「大鷹」について
航空母艦「大鷹(たいよう)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の航空母艦である。
日本郵船の豪華客船「春日丸」を改造、特設航空母艦「春日丸」として竣工した。後に航空母艦へ艦種変更されて軍艦「大鷹」と命名された。
大鷹型航空母艦の一番艦であり、日本海軍に於いて最初の特設航空母艦(商船改造空母・特空母)であった。
昭和15年(1940年)1月6日、長崎県の三菱重工長崎造船所に於いて、日本郵船の豪華客船「春日丸」として起工、同年(1940年)9月19日に進水した。併しながら、日米関係の悪化を受け、建造途中の11月に海軍に徴庸され、航空母艦に改造される事になった。
昭和16年(1941年)5月1日、長崎県の佐世保海軍工廠に於いて改造工事が開始され、3ヵ月後の8月31日、特設航空母艦「春日丸」として竣工、遂に豪華客船として竣工する事は無かった。
昭和16年(1941年)12月8日に大東亜戦争が開戦すると、特設航空母艦「春日丸」は、各種の輸送任務に従事した。昭和17年(1942年)8月1日には海軍省に買収され、8月31日には航空母艦にに類別、軍艦「大鷹」と命名されて海軍籍に入った。
「大鷹」は、商船改造空母であった為、搭載機数が少なく、空母としては低速であった。結果、第一線での作戦行動に用いるには性能不足であったが、ソロモン諸島・東部ニューギニアに於ける航空戦を支える為、航空機輸送任務に従事する事になった。そして、姉妹艦「雲鷹」「冲鷹」と共に、日本本土とトラック泊地との間を往復、多数の補充機材と補給物資を輸送し、日本軍の航空戦を縁の下から支えた。
しかし、その航海は決して安全ではなく、特に、昭和18年(1943年)9月24日には被雷によって航行不能に陥ったが、幸いにも僚艦「冲鷹」に曳航されて神奈川県の横須賀軍港に辿り着いた。
昭和18年(1943年)後半になると、日本本土と南方とを結ぶ航路が米潜水艦の攻撃に曝され、海上護衛が急務となってきた。そこで、「大鷹」以下商船改造空母は新設の海上護衛総隊に配属され、船団護衛任務に従事する事になった。そして、昭和19年(1944年)4月以降、南方からの資源を輸送するヒ船団に同行、搭載する哨戒機によって米潜水艦から輸送船団を護衛した。
しかし、昭和19年(1944年)8月18日、ヒ71船団の護衛中、フィリピン諸島ルソン島沖に於いて、米潜水艦「ラッシャー」の雷撃によって撃沈された。特設航空母艦として竣工してからちょうど3年目であった。
「大鷹」は決して高性能な航空母艦では無く、その活動は非常に地味であった。
しかし、「大鷹」以下商船改造空母による航空機輸送任務が無ければ、最前線での航空戦を継続する事は困難であっただろう。また、同様に船団護衛任務が無ければ、米潜水艦による日本輸送船の損害は更に多くなっていただろう。
「大鷹」は、裏方として大東亜戦争を支え続け、働きづめまま沈んでいった。
豪華客船「春日丸」から特設航空母艦「春日丸」への改造
昭和12年(1937年)、日本郵船は、昭和15年(1940年)秋に開催される事になっていた東京オリンピックへの外国人観光客需要に備え、欧州航路向け豪華客船として「新田丸(Nittamaru)」「八幡丸(Yawatamaru)」「春日丸(Kasugamaru)」の三姉妹船を計画した。この3隻は、総トン数17150トン・計画最高速力21.5ノット・旅客定員285名(一等127名・二等88名・三等70名)の高性能客船で、船名も日本郵船株式会社のイニシャルNYKにも因み、日本の威信をかけた豪華客船だった。また、建造に当たっては、海軍省の「優秀船舶建造助成法」を受けていた。これは、総トン数6000トン以上・最高速力19ノット以上の優秀商船の建造に対して海軍省が助成金を出し、戦時には海軍が徴傭する事になっていた。
そして、三番船であった「春日丸」は、昭和15年(1940年)1月6日に長崎県の三菱重工長崎造船所で起工され、同年9月19日に進水、客船としての艤装工事が続けられていた。折りしもヨーロッパでは昭和14年(1939年)9月1日に第二次世界大戦が勃発しており、先に竣工していた姉妹船「新田丸」「八幡丸」は欧州航路ではなく北米航路に就航していた。しかし、昭和15年(1940年)に入るとアメリカとの関係も悪化していった。そして、昭和15年(1940年)11月、日本海軍は建造途中の「春日丸」を徴傭、特設航空母艦へ改造する事が決まった。
空母への改造工事に於いては、遊歩甲板(プロムナード・デッキ)より上の構造物は全て撤去され、そこに航空機用の格納庫が設けられ、更にその上に飛行甲板が設置された。羅針艦橋は遊歩甲板前部の飛行甲板直下に置かれた。また、船体前後の船倉は弾薬庫に改造され、最前部と機関室後方の船倉には軽質油(ガソリン)タンクが設けられた。兵装は、単装高角砲6基6門が計画されたが、実際は4基4門となった。搭載された高角砲は、当時の多くの艦船に採用されていた「四十口径八九式十二糎七高角砲」ではなく、旧式な「四十五口径十年式十二糎高角砲」B2型であった。B2型は、当初は人力で旋回角や俯仰角を調整したが、後に機械動力に改められた。また、防盾は装備されていなかった。
昭和16年(1941年)5月1日、長崎県の佐世保海軍工廠で改造工事が開始され、3ヶ月の突貫工事によって、同年8月31日、特設航空母艦「春日丸」として竣工した。「春日丸」は日本海軍に於いて特設航空母艦として竣工した最初の艦であった。竣工後、南方(トラック諸島・ビスマルク諸島・クエゼリン環礁)への航空機輸送任務に従事、その後、昭和17年(1942年)8月1日に海軍省に買収され、同月31日、特設航空母艦から航空母艦に艦種が変更された。それに伴い軍艦「大鷹」と命名され、正式な航空母艦として海軍籍に入った。
また、既に客船として竣工していた姉妹船「八幡丸」「新田丸」も、昭和16年(1941年)8月には北米航路の休止に伴って海軍に徴庸されていた。この2隻も、昭和17年(1942年)以降、空母への改造工事を受けたが、「春日丸」と同型船であった為、「大鷹」と同型の空母に改造され、それぞれ大鷹型航空母艦の二番艦「雲鷹」・三番艦「冲鷹」となった。尚、客船としては三番船「春日丸」がもっとも遅く起工したが、竣工する前に改造工事が開始された為、空母としての竣工は「春日丸」が最も早く、客船としては一番船「新田丸」が最も早く起工したが、空母としての竣工は最も遅かった。
大鷹型航空母艦は、空母への改造工事の期間を短縮する為に客船の機関をそのまま使用ており、最高速力は21ノットと空母としては低速であり、、高速航行する艦隊に随伴したり、多数の艦載機を迅速に発艦させる事が困難であった。また、搭載機数も約30機と少なく、第一線で使用する空母としては性能不足が否めなかった。
結果、大鷹型航空母艦は補助的な空母として位置づけられ、主として輸送任務や船団護衛に使用される事になった。
航空母艦「大鷹」による航空機輸送
竣工した特設航空母艦「春日丸」は、第一航空艦隊第四航空戦隊に編入された。昭和16年(1941年)12月8日に大東亜戦争が開戦した時はパラオ諸島への輸送任務に従事していた。その後、瀬戸内海西部で発着艦訓練を行い、昭和17年(1942年)2月から5月まで、トラック諸島・ビスマルク諸島・クエゼリン環礁への輸送任務に従事した。この時、固有の艦載機として「九六式艦上戦闘機」「九六式艦上爆撃機」を搭載、対潜哨戒に使用された。7月には対空兵装が強化され、13ミリ四連装機銃2基を25ミリ連装機銃2基に換装、更に三番・四番高角砲装備位置に25ミリ三連装機銃それぞれ1基を装備した。
その後、8月1日には海軍省に買収され、8月31日には特設航空母艦から航空母艦へ艦種が変更され、軍艦「大鷹」と命名された。
この頃、ソロモン諸島ガダルカナル島を巡り、日本軍と米軍との間に航空戦が展開されつつあった。日本軍はビスマルク諸島ラバウルを基地としていたが、連日の航空戦によって次々と機材を消耗、これを補充する為の航空機輸送が急務となった。併しながら、日本本土で生産された航空機を前線まで輸送する事は容易ではなかった。
航空機を飛ばせて輸送(空輸)する場合、移動中の事故や故障によって消耗する危険性がある。また、空輸には多数の搭乗員を必要とするが、当時は前線の基地航空隊ですら搭乗員が不足しており、空輸の為に搭乗員を割く余裕はなかった。結果、船舶に航空機を搭載して輸送する事になるが、航空機は精密機器であるため、木箱のように積み上げる訳にはいかない。分解して収納する事も可能であるが、搭載時の分解・梱包や、現地に到着した後での開封・組立ては非常に手間と時間がかかる。前線では一刻も早い補充機材の到着が望まれており、分解して輸送するのは好ましくない。そこで、航空機をそのまま搭載可能な船舶が必要となるが、これに適した艦船は航空母艦であった。
しかし、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦で主力正規空母4隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)を失った日本海軍にとって、残る正規空母は虎の子の存在であり、目下、母艦飛行隊の再建に向けて訓練中であった。
そして、この航空機輸送の大役を仰せつかったのが「大鷹」以下の商船改造空母であった。最高速力21ノットの大鷹型航空母艦は、空母としては低速であり、第一線で使用するには性能不足であったが、輸送船としては非常に高速であり、更に艦内の格納庫や艦上の飛行甲板は航空機を搭載するには最適であった。
「大鷹」は早速トラック諸島への航空機輸送任務に従事、第一回目として、昭和17年(1942年)8月16日、広島県の呉軍港を出港し、9月4日にはトラック泊地に入港した。7日には駆逐艦「曙」に護衛されてトラック泊地を出航し、途中、パラオ泊地とフィリピン諸島南部ダバオに寄航した。ここで「零式艦上戦闘機」「九九式艦上爆撃機」を収容してビスマルク諸島カビエンに向かい、17日、台南航空隊の「零式艦上戦闘機」24機をカビエンに向けて発艦させた。21日~22日には再びダバオに寄航し、途中で駆逐艦「太刀風」も合流して再度カビエンに向かった。25日、搭載機をカビエンに向けて発艦させてトラック諸島へ向かった。しかし、その途上の28日夜、トラック諸島沖40km(北緯06度59分・東経151度45分)に於いて米潜水艦「トラウト」 の発射した魚雷5本の内1本が艦底を通過、1本が右舷艦尾に命中した。この魚雷は不発であったが乗員13名が戦死、竜骨(キール)を損傷して速力が16ノットの低下した。幸いにも自力航行が可能であり、そのままトラック泊地に入港、第一〇四工作部・工作艦「明石」により応急修理を受けた。10月4日、「大鷹」はトラック泊地を出航したが、波浪によって応急部修理部が損壊し、ガソリンタンクが損傷、気化したガスが艦内に充満して速力が2~5ノットに低下した。それでも何とか14日には呉軍港に入港、呉海軍工廠第四船渠に入渠して本格的な修理を行った。この時、二号一型電探を装備している。27日には修理が完了し、28日には呉軍港を出港した。
この様に、当時は米潜水艦の行動が活発化しており、航海は決して安全ではなかった。尚、これ被雷は、大東亜戦争に於いて、米潜水艦の雷撃よる航空母艦の初被雷であった。
10月末には再び航空機輸送任務に復帰、11月から翌昭和18年(1943年)8月までの10ヶ月間に、神奈川県の横須賀軍港とトラック諸島やシンガポール・マニラとを7往復した。
この航空機輸送任務に於いては、海軍機のみならず陸軍機の輸送も行った。昭和18年(1943年)2月1日~24日には、ニューギニア方面に進出する陸軍第六飛行師団隷下の第十二飛行団第二百八飛行戦隊の「九九式双発軽爆撃機」36機を姉妹艦「雲鷹」と共に搭載、横須賀軍港からトラック泊地まで輸送した。更に、4月4日、ラバウルに進出する陸軍第六飛行師団隷下の第十四飛行団第六十八戦隊の「三式戦闘機『飛燕』」約30機を搭載、姉妹艦「冲鷹」と共に重巡「鳥海」・駆逐艦「漣」「響」「黒潮」「親潮」に護衛されて横須賀軍港を出港した。しかし、7日にはサイパン島沖で米潜水艦「ハドック」と遭遇、8日には米潜水艦「タニイ」から雷撃を受けたが、この時は魚雷が早爆して被害は無かった。その後、10日にトラック泊地に入港し、21日には横須賀に入港した。
「大鷹」は、同型の商船改造空母「雲鷹」「冲鷹」と共に多数の航空機を輸送、ソロモン諸島方面や東部ニューギニア方面での航空戦を支えた。また、昭和18年(1943年)6月、艦首・艦尾に25ミリ三連装機銃(二型)を各2基(計4基)を増設、艦内には泡沫消火装置を装備するなど、対空兵装強化や不燃対策が図られた。
しかし、次第に米軍潜水艦の跳梁が激しくなり、航海は一層危険になっていた。昭和18年(1943年)8月6日にはトラック諸島からの帰途、北緯21度03分・東経153度31分に於いて、米潜水艦「パイク」の雷撃によって被雷、幸いにもこの時は命中魚雷が不発であった為に大事には至らず、9日には横須賀軍港に入港した。しかし、その1月半後の9月24日、東京都父島東方の北緯28度00分・東経146度10分に於いて、米潜水艦「カブリラ」の雷撃を受けた。発射された魚雷6本中5本が命中したが、この時も命中魚雷が不発であった為に沈没は免れたものの、艦尾が大破して航行不能に陥った。
この事態に対し、同行していた姉妹艦「冲鷹」艦長の加藤与四郎大佐(後に重巡「摩耶」艦長)は「大鷹」の曳航を決意、米潜水艦の潜伏する危険海域に引き返し、曳航作業を行った。この作業では、「冲鷹」の艦首の錨鎖を艦尾まで運んで固縛し、これに曳航索(客船時代に搭載していた予備の円周9インチのワイヤーロープ)を大・中・小の索に結び、先ず小索を「大鷹」の救助艇 (カッター)で「大鷹」に渡して手繰り寄せ、最後に9インチの曳航索を「大鷹」の艦首部に送って固縛、曳航準備を完了した。「冲鷹」は速力を最微速にして行進を始め、その後は速力8ノットで航行を続けた。こうして曳航する事2日間、26日にはようやく横須賀軍港に辿り着いたのである。
その後、「大鷹」は10月1日に横須賀工廠第五船渠に入渠、修理が開始され、翌昭和19年(1944年)4月13には修理が完了、再び輸送任務に復帰した。
航空母艦「大鷹」による船団護衛
しかし、「大鷹」が修理の為に入渠していた間に戦局は悪化の一途を辿り、ソロモン諸島はほぼ米軍によって制圧され、同方面の根拠地であるビスマルク諸島ラバウルは孤立、また、昭和19年(1944年)2月には内南洋最大の海軍根拠地トラック泊地が米軍の空襲によって壊滅していた。
更に、この頃になると米潜水艦の跳梁が激しくなり、物資や資源を運ぶ貨物船や油槽船(タンカー)が次々と撃沈され、日本本土と南方資源地帯との輸送路が寸断されようとしていた。「大鷹」と常に行動を共にしていた姉妹艦「冲鷹」も、昭和18年(1943年)12月4日に米潜水艦「セイルフィッシュ」によって撃沈されており、輸送船団の護衛が急務となっていた。そこで、この事態に対処すべく、輸送船団の護衛を任務とする海上護衛総隊が設立された。しかし、電探(レーダー)を備えて集団(狼群:ウルフパック)で潜伏する米潜水艦の攻撃に対し、従来のような少数の艦艇による護衛では最早歯が立つものではなかった。そこで、「大鷹」以下の商船改造空母が海上護衛総隊に編入され、船団護衛任務に従事する事になった。即ち、空母の艦載機による対戦哨戒によって米潜水艦を発見・攻撃し、船団を護衛するのである。
この様な船団護衛は、大西洋方面の連合軍艦隊に於いても護送船団(コンボイ)として実施されており、商船を改造した護衛空母とその艦載機による対潜哨戒と、護衛駆逐艦による対潜攻撃によって、ドイツ海軍潜水艦(Uボート)と熾烈な戦いを展開していた。
「大鷹」は、修理中の昭和18年(1943年)12月15日に海上護衛総隊司令部付属となり、修理完了後の4月29日には第一海上護衛隊に編入された。こうして、姉妹艦「雲鷹」や、同様な商船改造空母「海鷹」「神鷹」と共に、地味ではあるが非常に重要な船団護衛任務を開始した。
尚、修理中、新たに一号三型号電探(レーダー)・零式水中聴音機(パッシブソナー)・水中哨信儀(アクティブソナー)が装備されると共に、昭和19年(1944年)4月19日には対潜哨戒機として第九三一航空隊の「九七式艦上攻撃機」12機が配備された。また、飛行甲板が10m延長されて172mとなった。
当時、山口県の門司港と南方資源地帯の主要港であるシンガポールのセレター軍港やフィリピン諸島ルソン島のマニラ港との間を往復するヒ船団が、南方からの資源輸送路として重要視されていた。昭和19年(1944年)5月3日、「大鷹」は、最初の護衛任務としてヒ61船団(輸送船11隻・駆逐艦「雷」「響」「朝顔」・海防艦「佐渡」「倉橋」「第五号」「第七号」)と門司港を出港、マニラを経て、05月17日にシンガポールに入港した。その後、南方から日本本土に向かうヒ62船団・ヒ68船団や、日本本土から南方に向かうヒ69船団と共に行動し、船団護衛任務や航空機輸送任務に従事した。併しながら、日本本土と南方資源地帯との航路は、既に米潜水艦の行動範囲となっており、毎回の航海は危険と隣り合わせであった。
航空母艦「大鷹」の最期
昭和19年(1944年)8月10日、「大鷹」はヒ71船団と共に九州の伊万里湾を出港した。
ヒ71船団は、油槽船(タンカー)・貨物船・陸軍特殊船など20隻から成る重要船団で、空母「大鷹」・駆逐艦「藤波」「夕凪」・海防艦「平戸」「倉橋」「御蔵」「昭南」「第十一号」に護衛されていた。船団は途中、台湾の馬公に寄航して駆逐艦「朝風」以下5隻が合同、マニラを目指して一路南下していた。しかしこの時、行く手に米潜水艦3隻が潜伏しており、17日には米潜水艦「レッドフィッシュ」が船団を視認、18日未明に雷撃を行った。この雷撃は失敗したものの、18日朝より他の米潜水艦による攻撃が開始され、複数の輸送船が被雷して脱落、ヒ71船団は重大な危機に陥った。
そして、18日22時28分、ルソン島西方に於いて、米潜水艦「ラッシャー」が発射した魚雷18本の内1本が「大鷹」の右舷後部の軽質油タンク(ガソリンタンク)に命中、忽ち火災が発生し、「大鷹」の後部は紅蓮の炎に包まれた。そして22時40分、火災が重油タンクに引火して爆発、これが致命傷となり、爆発の8分後に「大鷹」の姿は海中に消えた。
時に昭和19年(1944年)8月18日22時48分、場所はフィリピン諸島ルソン島北西端のボヘアドール岬南西沖の北緯18度16分・東経120度20分であった。
「大鷹」は、平和な時代であれば北米航路の豪華客船「春日丸」として活躍し、大勢の旅客を運ぶはずであった。しかし、風雲急を告げる国際情勢の下、豪華客船として竣工する事無く、航空母艦への改造工事を受けて空母「大鷹」として竣工した。
「大鷹」は、空母としては決して高性能とは言えなかったが、その航空機搭載能力を生かし、日本本土と南方との航空機輸送に大活躍した。そして、姉妹艦「雲鷹」「冲鷹」と共に、昭和17年(1942年)8月から1年半ほどの間に実に2000機近い航空機を前線に輸送したのである。このような商船改造空母による航空機輸送が無ければ、日本軍はソロモン諸島方面・東部ニューギニア方面に於ける2年近い航空戦を戦い抜く事は出来なかったであろう。やがて、戦局が悪化の一途を辿る中、日本本土と南方資源地帯の輸送路を護る為、「大鷹」は船団護衛任務にも従事する事になった。既に外洋は米潜水艦の跳梁が激しく、一度出航すれば生きて帰れる保障の無い船旅であった。そしてその途上、護衛していた「大鷹」もまた米潜水艦の雷撃によって撃沈された。それは、特設航空母艦「春日丸」として竣工してからちょうど3年目であった。その間、輸送任務や船団護衛に従事する事実に17回、殆ど休む事無もなく、更には何度も傷つき、日本軍の戦線を裏方として支え続けた。
「大鷹」の要目
<計画時(豪華客船「春日丸」):昭和14年(1939年)>
純トン数:9379トン
総トン数:17127トン
全長179.8m 全幅:22.5m 喫水:8.8m(満載)
主機:三菱ツェリー式オールギヤードタービン2基
缶:三菱三胴型水管式缶4基
出力:2万1000馬力(計画)
最大速力:21ノット(計画)
貨物艙容量:13000立法メートル
乗員定員:239名
旅客定員:285名(一等127名・二等88名・三等70名)(計画)
船舶番号:48210
信号符号:JOEO
<竣工時(特設航空母艦「春日丸」):昭和16年(1941年)>
基準排水量:17830トン
公試排水量:20000トン
満載排水量:トン
全長180.24m 水線長:173.7m 全幅:22.5m 喫水:8m(公試)
飛行甲板全長:162m 飛行甲板全幅:23.5m
主機:三菱ツェリー式オールギヤードタービン2基
缶:三菱三胴型水管式缶4基
出力:2万5200馬力
燃料:2273トン(重油)
最大速力:21ノット
航続距離:18ノット・8500海里
搭載機数:常用機27機・補用4機
艦戦 常用11機・補用2機 (零式艦上戦闘機)
艦攻 常用16機・補用2機 (九七式艦上攻撃機)
兵装:12センチ単装高角砲4基4門 (四十五口径十年式十二糎高角砲)
25ミリ連装機銃2基4挺 (九六式二十五粍高角機銃)
13ミリ四連装機銃2基8挺 (九六式十三粍機銃)
乗員:747名
<艦種変更時(航空母艦「大鷹」):昭和17年(1942年)>
基準排水量:17830トン
公試排水量:20000トン
満載排水量:トン
全長180.24m 水線長:173.7m 全幅:22.5m 喫水:8m(公試)
飛行甲板全長:162m 飛行甲板全幅:23.5m
主機:三菱ツェリー式オールギヤードタービン2基
缶:三菱三胴型水管式缶4基
出力:2万5200馬力
燃料:2273トン(重油)
最大速力:21ノット
航続距離:18ノット・8500海里
搭載機数:常用機27機・補用4機
艦戦 常用11機・補用2機 (零式艦上戦闘機)
艦攻 常用16機・補用2機 (九七式艦上攻撃機)
兵装:12センチ単装高角砲4基4門 (四十五口径十年式十二糎高角砲)
25ミリ三連装機銃2基6挺 (九六式二十五粍高角機銃)
25ミリ連装機銃4基8挺 (九六式二十五粍高角機銃)
乗員:747名
<修理時(航空母艦「大鷹」):昭和18年(1943年)>
基準排水量:17830トン
公試排水量:20000トン
満載排水量:トン
全長180.24m 水線長:173.7m 全幅:22.5m 喫水:8m(公試)
飛行甲板全長:172m 飛行甲板全幅:23.5m
主機:三菱ツェリー式オールギヤードタービン2基
缶:三菱三胴型水管式缶4基
出力:2万5200馬力
燃料:2273トン(重油)
最大速力:21ノット
航続距離:18ノット・8500海里
搭載機数:常用機27機・補用4機
艦戦 常用11機・補用2機 (零式艦上戦闘機)
艦攻 常用16機・補用2機 (九七式艦上攻撃機)
兵装:12センチ単装高角砲4基4門 (四十五口径十年式十二糎高角砲)
25ミリ三連装機銃6基18挺 (九六式二十五粍高角機銃)
25ミリ連装機銃4基8挺 (九六式二十五粍高角機銃)
二号一型電探1基
九五式爆雷8個・手動投下台1組
乗員:747名
<最終時(航空母艦「大鷹」):昭和19年(1944年)>
基準排水量:17830トン
公試排水量:20000トン
満載排水量:トン
全長180.24m 水線長:173.7m 全幅:22.5m 喫水:8m(公試)
飛行甲板全長:172m 飛行甲板全幅:23.5m
主機:三菱ツェリー式オールギヤードタービン2基
缶:三菱三胴型水管式缶4基
出力:2万5200馬力
燃料:2273トン(重油)
最大速力:21ノット
航続距離:18ノット・8500海里
搭載機数:常用機27機・補用4機
艦戦 常用11機・補用2機 (零式艦上戦闘機)
艦攻 常用16機・補用2機 (九七式艦上攻撃機)
兵装:12センチ単装高角砲4基4門 (四十五口径十年式十二糎高角砲)
25ミリ三連装機銃6基18挺 (九六式二十五粍高角機銃)
25ミリ連装機銃4基8挺 (九六式二十五粍高角機銃)
25ミリ単装機銃22基22挺 (九六式二十五粍高角機銃)
二号一型電探1基・一号三型電探1基
九五式爆雷8個・手動投下台1組
乗員:747名
参考文献
「帝国海軍 空母大全」
「日本空母と艦載機のすべて」
「大鷹」の艦歴
昭和15年(1940年)01月06日:三菱重工長崎造船所(長崎県)で豪華客船として起工。
昭和15年(1940年)09月19日:三菱重工長崎造船所(長崎県)で豪華客船として進水。
昭和15年(1940年)11月:航空母艦への改造決定。海軍に徴傭される。
昭和16年(1941年)05月01日:佐世保海軍工廠(長崎県)で空母への改造工事に着手。
初代艤装員長として石井芸江大佐が着任。
佐世保鎮守府所管に編入。
昭和16年(1941年)08月11日:2代目艤装員長として高次貫一大佐が着任。
昭和16年(1941年)08月31日:佐世保海軍工廠(長崎県)で特設空母「春日丸」として竣工。
昭和16年(1941年)09月05日:初代艦長として高次貫一大佐が着任。
第一航空艦隊第五航空戦隊に編入。
昭和16年(1941年)09月25日:第一航空艦隊第四航空戦隊に編入。
昭和16年(1941年)10月04日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
昭和16年(1941年)10月26日:高雄(台湾)に入港。
昭和16年(1941年)11月07日:高雄(台湾)を出港。
昭和16年(1941年)11月10日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和16年(1941年)11月13日:連合艦隊付属となる。
昭和16年(1941年)11月28日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
パラオ諸島への輸送任務に従事。
昭和16年(1941年)12月01日:高雄(台湾)に入港。
昭和16年(1941年)12月02日:高雄(台湾)を出港。
昭和16年(1941年)12月06日:パラオ泊地に入港。
昭和16年(1941年)12月07日:パラオ泊地を出港。
昭和16年(1941年)12月12日:徳山港(山口県)に入港。
昭和17年(1942年)01月01日:呉鎮守府部隊に編入。
昭和17年(1942年)02月20日:呉軍港(広島県)を出港。
トラック諸島への輸送任務に従事。
昭和17年(1942年)02月22日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)02月25日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和17年(1942年)03月03日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)03月05日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)03月11日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)03月31日:呉軍港(広島県)を出港。
ビスマルク諸島ラバウルへの輸送任務に従事。
昭和17年(1942年)04月01日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)04月03日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和17年(1942年)04月11日:ビスマルク諸島ラバウルに入港。
昭和17年(1942年)04月12日:ビスマルク諸島ラバウルを出港。
昭和17年(1942年)04月20日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)04月25日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
ビスマルク諸島ラバウルへの輸送任務に従事。
昭和17年(1942年)05月03日:クエゼリン環礁ルオット島に入港。
昭和17年(1942年)05月04日:クエゼリン環礁ルオット島を出港。
昭和17年(1942年)05月08日:ビスマルク諸島ラバウルに入港。
昭和17年(1942年)05月09日:ビスマルク諸島ラバウルを出港。
昭和17年(1942年)05月16日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)05月21日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
昭和17年(1942年)05月25日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
昭和17年(1942年)06月09日:呉軍港(広島県)を出港。瀬戸内海西部で訓練に従事。
昭和17年(1942年)06月10日:官房機密第7162号によって25ミリ機銃の装備訓令。
昭和17年(1942年)06月26日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)07月01日:連合艦隊付属となる。
呉軍港(広島県)を出港。
昭和17年(1942年)07月20日:呉軍港(広島県)に入港。
官房機密第7162号訓令による工事を施行。
13ミリ四連装機銃2基を25ミリ連装機銃2基に換装。
三番高角砲装備位置に25ミリ三連装機銃1基を仮装備。
四番高角砲装備位置に25ミリ三連装機銃1基を仮装備。
昭和17年(1942年)07月30日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和17年(1942年)08月01日:海軍省に買収される。
昭和17年(1942年)08月12日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)08月16日:呉軍港(広島県)を出港。
パラオ諸島・フィリピン諸島への輸送任務に従事。
昭和17年(1942年)08月21日:官房機密第10468号によって機銃の装備訓令。
昭和17年(1942年)08月29日:マロエラップ環礁タロア島に入港。
昭和17年(1942年)08月30日:マロエラップ環礁タロア島を出航。
昭和17年(1942年)08月31日:徴傭船から除籍される。
特設航空母艦から航空母艦に艦種変更される。
軍艦「大鷹」と命名。佐世保鎮守府籍に編入。
昭和17年(1942年)09月04日:トラック泊地に入港。同日出航。
駆逐艦「曙」とパラオ諸島に向かう。
昭和17年(1942年)09月07日:パラオ泊地に入港。
昭和17年(1942年)09月11日:パラオ泊地を出航。
昭和17年(1942年)09月12日:フィリピン諸島南部ダバオに入港。
「零戦」「九九式艦上爆撃機」を搭載。
昭和17年(1942年)09月13日:フィリピン諸島南部ダバオを出港
ビスマルク諸島カビエンに向かう。
昭和17年(1942年)09月17日:台南航空隊の「零戦」24機をカビエンに向けて発艦させる。
昭和17年(1942年)09月21日:フィリピン諸島南部ダバオに入港。
昭和17年(1942年)09月22日:フィリピン諸島南部ダバオを出港
ビスマルク諸島カビエンに向かう。
昭和17年(1942年)09月23日:駆逐艦「太刀風」が合流。
昭和17年(1942年)09月25日:搭載機をカビエンに向けて発艦させる。
昭和17年(1942年)09月28日:トラック諸島近海で米潜水艦の雷撃により魚雷1本被雷。
トラック泊地に入港。
第一〇四工作部・工作艦「明石」により応急修理。
昭和17年(1942年)10月04日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)10月12日:哨戒艇「第四十六号」と合流する。以後、護衛を受ける。
昭和17年(1942年)10月13日:哨戒艇「第四十六号」の護衛終了。
昭和17年(1942年)10月14日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)10月16日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
損傷箇所の修理・舷外電路修理・二号一型電探を装備。
昭和17年(1942年)10月24日:2代目艦長として藤田太郎八大佐が着任。
昭和17年(1942年)10月26日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
昭和17年(1942年)10月28日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和17年(1942年)10月29日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)11月01日:横須賀軍港(神奈川県)を出航。
航空機輸送任務に従事。
昭和17年(1942年)11月07日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)11月08日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)11月16日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)11月19日:横須賀軍港(神奈川県)を出航。
航空機輸送任務に従事。
昭和17年(1942年)11月25日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)11月26日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)12月05日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)12月15日:横須賀軍港(神奈川県)を出航。
航空機輸送任務に従事。
昭和17年(1942年)12月21日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)12月22日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)12月24日:ビスマルク諸島カビエンに入港。同日出航
昭和17年(1942年)12月31日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)02月01日:横須賀軍港(神奈川県)を出航。
航空機輸送任務に従事。
空母「雲鷹」とトラック諸島に向かう。
陸軍飛行第二百八戦隊を輸送。
「九九式双発軽爆撃機」36機を搭載。
昭和18年(1943年)02月07日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)02月11日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)02月17日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)02月24日:横須賀軍港(神奈川県)を出航。
航空機輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)03月02日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)03月06日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)03月12日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)04月04日:横須賀軍港(神奈川県)を出航。
航空機輸送任務に従事。
空母「冲鷹」とトラック諸島に向かう。
陸軍第六飛行師団飛行第六十八戦隊を輸送。
「三式戦闘機『飛燕』」約30機を搭載。
昭和18年(1943年)04月07日:米潜水艦接触を受ける。
昭和18年(1943年)04月08日:米潜水艦の雷撃を受けるが命中せず。
昭和18年(1943年)04月10日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)04月16日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)04月21日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)05月01日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
シンガポール・マニラへの輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)05月06日:マニラ港(フィリピン諸島)に入港。
昭和18年(1943年)05月08日:マニラ港(フィリピン諸島)を出港。
昭和18年(1943年)05月13日:ジャワ島(インドネシア)スラバヤに入港。
昭和18年(1943年)05月16日:ジャワ島(インドネシア)スラバヤを出港。
昭和18年(1943年)05月18日:セレター軍港(シンガポール)に入港。
昭和18年(1943年)05月21日:セレター軍港(シンガポール)を出港。
昭和18年(1943年)05月25日:馬公(台湾)に入港。
昭和18年(1943年)05月27日:馬公(台湾)を出港。
昭和18年(1943年)05月29日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
3代目艦長として松田尊睦大佐が着任。
昭和18年(1943年)06月15日:佐世保海軍工廠(長崎県)に入渠。
官房機密第10468号訓令による工事を施行。
泡沫消火装置装備。
艦首と艦尾に25ミリ三連装機銃(二型)各2基を増備。
昭和18年(1943年)06月30日:佐世保海軍工廠(長崎県)を出渠。
昭和18年(1943年)07月15日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
トラック諸島への輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)07月17日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)07月23日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
航空機輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)07月28日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)08月04日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)08月06日:米潜水艦の雷撃を受けるが命中せず。
昭和18年(1943年)08月09日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)08月17日:横須賀軍港(神奈川県)を出航。
航空機輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)08月24日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)08月28日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)09月02日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)09月07日:横須賀軍港(神奈川県)を出航。
航空機輸送任務に従事。
空母「冲鷹」とトラック諸島に向かう。
昭和18年(1943年)09月11日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)09月21日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)09月24日:東京都父島沖で米海軍潜水艦の雷撃を受けて損傷。
航行不能となり、空母「冲鷹」に曳航される。
昭和18年(1943年)09月26日:空母「冲鷹」に曳航されて横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)10月01日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
被雷による損傷箇所の修理・飛行甲板の延長を行う。
昭和18年(1943年)11月17日:4代目艦長として松野俊郎大佐が着任。
昭和18年(1943年)11月18日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和18年(1943年)12月15日:海上護衛総隊司令部付属となる。
昭和18年(1943年)12月22日:横須賀軍港(神奈川県)を出航。
横浜港(神奈川県)に入港。
昭和19年(1944年)01月11日:三菱重工横浜造船所(神奈川県)に入渠。
被雷による損傷箇所の修理を行う。
一号三型号電探・零式水中聴音機・哨信儀装備を装備。
昭和19年(1944年)02月15日:5代目艦長として別府明朋大佐が着任。
昭和19年(1944年)03月20日:6代目艦長として杉野修一大佐が着任。
昭和19年(1944年)04月02日:三菱重工横浜造船所(神奈川県)を出渠。
昭和19年(1944年)04月13日:横浜港(神奈川県)を出港。
横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和19年(1944年)04月19日:「九七式艦上攻撃機」12機が配備される。
横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和19年(1944年)04月22日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)04月23日:呉軍港(広島県)を出港
昭和19年(1944年)04月28日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)04月29日:第一海上護衛隊に編入。
昭和19年(1944年)04月30日:呉軍港(広島県)を出港。門司港(山口県)に入港。
昭和19年(1944年)05月03日:門司港(山口県)を出港。
輸送船団護衛任務に従事。
ヒ61船団とシンガポール・マニラに向かう。
同行した艦艇は以下の通り。
駆逐艦「雷」「響」「朝顔」
海防艦「佐渡」「倉橋」「第五号」「第七号」
昭和19年(1944年)05月09日:マニラ港(フィリピン諸島)に入港。
昭和19年(1944年)05月12日:マニラ港(フィリピン諸島)を出港。
昭和19年(1944年)05月17日:セレター軍港(シンガポール)に入港。
昭和19年(1944年)05月23日:セレター軍港(シンガポール)を出港。
輸送船団護衛任務に従事。
ヒ62船団と門司港(山口県)に向かう。
昭和19年(1944年)05月30日:マニラ港(フィリピン諸島)に入港。
昭和19年(1944年)06月01日:マニラ港(フィリピン諸島)を出港。
昭和19年(1944年)06月08日:門司港(山口県)に入港。
昭和19年(1944年)06月09日:呉軍港(広島県)に入港。
呉海軍工廠(広島県)に入渠。
舵取機・舵軸空所の修理を行う。
昭和19年(1944年)06月30日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
昭和19年(1944年)07月07日:呉軍港を出港。
昭和19年(1944年)07月13日:門司港(山口県)を出港。
航空機輸送任務に従事。
ヒ69船団とマニラ(フィリピン諸島に向かう。
第一航空艦隊の機材をマニラ(フィリピン諸島に輸送。
昭和19年(1944年)07月20日:マニラ港(フィリピン諸島)に入港。
昭和19年(1944年)07月25日:マニラ港(フィリピン諸島)を出港。
ヒ68船団と門司港(山口県)に向かう。
昭和19年(1944年)08月03日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和19年(1944年)08月06日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
昭和19年(1944年)08月08日:門司港(山口県)を出港。九州伊万里湾に回航。
昭和19年(1944年)08月10日:九州伊万里湾を出航。
輸送船団護衛任務に従事。
ヒ71船団とマニラ(フィリピン諸島に向かう。
同行した艦艇は以下の通り。
駆逐艦「藤波」「夕凪」
海防艦「平戸」「倉橋」「御蔵」「昭南」「第十一号」
昭和19年(1944年)08月15日:馬公(台湾)に入港。
昭和19年(1944年)08月17日:馬公(台湾)を出港。
駆逐艦「朝風」以下5隻が合同。
昭和19年(1944年)08月18日:米潜水艦の雷撃によ魚雷1本被雷。
フィリピン諸島ルソン島西方で沈没。
昭和19年(1944年)10月01日:艦籍から除籍される。