チャランカノア海岸の戦跡一覧
マウントカーメル教会
チャランカノア海岸の北部、「ススペ湖」の西に「マウントカーメル教会(Mount Carmel Church)」がある。
「マウントカーメル教会」は、スペイン統治時代に建立されたキリスト教(カトリック)の教会であり、当時はサイパン島で最大の教会であった。
日本統治時代には、近くに「南洋興発サイパン製糖工場」「南興神社」が建てられた。
昭和19年(1944年)6月、サイパン島に侵攻した米軍の攻撃によって「教会」は破壊された。
マウントカーメル教会マウントカーメル教会戦後の昭和24年(1949年)、現地人の協力によって「南洋興発サイパン製糖工場」の跡地に再建され、現在に至る。
昭和50年(1975年)、アメリカと北マリアナ諸島との連邦誓約はここで行われた。また、昭和59年(1984年)、ローマ法王 (ヨハネ・パウロ2世)により北マリアナ諸島連邦のカトリック教会を統括する「大聖堂」として格上げされた。
建物の内装はミクロネシア風ではなくて、ヨーロッパ風になっている。
「大聖堂」では日曜日になるとミサが行われ、英語・チャモロ語・タガログ語とそれぞれの言語ごとに3回行われる。
日本統治時代、「マウントカーメル教会」の側にあった墓地。
マウントカーメル教会マウントカーメル教会墓地にはキリスト教式の墓や日本式の墓が見える。また、キリスト像と十字架が祀られていた。日本人と現地人が同じ場所に暮らし、同じ場所に葬られていた事が分かる。
しかし、平和な生活は米軍の侵攻によって破壊された。
廃虚となった墓地で祈りを捧げる米兵。自分たちの信ずる神であるキリスト像を破壊した事を悔いているのだろうか。
キリスト像には弾痕が多数見える。
「INRI」(稲荷)と書かれているのがわかる。日本統治時代、近くには南洋興発の建立した「南興神社」があった。商売繁盛の神様であるお稲荷様が祭られていたのだろうか。
このキリスト像は、現在は失われているが、「マウントカーメル教会」の墓地(「南興神社跡」)に再建された。現在も「INRI」と書かれているのが興味深い。
「マウントカーメル教会」の歩き方
「ススペ湖」の西である。
「サイパングランドホテル」と 「サイパンワールドリゾート」のある場所からからビーチロード(Beach Rd.33号線)を南下する。
ビーチロード(Beach Rd.33号線)が大きく曲がっている場所のから更に300m程南下すると、「十字路」がある。
「十字路」の左奥(南東)に「マウントカーメル教会」がある。
「マウントカーメル教会」の北側と南側の「駐車場」がある。また、「マウントカーメル教会」の向かい(西側・海側)に「大型商業施設」があり、ここにも「駐車場」がある。
これらの「駐車場」は無料である。
入場料:無料
開館時間:06:00-18:00
休業日:年中無休
住所:Mt. Carmel Rectory, Chalan Kanoa
電話:(670) 234-8888
(2009年現在)
慰霊碑
「マウントカーメル教会」の側に「慰霊碑」が複数建てられている。
「慰霊碑」は「マウントカーメル教会」の向かいの交差点の一角にひっそりと集まっている。
「岐阜歩兵第百三十六聯隊戦没者鎮魂碑」「歩兵第十八連隊戦没者慰霊碑」「戦没日本人之碑」「大東亜戦戦没者殉難鎮魂碑」が建てられている。
現在でも花や供物が供えられている。戦没者への慰霊の気持ちを失ってはならない。
「岐阜歩兵第百三十六聯隊戦没者鎮魂碑」
歩兵百三六連隊(連隊長:小川雪松大佐)は、中地区隊としてオレアイ海岸に布陣した。昭和19年(1944年)6月15日、米軍がオレアイ海岸・チャランカノア海岸に上陸した。歩兵百三六連隊は未完成の水際陣地で奮戦、夜には大規模な逆襲も行った。
「歩兵第十八連隊戦没者慰霊碑」
歩兵第十八連隊は、輸送途中に半数以上が海没、連隊本部・第二大隊・第三大隊はグアム島に移動し、第一大隊・衛生隊(合計約250名)がサイパン島で戦った。衛生隊長は大場栄大尉であった。
「戦没日本人之碑」
直ぐ側には「個人の慰霊碑」が建てられている。米軍の攻撃によって一家が全滅したのであろうか。
また、「物質の富は亡びる時あるも 心の富は無限なり」と刻まれた「碑」がある。現代を生きる我々はこの言葉のをしっかりと受け止めねばならないだろう。
「大東亜戦戦没者殉難鎮魂碑」
碑文がコンクリートで埋められ、読みにくくなってる。反日勢力の仕業であろうか。
いかなる場合においても死者に対する冒涜は許されるものではない。
「慰霊碑」の歩き方
「ススペ湖」の西である。
「サイパングランドホテル」と 「サイパンワールドリゾート」のある場所からからビーチロード(Beach Rd.33号線)を南下する。
ビーチロード(Beach Rd.33号線)が大きく曲がっている場所のから更に300m程南下すると、「十字路」がある。
この「十字路」の北東の角である。
また、この「十字路」の南東には「マウントカーメル教会」がある。
製糖工場建物跡
現在の「マウントカーメル教会」の場所には、日本統治時代、「南洋興発サイパン製糖工場」があった。
大正12年(1923年)3月10日、チャランカノアに「南洋興発サイパン製糖工場」が竣工され、南洋興発によるサイパン島の製糖業が開始された。
併しながら、害虫や干ばつの影響によって初年度と第二年度の操業は振るわず、南洋興発は資金難に陥った。これに対して初代社長の松江春次は私財を投げ打って問題解決に取組んだ。
この苦労が実を結び、第三年度には生産量は8937トン(歩溜り7.9%)を達成、経営はようやく軌道に乗った。
現地人であるチャモロ人やカロリニアン人(カナカ人)は、松江春次の不屈の信念を見て感激し、製糖事業に積極的に協力した。
大正16年(1926年)には「サイパン酒精工場」が竣工した。
「サイパン酒精工場」では、砂糖精製工程の副産物からアルコールを精製し、合成酒を製造した。合成酒にはポートワインやスコッチウイスキーがあり、当時、ウイスキーの銘柄には「南十字星」「かちどき」があったという。これ等は日本本土にも出荷された。
併しながら、昭和19年(1944年)2月13日、サイパン島・テニアン島に対して米軍艦載機が初めて来襲し、空襲を行った。
以後、サイパン島の防備強化が急がれたが、「製糖工場」でも周囲に土嚢を積んで防弾壁とした。この時に用いた土嚢の中身は精製途中の粗糖であり、隙間からこぼれる粗糖は、当時、甘みに飢えていた兵士にとって良い贈り物になったという。
サイパン島の防備強化に伴い、「製糖工場」の北にあるオレアイ海岸沿いの道路を滑走路に改修し、「オレアイ飛行場」を建設する工事が開始された。
この作業には、南洋興発社員も大勢協力し、また、サイパン島北部の「バナデル飛行場」にも多数の南洋興発社員が建設作業に協力した。
その為、南洋興発の業務は事実上停止、「製糖工場」のシンボルであった4本の煙突から昇る煙も消えた。
昭和19年(1944年)6月11日、米軍艦載機による空襲が開始された。米軍によるサイパン島侵攻が開始されたのである。13日09時30分には艦砲射撃も開始された。
これ等の米軍の攻撃によって「製糖工場」は大きな損傷を受け、サトウキビ運搬用の軽便鉄道のレールも破壊された。
昭和19年(1944年)6月15日、遂に米軍はサイパン島への上陸を開始、「製糖工場」から目と鼻の先にあるチャランカノア海岸にも米軍が上陸した。
特に、「製糖工場」の直ぐ西側の「興発桟橋」周辺の海岸(Green 2・Green 3・Blue 1)には第8海兵連隊・第23海兵連隊が上陸、この付近に布陣していた独立歩兵第三一六大隊(江藤大隊)は必死の防戦に努めたものの、圧倒的な兵力・火力をもって押寄せる米軍部隊に対して抗し切れず、遂に上陸を許してしまった。
上陸した米軍はじりじりと内陸に前進した。チャランカノアの町も「製糖工場」も米軍の攻撃によって見るも無残に破壊され、繁栄を誇ったサイパン島の製糖業も米軍に踏みにじられた。
「マウントカーメル教会」の裏に「製糖工場建物跡」が遺されている。
「南洋興発サイパン製糖工場」の何らかの「建物跡」であるが、詳細不明である。
「製糖工場建物跡」は、「マウントカーメル教会」に付属する「マウントカーメル高校」の敷地内にある。
現在は「マウントカーメル高校」の倉庫として利用されているようである。奇跡的に米軍の攻撃を免れたのだろうか。
「製糖工場建物跡」の歩き方
「ススペ湖」の西である。
「サイパングランドホテル」と 「サイパンワールドリゾート」のある場所からからビーチロード(Beach Rd.33号線)を南下する。
製糖工場建物跡製糖工場建物跡ビーチロード(Beach Rd.33号線)が大きく曲がっている場所のから更に300m程南下すると、「十字路」がある。
「十字路」の左奥(南東)に「マウントカーメル教会」がある。「マウントカーメル教会」の裏(東側)に「マウントカーメル高校」がある。
「マウントカーメル高校」の敷地内に「製糖工場建物跡」があり、「マウントカーメル教会」の裏からフェンス越しに見える。
「マウントカーメル高校」の敷地内に無断で立入ってはいけない。
南興神社跡
「マウントカーメル教会」の墓地には嘗て「南興神社」があった。現在も「南興神社」の「鳥居」や「灯篭」が遺されている。
「南興神社」は、昭和12年(1937年)11月29日、南洋興発株式会社の初代社長である松江春次によって創建された。
祭神は「天照大神」「大国主神」「経津主神」「罔像女神」であった。
「鳥居」には「昭和十二年長月吉日 奉寄進 松江春次」と彫られている。
大正10年(1921年)11月29日、松江春次は南洋興発株式会社を設立、日本の委任統治領であった南洋群島に於いて、製糖業等の事業を大規模に展開した。サイパン島に於いても製糖業・酒造業等を興し、そこから得られた利益は、サイパン島の発展に大きく寄与した。その為、日本人のみならず現地人からも尊敬され、現在も「砂糖王(シュガーキング)」と呼ばれている。
ガラパン市街にある「砂糖王公園」には、今も「松江春次の銅像」が遺されている。
墓地の敷地に遺される「灯篭」。
「南興神社」の「本殿」にはキリスト像と十字架が祀られている。キリスト像の上には「INRI」(稲荷)と書かれている。嘗て「本殿」にはお稲荷さんが祀られていたのだろうか。
キリスト像の前には「マウントカーメル教会」の歴代のファザーとシスターの墓石がある。
キリスト教の墓地に「鳥居」「灯篭」が並び、お稲荷さんを祀った「本殿」にキリスト像と十字架が祀られている。この不思議な光景はサイパン島の歴史を物語っている。
「南興神社跡」の歩き方
「ススペ湖」の西である。
「サイパングランドホテル」と 「サイパンワールドリゾート」のある場所からビーチロード(Beach Rd.33号線)を南下する。
南興神社跡南興神社跡ビーチロード(Beach Rd.33号線)が大きく曲がっている場所のから更に300m程南下すると、「十字路」がある。
「十字路」の左奥(南東)に「マウントカーメル教会」がある。「マウントカーメル教会」の裏(南東側)に「墓地」がある。
「墓地」の中央には、西(海側)から東(陸側)に通路がある。
この通路を挟んだ左右(南北)が「南興神社敷地跡」である。通路の左右の墓石の間にに「灯篭」(4基)と「鳥居」(1基)がある。
通路を進むと「本殿跡」がある。「本殿跡」に「灯篭」(2基)とキリスト像・十字架がある。
シュガードック(興発桟橋跡)・灯篭
「マウントカーメル教会」の西の海岸に「シュガードック(Suger Dock)」と呼ばれる「桟橋」が遺されている。
「シュガードック」は日本統治時代に「興発桟橋」と呼ばれており、南洋興発が建設した。
当時は、内陸(東側)にある「南洋興発サイパン製糖所」から軽便鉄道の線路が延びており、生産された砂糖は「興発桟橋」から船積みされた。
昭和19年(1944年)6月15日朝、この海岸に米軍(第23海兵連隊)が殺到した。
写真左は現在の「シュガードック」である。
写真右は昭和19年(1944年)、上陸直前に米軍が撮影した「興発桟橋」である。
米軍は、「興発桟橋」の南側をBlue 1、北側をGreen 3と呼称した。
米軍上陸後の「興発桟橋」。
後ろに見える「製糖工場」は米軍の攻撃によって破壊されている。
周辺の海岸には独立歩兵第三一六大隊(江藤大隊)が水際陣地を構築して布陣し、必死の防戦に努めた。
しかし、江藤大隊は米軍との戦闘によって壊滅した。
現在、「サイパングランドホテル」の敷地内に「江藤大隊慰霊碑」がある。
「シュガードック」の途中は米軍の攻撃によって大きく損傷した。現在は鉄板が渡してある。
「シュガードック」の袂の北側の砂浜に「石材」が遺されている。
加工された「石材」や、コンクリートで固めて鉄骨が取付けられた「石材」もある。「興発桟橋」で使用されていた「石材」であろうか。
「シュガードック」の袂の南側の砂浜に「モニュメント」がある。
漁師と海で命を落とした人に捧げる為の「モニュメント」である。マリア像が祀られている。
「モニュメント」の横に「灯篭」が遺されている。
「灯篭」は半分埋まっているが、上下逆さまになっているのが分かる。
ここから近い「南興神社」の「灯篭」をオブジェとして置いたのだろうか。
「シュガードック(興発桟橋跡)」「灯篭」の歩き方
「ススペ湖」の西である。
「サイパングランドホテル」と 「サイパンワールドリゾート」のある場所からビーチロード(Beach Rd.33号線)を南下する。
シュガードック(興発桟橋跡)・灯篭シュガードック(興発桟橋跡)・灯篭ビーチロード(Beach Rd.33号線)が大きく曲がっている場所のから更に300m程南下すると、「十字路」がある。
この「十字路」を右折して海側(西側)に進む。
海側に進むと「シュガードック」がある。
「シュガードック」の袂の海に向かってに向かって左側(南側)に「モニュメント」がある。「モニュメント」の横に「灯篭」がある。
「シュガードック」の袂の海に向かってに向かって右側(北側)の砂浜に「石材」が幾つかある。