航空母艦「雲龍(うんりゅう)」

「雲龍」について

航空母艦「雲龍(うんりゅう)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の正規航空母艦(空母)である。

「雲龍」は、昭和十六年度戦時急造計画(〇急計画)に於いて計画され、昭和17年(1942年)8月1日、神奈川県の横須賀海軍工廠で起工、昭和19年(1944年)8月6日に竣工した。そして、横須賀海軍工廠で竣工した最後の航空母艦(戦艦から改造された「信濃」を除く)となった。

昭和16年(1941年)11月、日本海軍は、近い将来に予想されるアメリカとの戦争に備え、昭和十六年度戦時建造計画(○急計画)を策定した。この中で、中型航空母艦1隻(第302号艦)が計画されていた。これは、比較的建造しやすく性能的にも充分であった「飛龍」を原型とし、一部には戦訓等による改修を行い、また、急速な建造を可能にする為に工程の簡素化を盛り込んでいた。こうして、改飛龍型航空母艦として計画・設計された第302号艦が、後の航空母艦「雲龍」となった。
「雲龍」は、艦形はほぼ「飛龍」に準じていた為、設計の時間と手間を大幅に省く事が出来た。防御に関しては、戦訓によって、被害局限(ダメージコトロール)能力の向上が図られ、消火設備の充実や不燃塗料の採用が行われたが、新規設計が必要となる装甲の強化は最小限に留められた。また、強度確保と防御力向上、構造の簡素化の為、昇降機(エレベータ)は「蒼龍」「飛龍」の3基に対し、「雲龍」では2基に減らされた。他には、「飛龍」で不評だった左舷中央の艦橋は、「蒼龍」同様に右舷前部に配置された。舵も、「飛龍」で不評だった平衡式吊舵2枚から、「蒼龍」同様の半平衡式中央支持舵1枚とされた。
その他細部の艤装に関しては、工期を短縮する為に徹底して簡素化が図られた。

昭和17年(1942年)6月、ミッドウェー海戦に於いて、日本海軍は主力正規空母4隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)を喪失、これを補う為の空母の増産が急務となった。
その結果、直ちに「雲龍」の建造が開始される事になり、昭和17年(1942年)8月1日、神奈川県の横須賀海軍工廠で起工された。建造は急ピッチで進められ、昭和18年(1943年)9月25日に進水、昭和19年(1944年)8月6日に竣工、即ち、起工から竣工まで約2年という早さであった。尚、原型となった「蒼龍」「飛龍」は起工から竣工まで約3年であり、実に1年近い工期短縮を達成した。
尚、〇急計画で新規に計画されていた空母は「雲龍」のみであり、急速な空母戦力の回復の為には更なる空母の増産が必要であった。そこで、既存の艦船を空母に改装したり、航空機の搭載を可能にする改修が試みられた。更に、昭和16年(1941年)に策定された第五次海軍軍備充実計画(⑤計画)を、昭和17年(1942年)9月に改⑤計画として改定、新たに空母15隻の建造を計画した。そして、これらは全て量産性の高い雲龍型航空母艦であった。
併しながら、「雲龍」が竣工した昭和19年(1944年)8月時点では、日米機動部隊最後の決戦となったマリアナ沖海戦は既に終わっており、この海戦で日本海軍機動部隊は事実上壊滅していた。即ち、正規空母「瑞鶴」・中型空母「隼鷹」・軽空母「瑞鳳」「龍鳳」「千歳」「千代田」が辛うじて残存していたが、母艦飛行隊はほぼ全滅、その再建の目処は立っていなかった。詰まり、母艦はあっても乗せる飛行機が無く、日本海軍機動部隊は既に有名無実化していたのである。

「雲龍」は、ほぼ同時に竣工した同型艦「天城」「葛城」と共に第三艦隊第一航空戦隊を編成したが、最早、空母が活躍する場は残されていなかった。
しかし、、昭和19年(1944年)10月、米軍は遂にフィリピン諸島に来襲、日本海軍はこれを迎撃する為に捷一号作戦を発動した。しかし、機動部隊の壊滅した日本海軍連合艦隊は既に有機的な戦闘能力を喪失していた。最早残された手段は残存艦艇の突入と航空機による体当たり攻撃(特別攻撃)しかなかく、出撃した空母4隻(「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」)は囮艦隊としてことごとく撃沈された。この時、「雲龍」は搭載する航空機が無いまま内地に待機していたが、フィリピン諸島を死守すべく、特攻兵器とその運用部隊を緊急輸送する任務に就く事になった。遂に、正規空母を高速輸送船として使用しなければならない状況になったのである。
昭和19年(1944年)12月10日、特攻兵器「桜花」「震洋」とその運用部隊や補給物資多数を搭載した「雲龍」は内地を出航、風雲急を告げるフィリピン諸島を目指した。しかし、同方面は既に米軍が制空権・制海権を掌握しつつあり、その途中も米潜水艦の出没する危険水域であった。果たして、12月19日16時35分、米海軍潜水艦「レッドフィッシュ」の発射した魚雷1本が「雲龍」の右舷中央に命中、機関や発電機に損害を受けた。更に右舷前部にも魚雷1本が命中し、搭載していた弾薬が誘爆、これが致命傷となり、「雲龍」は艦首から沈没していった。

時に昭和19年(1944年)12月19日16時57分、場所は東シナ海の中国三門湾東方212kmの北緯28度59分・東経124度03分、「雲龍」と運命を共にしたのは艦長小西要人大佐以下1241名と陸軍滑空飛行第一戦隊・滑空歩兵第一連隊主力であった。
「雲龍」は、戦時に於ける急増型空母として日本海軍機動部隊再建の期待を担って竣工した。しかし時既に遅く、「雲龍」が竣工した時、日本海軍は事実上の壊滅状態にあった。短期間での「雲龍」の建造は、当時の日本の国力を考えれば驚異的な事であった。だがそれは、日本の国力の限界をも示していた。貴重な資材と労力を投入して建造された「雲龍」は、殆ど活躍する事無く、竣工から僅か3ヶ月後にその生涯を終えた。

「雲龍」の要目

<竣工時:昭和19年(1944年)>

基準排水量:17150トン
公試排水量:19780トン
満載排水量:22400トン
全長227.4m 水線長:223m 全幅:22m 喫水:7.86m
飛行甲板全長:216.9m 飛行甲板全幅:27m
主機:艦本式オールギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶8基
出力:15万2000馬力
燃料:3670トン(重油)
最大速力:34.ノット
航続距離:18ノット・8000海里
搭載機数:常用機51機・補用2機(計画)
       艦戦 常用18機・補用2機 (艦上戦闘機「烈風」)
       偵察 常用6機 (艦上偵察機「彩雲」)
       艦攻 常用27機 (艦上攻撃機機「流星」)
搭載航空兵装:800キロ爆弾72発・250キロ爆弾240発
          60キロ爆弾260発・30キロ爆弾144発・魚雷36本
着艦制動装置:空廠式三年式一〇型4基12索
着艦制止装置:空廠式三年式一〇型3基
兵装:12.7センチ連装高角砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ三連装機銃21基63挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    25ミリ単装機銃30基30挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    12センチ28連装噴進砲6基168門
    二号一型電探2基・一号三型電探1基
乗員:1556名

参考文献

「日本空母と艦載機のすべて」

「雲龍」の艦歴

昭和17年(1942年)8月1日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で起工。
昭和18年(1943年)7月31日:軍艦「雲龍」と命名。佐世保鎮守府籍に決定。
昭和18年(1943年)9月25日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で進水。
昭和19年(1944年)4月15日:艤装員長として小西要人大佐が着任。
昭和19年(1944年)8月6日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で竣工。
                  佐世保鎮守府籍に編入。
                  初代艦長として小西要人大佐が着任。
                  第三艦隊第一航空艦隊に編入。
昭和19年(1944年)8月10日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和19年(1944年)8月11日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和19年(1944年)8月18日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和19年(1944年)9月6日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和19年(1944年)9月10日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和19年(1944年)9月21日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和19年(1944年)9月26日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和19年(1944年)9月27日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)9月30日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和19年(1944年)10月16日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)10月28日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和19年(1944年)10月30日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)11月06日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和19年(1944年)11月12日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)11月15日:連合艦隊付属第一航空艦隊に編入。
昭和19年(1944年)11月27日:呉軍港(広島県)を出港。
                   マニラ(フィリピン諸島)への緊急輸送任務に従事。
                   郡中沖(伊予灘東部)に回航。
昭和19年(1944年)12月10日:郡中沖(伊予灘東部)を出航。
昭和19年(1944年)12月19日:米潜水艦の雷撃によ魚雷2本被雷。
                   東シナ海で沈没。
昭和20年(1945年)2月20日:艦籍から除籍される。