タッポーチョ山(タポチョ山)周辺

タッポーチョ山(タポチョ山)周辺の戦跡一覧

大東亜戦争におけるサイパン島の歴史
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黒木大隊慰霊碑

野戦重砲兵第九連隊第二大隊(大隊長:黒木弘景少佐)はソ満国境の東寧からから南方転用された部隊であり、サイパン島では独立山砲兵第三連隊重砲兵大隊に編入された。
昭和19年(1944年)3月19日、サイパン島に進出した野戦重砲兵第九連隊第二大隊(黒木大隊)289名は、「サイパン港」から「カナツタブラ渓谷」まで人力で砲を運び込み、同地に放列(砲兵陣地)と観測所を構築して展開した。部隊には3個中隊12門の「四年式十五糎榴弾砲(十五榴)」が配備されており、サイパン島で最大の射程を持つ火砲であった。

「カナツタブラ渓谷」に構築された「十五榴」の放列は射撃壕と退避壕から成っており、沖合いの艦砲の死角にあたる場所であった。
射撃壕は直径12~13mの深い縦穴を掘り、周囲に材木の柱を置き、その上に鉄板を敷いて屋根とした。更に、鉄板の上に土を敷いて草を植えて擬装されていた。
退避壕は森の中にあり、周囲は厳重に擬装されていた。また、退避壕から射撃壕まではゆるい傾斜が設けられ、射撃壕への砲の移動が迅速に行えるように工夫されていた。結果、巧妙に隠された砲は米軍による上空からの偵察でも発見は困難であり、米軍上陸前の砲爆撃による損失は皆無であった。

昭和19年(1944年)6月15日早朝、米軍はオレアイ海岸・チャランカノア海岸に上陸を開始、同日午後には海岸沿いの日本軍部隊を壊滅させて橋頭堡を築き、戦車・火砲等の揚陸を始めた。

この時、黒木大隊の放列はひたすら沈黙を守った。射撃を開始すれば、たちまち上空の米軍艦載機から発見されてしまうからである。
17時過ぎ、米軍の攻撃が一段落し、上空の米軍艦載機が引揚げた時、黒木大隊の放列は米軍橋頭堡に対して猛然と射撃を開始した。

観測所からの指示の下、12門の「十五榴」は砲身が赤熱する程の連続射撃を行った。この時、保有していた弾薬は約6200発、付近の海軍設営隊員も砲弾運びを手伝い、砲弾は見る見る減っていった。結果、上陸した米軍部隊に大きな損害を与えた。
その夜、黒木大隊ではこの大戦果に対して各中隊ごとに祝杯をあげた。しかし、皆、これが最後の酒になる事は分かっていた。「十五榴」の存在と位置が知られた以上、明日に何が起こるかは明白であった。

翌16日、朝からの空襲が開始された。黒木大隊の将兵は残った砲弾を次々と発射した。

米軍艦載機の爆撃で「十五榴」は次第に破壊されていった。また、連続発射で使用不能になった「十五榴」もあった。砲員も次々と敵弾に斃れていった。更に、山頂の観測所には米軍戦車が迫っていた。

残存の「十五榴」と砲員は、迫る米軍戦車に対して零距離射撃(砲身を水平にした射撃)を行った。一部の「十五榴」は人力で陣地変換されたが、16日夕方、黒木大隊の「十五榴」は殆どが破壊され、各中隊長以下多数の砲員が戦死した。

17日夜、黒木大隊長は手兵を率いて夜襲を行い負傷したが、それでも尚、自ら陣頭で指揮を執った。

黒木大隊長以下残存砲員は、放列に突入してきた米軍戦車と壮絶な戦闘を繰り広げ、遂に黒木大隊は全滅した。

ここに展示されている「十五榴」は、大隊と行動を共にしていた原住民であるロレンツォ・D・ゲレロ氏が戦後自分の屋敷の敷地に運び込んでいたものである。

同氏は日本人がこの「砲」を探しにくる日を信じ、鉄屑屋から何度も売ってくれ、という要求を退けてきた。 昭和53年(1978年)4月、戦友会は同氏の協力のもと、部隊が展開していたこの地に「慰霊碑」を建てた。

「黒木大隊慰霊碑」の歩き方


オレアイ海岸のビーチ・ロード(Beach Rd. 33号線)にある「ランディングビーチ」から1km程北にある 「交差点」(「米軍記念碑・日本軍速射砲」)がある。
この「交差点」からMSGR.Guerrero Rd.(31号線)に入る。MSGR Guerrero Rd.(31号線)を3km程進むと、左手にKannat Tablaの入口がある。
左折してKannat Tablaに入り、1km程道なりに進むと左手に「黒木大隊慰霊碑」があり、「慰霊碑」と「四年式十五糎榴弾砲」がある。

或いは、MSGR.Guerrero Rd.(31号線)をKannat Tablaの入口から更に300m程進むと左手にTanduki Dr.の入口がある。

左折してTanduki Dr.に入り、道なりに進むとKannat Tablaに出るので、右折する。Kannat Tablaを道なりに進むと左手に「黒木大隊慰霊碑」がある。

MSGR Guerrero Rd.(31号線)をTanduki Dr.の入口から更に300m程進むと左手に大きな「教会」がある。ここまで来ると行き過ぎである。

「黒木大隊慰霊碑」は私有地となっており、普段は鍵が掛けられているようである。無断で立入ってはいけない。

南郷神社跡

「黒木大隊慰霊碑」の近くはところどころに民家が立つ閑静な住宅地となっているが、「慰霊碑」から少し奥に行ったところに「南郷神社跡」が遺されている。

「神社跡」は完全に崩れて草に埋もれているが、よく見るとその痕跡を見ることができる。
写真中央の左右に細長い石は神社正面の「石段」であり、左側に倒れているのは「鳥居」の上部である。

「石段」の脇には「灯篭」がある。途中で崩れて傘の部分が横に置かれている。

「灯篭」の中の空洞部分には不発弾が入れられていた。この辺りは近くの民家の子供たちの遊び場となっているようであり、子供たちがこの付近で発見した不発弾をここに入れたのかもしれない。サイパン島には博物館だけでなく、山中にもこのような不発弾が未だに多く残されている。サイパン島での戦闘がいかに激戦であったかを物語っている。

正面の「石段」は山の中の方へ続いている。現在は完全に森に埋もれてしまっているが、「石段」の右手から「獣道」が続いており、上に登ることができる。

南郷神社跡南郷神社跡急な斜面を2,3分ほど登ると、「洞窟」が見ある。「洞窟」は奥行きは無いが、天井は高く、広い。

この「洞窟」には昭和19年(1944年)6月14日夜~19日まで第四三師団戦闘司令所が置かれていた。しかし、19日には米軍の艦砲射撃がこの「洞窟」を直撃し司令部要員に多数の戦死者がでた。
また、黒木大隊の戦闘司令所も、ここから谷を挟んだ丘に置かれていた。

「洞窟」の奥には「石段」があり、「本殿」のようになっている。かつてはここに「南郷神社」の御神体が設置されていたのであろうか。

「南郷神社跡」の歩き方


「黒木大隊慰霊碑」からKannat Tabla通りをさらに200m程進むと、右手に小さな「教会(United Church of Christ Pohnpei Saipan)」がある。

この「教会の」すぐ左に「門」があり、コテージのような建物の並ぶ「住宅地」に入る道がある。

この道を入って100m程進むと「十字路」に出るので、ここを右折する。

左手には芝生の「広場」があるが、「広場」を回り込むように道なりに左にカーブする。

南郷神社跡南郷神社跡カーブを曲がってから100m程進む道が二手に分かれる「分岐」があるので、ここを左折する。

「分岐」から50m程進むと芝生の「広場」のようなところで行き止まりになるように見えるが、この「広場」の奥の草むらに、徒歩で入れる「獣道」がある。

「獣道」の入口↑
「獣道」を100m程進むと、左手に神社正面の「石段」がある。「石段」を上がり、山の斜面を登っていくと「洞窟」がある。

タッポーチョ山(Mt.Tapochao)

サイパン島の中央に標高473mの「タッポーチョ山(Mt.Tapochao)」がある。
タッポーチョ山タッポーチョ山サイパン島南部の「サイパン国際空港」上空から「タッポーチョ山」を見る。(写真①)

「タッポーチョ山」はサイパン島最高峰であり、制高点として重要な場所であった。また、周囲を幾つかの高地に囲まれ、サイパン島を南部と北部に分断している為、防衛上の要衝でもあった。結果、サイパン島に於ける戦闘では、日本軍守備隊と米軍部隊との間で激しい戦闘が繰り広げられた。

「タッポーチョ山」の写真とその撮影場所は左の地図の番号と対応している。

サイパン島西部の「マウントカーメル教会」付近から「タッポーチョ山」(左の高い峰)を見る。(写真②)
その右の峰は「192高地」である。「192高地」の手前(「163高地」付近)には黒木大隊の放列(砲兵陣地)が敷かれ、この付近(オレアイ海岸・チャランカノア海岸)に上陸した米軍部隊に対して砲撃を行った。

サイパン島南部のナフタン半島付近から「タッポーチョ山」(右の高い峰)を見る。(写真③)
左端の峰が「163高地」、右端の峰が「192高地」。

昭和19年(1944年)6月21日~30日、この一帯は、「タッポーチョ山」を死守しようとする日本軍守備隊と麓から攻め寄せる米軍部隊との間に激しい戦闘が行われた。

特に、「タッポーチョ山」東側の「192高地」「268高地」に挟まれる谷間では、日本軍守備隊は天然の洞くつや山の斜面を利用し、米軍に対して頑強な抵抗を行った。結果、この場所を攻撃した米軍(第27歩兵師団)は大きな損害を出した。後に、米軍はこの谷間を「死の谷(Death Vally)」と呼び、「192高地」「268高地」と連なる峰を「パープル・ハート・リッジ(戦傷章の峰)」と呼んだ。

サイパン島中部のキャピトル・ヒル付近から「タッポーチョ山」(右端の高い峰)を見る。(写真④)
直ぐ左の峰が「268高地」である。「268高地」と直ぐ南の「192高地」では、日本軍守備隊は頑強な抵抗を行った。後に米軍は「パープル・ハート・リッジ(戦傷章の峰)」と呼んだ。左端には「ラウラウ湾」を挟んでナフタン半島が見える。

「タッポーチョ山」の山頂。
「展望台」になっており、サイパン島南部に面した場所にはサイパン島での戦闘経過を説明する看板が建てられている。

タッポーチョ山タッポーチョ山山頂から南側を見る。(写真⑤)
直ぐ正面に「163高地」、その先には「ラウラウ湾」を挟んでナフタン半島が見える。

山頂から東側を見る。(写真⑥)
手前は「パープル・ハート・リッジ」と「死の谷」、奥にはカグマン半島が見える。

「タッポーチョ山」一帯の戦闘では、日本軍守備隊と米軍との間に激しい戦闘が行われた。
日本軍守備隊には満足な陣地・兵器は無かった。併しながら、日本軍守備隊は、爆薬を抱いて米軍戦車に飛び込む等、正に鬼神を哭かせるような奮戦を行なった。

「タッポーチョ山(Mt.Tapochao)」の歩き方


ガラパン市街からミドルロード(Chalan Pale Arnold Rd. 30号線)を北上する。
「サイパン港」付近の「T字路」を右折し、クロス・アイランド・ロード(Isa Dr. 31号線)を山の方へ登っていく。

南郷神社跡南郷神社跡「T字路」から途中ヘアピンカーブなどがありつつ1.9km程山を登ったところに、左手に鋭角に曲がる「分岐」がある。
(「日本軍無線局跡」へ通じるSavana Rd.への「分岐」である。)

この「分岐」を超えて更に400m程進むとCapitol Hill Rd.(312号線)との「十字路」がある。
(写真右:Capitol Hill Rd.との「十字路」 →)
「十字路」を右折しCapitol Hill Rd.(312号線)に入って道なりに700m程進むとTapochau Rd.と交差するので右折してTapochau Rd.に入る。

Tapochau Rd.を道なりに進んで行くと「タッポーチョ山」の山頂まで行くことが出来る。
Tapochau Rd.は未舗装で、所々に大きな段差や道路の陥没があるので注意が必要である。

Tapochau Rd.へはNavy Hill Rd.(38号線)からも行ける様である。
「アメリカンメモリアルパーク」(ガラパン市街)前の道を山の方に向うとNavy Hill Rd.(38号線)に入る事が出来る。Navy Hill Rd.(38号線)を道なりに進んで行くとTapochau Rd.に突き当たるので、これを右折すると「タッポーチョ山」の山頂まで行くことが出来る。

山頂には「展望台」がある。手前に駐車場があり、ここから「展望台」までは階段がある。

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