対潜弾を投射して、海中のの潜水艦の制圧が可能となる。この様に、火砲には、通常の射撃以外に、大仰角を取った射撃(曲射)が求められる場合があり、対空射撃を目的としない火砲でも、大きな仰角を取る事が出来る火砲を、広義の「高角砲」と呼ぶ場合がある。

ただし、「迫撃砲(曲射砲)」「臼砲」は砲弾を山なりに発射するが、初めから砲身が大きな仰角を持っており、その仰角はほぼ固定である。従って、砲弾を水平に発射(平射)することは出来ない為、特に「高角砲」とは呼ばない。

因みに、「高角砲」とは日本海軍の呼称であり、日本陸軍では対空射撃に使用する火砲を「高射砲」と呼称した。

「四十五口径十年式十二糎高角砲」の概要

日本海軍では、大正3年(1914年)制式採用の「四十五口径三年式十二糎砲」を高角砲化し、大正10年(1921年)、「四十五口径十年式十二糎高角砲」として制式採用した。

本砲は、大正後半(1920年代)~昭和初期(1930年代)に於ける日本海軍の主力高角砲として、竣工時の重巡洋艦や航空母艦(「赤城」「加賀」)等の各種艦艇に搭載された。

昭和6年(1931年)、本砲は妙高型重巡洋艦(「妙高」「那智」「足柄」「羽黒」)に搭載された。
この時、本砲は、重巡洋艦速力18ノット/時に於いて、航空目標(高度1500~2000m・対地速度60~70ノット/時)に対して命中率2.2%を示した。また、この時の射撃距離は2000~5000m、射撃速度は6.4発/分であった。

重巡洋艦(古鷹型または青葉型)に搭載されていた当時の本砲の写真が遺されている。(→)
防循は装備されておらず、人力で旋回を行う、単装砲架のB型である。最大仰角時の本砲の様子が分かる。

やがて、航空機の発達と共に本砲も次第に旧式化していった。

昭和4年(1929年・皇紀2889年)、本砲の後継である「四十口径八九式十二糎七高角砲」が制式採用された。既に重巡洋艦や航空母艦に搭載されていた本砲の多くは、この「四十口径八九式十二糎七高角砲」に順次換装された。

1930年代(昭和9年~昭和14年)、日本海軍では重巡洋艦の近代化改装を行い、高角砲もより新しい「四十口径八九式十二糎七高角砲」に換装された。

妙高型重巡洋艦(「妙高」「那智」「足柄」「羽黒」)では昭和9年(1934年)~昭和10年(1935年)にかけて、単装砲架の本砲(B1型)6門(6基)から連装砲架の「四十口径八九式十二糎七高角砲」に換装された。
逆に、古鷹型重巡洋艦(「古鷹」「加古」)では竣工時に大正3年(1914年)制式採用の「四十口径三年式八糎高角砲」4門(4基)を搭載しており、昭和12年(1937年)~昭和14年(1939年)にかけて、単装砲架の本砲(B型)4門(4基)に換装された。
高雄型重巡洋艦(「高雄」「愛宕」「摩耶」「鳥海」)では高角砲の換装が遅れ、「高雄」「愛宕」は昭和16年(1941年)に、「摩耶」は昭和19年(1944年)に、単装砲架の本砲(B1型)4門(4基)から連装砲架の「四十口径八九式十二糎七高角砲」に換装されたが、「鳥海」では遂に換装は行われず、最期まで本砲が使用され続けた。

本砲は、重巡洋艦などの主要艦艇からは順次換装されたが、高角砲としては比較的軽量(単装砲架は8t弱)であり、製造が容易であった。その為、その後も製造され、使用され続けた。特に、海防艦(御蔵型以降)などの補助艦艇や、商船から改造された特設航空母艦(「大鷹」「雲鷹」)に、重巡洋艦から降ろされた本砲や、新たに製造された本砲が搭載された。 また、大東亜戦争後期には多数の本砲が陸上砲台・沿岸砲台に於いて運用された。

多数建造された海防艦への搭載や陸上での運用に対する需要によって、本砲の製造は大東亜戦争期まで行われた。
製造総数約3000門の内、7割以上にあたる2320門が昭和17年(1942年)~昭和20年(1945年)に製造された。

「四十五口径十年式十二糎高角砲」の構造

砲身は口径120mm(45口径)、長さ5604mm、重量2950kgであった。
砲身内部の旋條(ライフリング)は、溝深さ1.45mm、溝幅6.688mm、右方向に旋回し、砲身内の4649mmに渡って34条切られていた。一部には36条切られた砲身もあった。
砲身上部には2本の駐退復座機を装備していた。

閉鎖機は右開きの半自動水平鎖栓式であった。
発射速度は実用では6~8発/分、最大では10~11発/分が可能であった。

俯仰角は+75度(仰角)から-10度(俯角)に俯仰可能であり、高低照準用ハンドルは砲架右側に位置した。

本砲の砲架には、単装砲架・連装砲架があった。
初期に重巡洋艦(「古鷹」「加古」「古鷹」「衣笠」)に搭載された単装砲架(B型)は人力で俯仰角を調整した。
航空母艦「赤城」「加賀」)や、後に重巡洋艦(「妙高」「那智」「足柄」「羽黒」「高雄」「愛宕」「摩耶」「鳥海」)に搭載された単装砲架(B2型)・連装砲架(A2型)は電動油圧で俯仰角を調整した。これらは6.5度/秒で俯仰角を、10度/秒で左右角を調整する事が出来た。

本砲を搭載した艦艇は以下の通りであった。

連装砲架
 A2型(電動油圧)
  航空母艦「赤城」「加賀」(6基12門・竣工時)
 A型改3(機力・海防艦型搭載)
  御蔵型(1基2門)・日振型(1基2門)・鵜来型(1基2門)

単装砲架
 B型(人力・防盾無し)
  重巡洋艦「古鷹」(4基4門・昭和14年4月改装後)「加古」(4基4門・昭和12年12月改装後)
  重巡洋艦「青葉」「衣笠」(4基4門・竣工時)

 B1型(人力・防盾有り)
  重巡洋艦「妙高」「那智」「足柄」「羽黒」(6基6門・竣工時、昭和9年~10年換装)
  重巡洋艦「高雄」「愛宕」(4基4門・竣工時、昭和16年換装)
  重巡洋艦「摩耶」(4基4門・竣工時、昭和19年4月換装)
  重巡洋艦「鳥海」(4基4門・竣工時、換装無し)

 B2型(人力→機力・防盾無し)
  特設航空母艦「大鷹」(4基4門)「雲鷹」(6基6門)   

 E型改3(人力・海防艦型搭載)
  御蔵型(1基1門)・日振型(1基1門)・鵜来型(1基1門)・丙型(2基2門)・丁型(2基2門)

実戦に於ける「四十五口径十年式十二糎高角砲」

本砲は、大東亜戦争開戦時には既に旧式化しており、主要艦艇では「四十口径八九式十二糎七高角砲」に換装されていた。

しかし、本砲は比較的軽量(単装砲架は8t弱)で製造が容易であった為、大東亜戦争開戦後も製造が続けられ、特に大東亜戦争後半に大量に建造された海防艦に搭載された。

また、大東亜戦争後半、多数の本砲が陸上に配備されて運用された。
陸上に配備された本砲は、本来の高角砲として防空陣地で運用された以外にも、平射砲として陸上砲台・沿岸砲台で運用された。

特に、侵攻してくる米軍に対して、重要な戦略拠点となったマリアナ諸島の島嶼(グアム島・サイパン島等)にも本砲が配備された。それらの幾つかは現在も遺されている。

グアム島の「オロテ海岸」付近の日本軍陣地に設置された本砲の写真が遺されている(→)
グアム島に上陸した米軍が後に撮影したものである。

本砲は、ほぼ無傷で米軍の手に落ちており、周囲をコンクリートと椰子丸太で囲った陣地なども原型を保っている。
陸上に於ける本砲の運用の様子が分かる。

併しながら、本砲のような艦載兵器は陸上での戦闘には適していなかった。

本砲は砲架が固定式であり、一度据え付けると容易に移動が出来なかった。そこで、コンクリート製掩蓋などで遮蔽された砲台に配備し、更にその砲台を偽装して秘匿したとしても、一度射撃を開始すると容易にその位置を露呈してしまった。迅速な移動が困難な本砲は陣地変換が出来ず、圧倒的な砲爆撃を受けて破壊された。或いは、運搬が困難な本砲は、味方部隊の後退の際に放棄され、米軍に捕獲された。

これは本砲のみならず、商船の自衛用として開発された「短十二糎砲・短二十糎砲」など、陸上で運用された艦載兵器に関して同様の事が言えた。

「海軍十二糎自走砲(長十二糎自走砲)」

大東亜戦争末期、日本海軍は本砲を自走砲化した車両を製作した。
その車両は、本砲を「九七式中戦車」の車体上に搭載し、「海軍十二糎自走砲」と呼称された。または、「短十二糎自走砲」 (「短十二糎砲」を自走化した車両)に対して「長十二糎自走砲」とも呼称された。

「海軍十二糎自走砲」は、「九七式中戦車」の砲塔・車体上部を撤去して本砲(単装砲架)1門を搭載した車両であった。
車両の最高時速20km/時で、これは本砲の重量の為に「九七式中戦車」の最大速度(38km/時)より低下した。
搭載した本砲は最大仰角20度、最大俯角10度、全周射撃可能であった。車体上部の本砲周辺は板で面積を広げ、操砲要員の足場を確保していたようであった。
乗員は5名で、指揮官(車長)1名・砲手兼装填手1名・操縦手1名・弾薬手2名であった。
「九七式中戦車」の車体前方銃・銃架(ボールマウント)は撤去されて塞がれていた為、車載銃は装備されていなかった。乗員は自衛用の拳銃・小銃・自動小銃を装備した。
弾薬は、車体に積載する余積が無かった為、車内に搭載できず、リヤカーを用意して車外に搭載した。

「海軍十二糎自走砲」は、対戦車戦闘を目的として開発された。
高角砲である本砲を搭載していたが、対空射撃や間接射撃を目的とはせず、車体を陣地に秘匿し、必要に応じて陣地転換をしながら対戦車戦闘を行う、所謂「対戦車自走砲」とての運用や、地上戦闘に於いて直接支援を行う「自走(平射)砲」としての運用が想定されていた。
その為、元の本砲よりも俯仰角可能範囲が少なくなっていたが、全周射撃可能であった。併しながら、防循等は装備されておらず、防御力は殆ど無かった。

本砲を自走化した「海軍十二糎自走砲」であったが、「九七式中戦車」の車体は本砲の様な重量物(8t弱)の搭載を想定しておらず、「海軍十二糎自走砲」の製作にあたって 「九七式中戦車」の車体・懸架装置の補強、エンジン(170馬力)の強化等は行われ無かったようであった。
結果、発射時の衝撃に対する車体の強度が足りず、また特に、車体前後方向の射撃以外では安定性が不十分であった。実際、発射時の衝撃を車体が吸収できず、再照準まで時間を要した。その為、試射時は発射速度0.5発/分程度であった。更に、本砲の重量(8t弱)の為に懸架装置(サスペンション)に相当の負荷が掛かっており、本砲が車体右寄りに搭載されていた事から、右側の懸架装置(サスペンション)のバネが度々折損した。また車体も右に傾いていたという。

「海軍十二糎自走砲」は終戦までに試作車1両が完成した。

この試作車は、昭和20年(1945年)1月、館山海軍砲術学陸戦科第六分隊の砲隊に所属し、館山で各種試験を行った。4月、館山砲術学校が横須賀砲術学校に併合され、横須賀第一警備隊(横須賀砲術学校)陸戦教導隊の砲隊に於いて試験・訓練を行った。「海軍十二糎自走砲」は、それまで命中率が芳しくなかったが、この時の射撃試験に於いて30発程度の射撃(実射範囲3000m)の結果、距離1500m程度での命 中率は良好であった。これは東京計器製作の照準器を装備した結果であった。
その後、茅ヶ崎市南湖の「南湖院」(結核療養所、海軍が接収)に駐屯し、横須賀第十五特別陸戦隊(昭和20年7月1日編成)に編入された。7月中旬、横須賀市久里浜(三浦半島)へ移動し、終戦時(昭和20年8月15日)は、横須賀市野比の尻こすり坂の横穴陣地に於いてであった。
試作車以外にも、量産(既存の「九七式中戦車」からの改造)が開始されようとしていた。

海軍陸戦隊に於ける「砲隊」は陸軍の「砲兵隊」に相当した。この事からも、「海軍十二糎自走砲」が「対戦車自走砲」としての運用を想定していた事が分かる。
この自走砲隊(「海軍十二糎自走砲」の試作車1両)は、隊長1名(陸戦専修第四期予備学生・少尉)、陸戦の専門教育を受けた下官兵数名、予科練出身兵数名(茅ヶ崎市南湖の「南湖院」で編入)で編成されていた。

「四十五口径十年式十二糎高角砲」の性能

全備重量:7800kg(B型) 10000kg(B2型) 20300kg(A2型)
砲身重量:2950kg 口径:120mm 砲身長:5400mm(45口径) 初速:825~830m/s 砲身寿命:700~1000発
最大射程距離:15600m(仰角45度) 最大射高距離:10065m(仰角75度)
発射速度:6~8発/分(実用) 10~11/分(最大)
俯仰角:-10~+75度 俯仰速度:6.5度/秒(B2型・A2型) 水平射角:左右約70度(大型艦艇) 旋回速度:10度/秒(B2型・A2型)
薬室:水平鎖栓式 薬室容積:10774cm3
使用弾種:零式高角砲通常弾(弾丸重量:34kg、炸薬重量:1.7kg、全長:40.8cm)
       一式高角砲通常弾(弾丸重量:34kg、炸薬重量:1.9kg、全長:40.8cm)
製造数:約3000門(内2320門は昭和17年~昭和20年)