サン・ホセ市街周辺

サン・ホセ市街周辺の戦跡一覧

大東亜戦争におけるテニアン島の歴史
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韓国人慰霊碑、洞窟

サン・ホセ市街の北部、「8番街(8th Ave.)」沿いに「KOREAN MEMORIAL」と呼ばれる場所がある。

戦後に韓国人によって建てられた「韓国人慰霊碑」がある。

「韓国人慰霊碑」である。
「碑」が建てられた当時は、韓国でもまだ漢字が用いられていたようである。

「韓国人慰霊碑」から奥に進むと「洞窟」がある。
この「洞窟」は現在は教会の礼拝堂になっており、テントとベンチが置かれている。

「洞窟」には「マリア像」が置かれている。
この「洞窟」は奥行きは3m程であるが、横幅8m程・高さ4m程と比較的広い。
テニアン島の戦闘に於いては、日本軍の野戦病院として使用されたとの記録もあり、奥には人工的に掘った部分もある。

韓国人慰霊碑、洞窟韓国人慰霊碑、洞窟付近にはもう1つ「洞窟」がある。
「洞窟」の前には大きな「十字架」が建てられている。

この「洞窟」は「マリア像のある洞窟」に比べると小さい。こちらも奥行き2m程である。

この「洞窟」も、テニアン島の戦闘に於いて、野戦病院や民間人の避難場所として使用されたようである。内部には朽ちた靴やガラス瓶などが散乱しているが、当時の物であるかは不明である。

「火葬場跡」が遺されている。
レンガ製の「炉」が藪に覆われて遺されている。

日本統治時代はこの一帯は「火葬場」であった。

「無縁塔」が遺されている。

戦後に建てられたのか、日本統治時代に建てられたのかは不明であるが、近くに日本統治時代の「火葬場跡」が遺されている事から考えると、この「無縁塔」も日本統治時代に建てられたのではないだろうか。

「韓国人慰霊碑、洞窟」の歩き方
サン・ホセ市街の北部にある。
「テニアン空港」のターミナルを出て「ブロードウェイ」に出たら右折して真っ直ぐ南へ進む。

「ブロードウェイ」を約1.5km南下すると「十字路」がある。この「十字路」を越えて真っ直ぐ進む。

やがて「ブロードウェイ」が下りになり、下りきると右側(西側)にサン・ホセ市街が見えてくる。 先ほどの「十字路」から約900m南下した所に新たな「十字路」がある。

この「十字路」を右に曲がり、道なりに進んで行くとサン・ホセ市街に入っていく。
道なりに進むと、左手に「サン・ホセ教会の鐘楼」が見えるあたりで道が左に曲がっている。そのまま道なりに進む。

更に進むと「五叉路」がある。「五叉路」を鋭角に右に曲がり「8番街(8th Ave.)」に入り800m程進むと右手に「北マリアナ大学」への道と「駐車場」がある。

ここから更に200m程進むと、右手に「KOREAN MEMORIAL」の「看板」がある。

「8番街(8th Ave.)」を南下してサン・ホセ市街に入る場合は、道路左手に「KOREAN MEMORIAL」の「看板」がある。

サン・ホセ市街(旧テニアン町)

昭和19年(1944年)3月~6月のテニアン町である。

米軍偵察機が撮影した空撮写真である。
まだ米軍の空襲は受けておらず、米軍上陸直前のテニアン町の様子がよく分かる。

町を東西に走る「スズラン通」を挟んで整然と区画されている。
町の南東(写真右側)には官公庁・商店が並び、北西側(写真左)は「テニアン製糖工場」「専習学校」等の南洋興発の施設・設備がある。

この時のテニアン町の人口は約1万5千人であった。

平成18年(2006年)1月のサン・ホセ市街である。

現在も旧テニアン町の道路がほぼそのまま使われているのが分かる。
北から斜めに市街地に入る道は、米軍によって「8番街(8th Ave.)」として整備され、「旧スズラン通」まで延長され、「五叉路」が出来ている。

また、「支庁桟橋」と「興発桟橋」の間は埋め立てられて岸壁が整備されている。

南洋興発の工場・施設・設備は失われている。

人口は約3000人であり、旧テニアン町と比較すると市街地の面積や家屋数は減っている。

「サン・ホセ市街(旧テニアン町)」の歩き方
「テニアン空港」のターミナルを出て「ブロードウェイ」に出たら右折して真っ直ぐ南へ進む。
「ブロードウェイ」を約1.5km南下すると「十字路」がある。この「十字路」を越えて真っ直ぐ進む。

サン・ホセ市街(旧テニアン町)サン・ホセ市街(旧テニアン町)やがて「ブロードウェイ」が下りになり、下りきると右側(西側)にサン・ホセ市街が見えてくる。 先ほどの「十字路」から約900m南下した所に「十字路」がある。この「十字路」を右折し、道なりに進むとサン・ホセ市街に入る。

「8番街(8th Ave.)」からサン・ホセ市街に入るには、「テニアン空港」から「「ブロードウェイ」」を約1.5km南下した「十字路」を右折して真っ直ぐ西へ進む。1.7km程西に進むと、道が右に折れた後、大きく左にカーブしながら下っていく。下りきると大きな舗装道路と交差する「十字路」がある。この舗装道路が「8番街(8th Ave.)」なので、「十字路」を左折し、道なりに進むと「サン・ホセ市街」に入る。

サン・ホセ教会の鐘楼(ベルタワー)

サン・ホセ市街にある「サン・ホセ教会」には「スペイン統治時代の鐘楼(ベルタワー)」が遺されている。

日本統治時代には、この周辺に「天仁安(テニアン)神社」が建てられたが、米軍の攻撃によって失われた。現在、「鐘楼」の側に「鳥居の土台」が遺されているのみである。

「鐘楼」は現在ではサン・ホセ市街のシンボルとして保存されている。
米軍の攻撃による弾痕が多数遺されている。

同様に、サイパン島のガラパン市街の「ガラパン教会」にも、「スペイン統治時代の鐘楼(ベルタワー)」が遺されている。

「サン・ホセ教会の鐘楼(ベルタワー)」の歩き方
サン・ホセ教会の鐘楼(ベルタワー)サン・ホセ教会の鐘楼(ベルタワー)サン・ホセ市街にある。
「ブロードウェイ」を下った「十字路」を右折してサン・ホセ市街に入る。

道なりに950m程進むと、左手に「サン・ホセ教会の鐘楼」が見え、道が左に曲がっている。
そのまま道なりに進むと左側に「サン・ホセ教会」の敷地に入る道がある。

または、「8番街(8th Ave.)」の「五叉路」から北に260m程進むと、右手に「サン・ホセ教会の鐘楼」がある。

テニアン町建物跡

「南洋庁サイパン支庁テニアン出張所跡」が遺されている。
現在は藪に覆われてしまい、建物の様子はよくわからない。「南洋庁サイパン支庁テニアン出張所」は昭和8年(1933年)に設置された。
警察署と留置場が併設されていた為、現在では「刑務所跡」と誤って伝えられている。

「南洋庁サイパン支庁テニアン出張所跡」の向かいの民家の庭には「防空壕跡」が遺されている。

「テニアン町警防団本部跡」が遺されている。
「建物」は正面の外壁以外は殆ど骨組みだけになっている。屋根も失われている。

正面の外壁には「テニアン町警防団本部」を示す文字が遺されている。外壁に浮き彫りで彫られた文字は一部剥げている現在でもはっきりと読める。

また、外壁には多数の弾痕があり、テニアン町での戦闘の激しさを伺わせる。

「テニアン町消防団跡」が遺されている。
現在は倉庫として使用されているようである。比較的損傷が少ない。

正面の外壁には「テニアン町消防団」を示す文字が遺されている。
外壁に浮き彫りで彫られた文字は一部剥げているが、現在でもはっきりと読める。

「テニアン町消防団跡」の前の道は、当時は「スズラン通」と呼ばれるメインストリートであり、日本統治時代はこの一帯がテニアン町の中心地であった。

「テニアン町建物跡」の歩き方
サン・ホセ市街にある。
「ブロードウェイ」を下った「十字路」を右折してサン・ホセ市街に入る。

「サン・ホセ教会の鐘楼」を過ぎて「8番街(8th Ave.)」の「五叉路」を左折する。

300m程(「旧スズラン通」を)進むと「十字路」がある。この「十字路」の左手前に「南洋庁サイパン支庁テニアン出張所跡」がある。
この「十字路」を左折し、1つ目の辻を左に曲がった先の右手に「テニアン町警防団本部跡」がある。

先ほどの「十字路」から2つ目の辻の左手前に「防空壕跡のある民家」がある。「防空壕跡」は民家の敷地内にあるので無断で立ち入ってはいけない。この2つ目の辻を左に曲がった先の左手に「テニアン町警防団本部跡」がある。

専習学校敷地跡の碑、コンクリート製構造物

「専習学校敷地跡の碑」が遺されている。

昭和13年(1938年)、テニアン町に「南洋興発株式会社附属専習学校」が創設された。

「専習学校敷地跡の碑」の裏側一帯の藪が「専習学校校舎跡地」である。「専習学校グラウンド跡地」は「碑」に向かって左側である。

「専習学校敷地跡の碑」の近くに「コンクリート製建造物」が遺されている。
円柱形をしており、弾痕のような穴が開いている。藪に覆われており、詳細不明である。

「専習学校敷地跡の碑、コンクリート製構造物」の歩き方
専習学校敷地跡の碑、コンクリート製構造物専習学校敷地跡の碑、コンクリート製構造物サン・ホセ市街にある。
「ブロードウェイ」を下った「十字路」を右折してサン・ホセ市街に入る。

「サン・ホセ教会の鐘楼」を過ぎて「8番街(8th Ave.)」の「五叉路」を右折する。

約600m進むとT字路があるので右折する。
「南洋興発工場事務所跡」の少し先である。

T字路を右折して200m程進むと、右手に「専習学校敷地跡の碑」がある。
「専習学校敷地跡の碑」から更に進むと道が直角に曲がっている。道なりに右折して進むと左手の藪の中に「コンクリート製建造物」がある。

タガ遺跡(TAGA HOUSE)の石碑、日本人慰霊碑

マリアナ諸島には原住民であるチャモロ人が独自の石器文化を持っていた。
マリアナ諸島の島々にはそれを伝えるタガ遺跡(ラッテ・ストーン)が遺され、石で造られた建築物を見ることが出来る。

テニアン島にも、現在、サン・ホセ市街に「HOUSE OF TAGA」と呼ばれるタガ遺跡が遺されている。

これは古代のチャモロ人酋長の住居跡と言われている。この遺跡は日本統治時代にも公園として保存されていた。

「HOUSE OF TAGA」の側には、昭和13年(1938年)12月、南洋庁サイパン支局テニアン出張所が建てた「石碑」が遺されている。

「石碑」には以下のように刻まれている。風化によって一部判読困難になっている。

此ノ石柱ハタガ族ノ遺跡ト称セラレ建築年代審ラカナラザルモ文献ニ依レバ西暦一五六五年(今ヨリ三七三年前)西班牙ノ史家ミクルロベス・ラ・グスピ発見ス
当時ハ六基家二列ニ並立セルモ一七四ニ年ニ二基、一八五五年ニ一基、一九〇〇年ニ四基、一九〇ニ年ニ三基倒覆シ現在二基定立ス、此ノ石柱ハ南太平洋中*イス*ル島ニ在ルモノニ類似シ倒覆ハ台風、地震ニ因ルト**ラル
此ノ石柱ニ就イテハ古来家屋説、墓地説、斎庭説等ノ諸説アリ
昭和十三年一月二十一日テニアン町美化委員会ニ於イテ並立スル石柱二基ノ周囲横八尺、縦九尺、深サ二尺ヲ夫々混凝土ヲ以ッテ打固メ基礎ニ作ヲ施シタリ又敷地ノ入口並ビニ四ツ角ノ小石柱六基ハカロリナス、二本椰子、マルポ池付近ノ林中ニ在リンモノヲ搬出シ据付ケタルモノナリ
因ニ基礎工事ノ際石柱ノ周囲ヨリ土化セル人骨(数体)ヲ発掘シ石柱ノ付近ニ埋設セリ
                                       昭和十三年十二月
                                            南洋庁サイパン支局テニアン出張所

「タガ遺跡(HOUSE OF TAGA)」の近くには「日本人慰霊碑」が建てられている。

「松本歩兵第五十連隊戦没者慰霊之碑」「テニアン島戦没者慰霊碑」等、多数の「慰霊碑」が建てられている。

「日本人之墓」と彫られた「碑」が遺されている。

この「碑」は日本統治時代に建てられたと思われるが、詳細は不明である。

「タガ遺跡(TAGA HOUSE)の石碑、日本人慰霊碑」の歩き方
タガ遺跡(TAGA HOUSE)の石碑、日本人慰霊碑タガ遺跡(TAGA HOUSE)の石碑、日本人慰霊碑サン・ホセ市街にある。
「ブロードウェイ」を下った「十字路」を右折してサン・ホセ市街に入る。

「サン・ホセ教会の鐘楼」を過ぎて「8番街(8th Ave.)」の「五叉路」を直進する。

約200m進むと「十字路」がある。ここを左折すると左手に「日本人慰霊碑」がある。
更に進むと、左手に「タガ遺跡(HOUSE OF TAGA)」がある。「タガ遺跡(HOUSE OF TAGA)」の側に「タガ遺跡の石碑」がある。

「タガ遺跡(HOUSE OF TAGA)」の向かいには「水産組合事務所跡」がある。

水産組合事務所跡、航空機の発動機、プロペラ

「タガ遺跡(HOUSE OF TAGA)」の向かいに「水産組合事務所跡」が遺されている。

日本統治時代、ここに水産組合の事務所があり、事務所跡の反対側は海であった。現在は一部岸壁が整備され、当時より海は遠のいている。

「事務所跡」の壁には、被弾痕や被弾によると思われる破孔が幾つか見られる。
テニアン町での、米軍による攻撃の激しさがよく分かる。

「水産組合事務所跡」の側には「航空機の発動機」が遺されている。

空冷の星型気筒のエンジンであるが、型式等は不明である。

「航空機の発動機」の側には「航空機のプロペラ」が遺されている。

3翔プロペラで、ピッチ変更の遊星ギアが装着されているのが分かる。形式等は不明である。

「水産組合事務所跡、航空機の発動機、プロペラ」の歩き方
サン・ホセ市街にある。
「ブロードウェイ」を下った「十字路」を右折してサン・ホセ市街に入る。

「サン・ホセ教会の鐘楼」を過ぎて「8番街(8th Ave.)」の「五叉路」を直進する。

約200m進むと「十字路」がある。ここを左折して進むと左手に「タガ遺跡(HOUSE OF TAGA)」が見えてくる。

「タガ遺跡(HOUSE OF TAGA)」の少し手前の右手に「水産組合事務所跡」がある。
「事務所跡」の側に「航空機の発動機・プロペラ」がある。

南洋興発研究所跡

サン・ホセ市街に「南洋興発工場事務所跡」が遺されている。

「事務所跡」は1階平屋の造りである。
外壁や入口のアーチは以外は失われ、屋根も無くなっている。

昭和5年(1930年)、この場所一帯に1日1200tの生産能力を持つ「南洋興発テニアン精糖工場」が建設された。また、その周辺には関連の施設・設備や、工場従業員の社宅が整備された。

「事務所跡」の隣、やや道路より奥(海側)にもう1つ「建物跡」が遺されている。

この「建物跡」は2階建てである。
2階の窓にはパイナップルを模したレリーフが彫られている。

当時、「事務所」の隣には「糖度分析所」が建てられていた。この「建物跡」が「糖度分析所」か「事務所」の別棟かは不明である。

「建物跡」の外には2階に上がる階段がある。

道路の反対側(海側)から階段を上がる事ができる。手すりは曲線的にデザインされている。工場の受付として、来客を意識した造りであろうか。

「建物跡」の2階は屋根が失われている。

窓は大きく、道路の反対側(海側)の藪が見える。現在は藪に覆われているこの一帯に「南洋興発テニアン精糖工場」があった。

「事務所跡」「建物跡」の側には「記念碑」が建てられているが、藪に覆われてしまっている。

テニアン島では定期的に戦跡周辺の除草を行っているようであるが、時期によってはこのように再び藪に覆われてしまうようである。

「事務所跡」「建物跡」からサン・ホセ市街の中心地(南東)を見る。
当時は右手前の電柱から先の道路右側(海側)一帯が南洋興発の「機関車操車場」であった。現在は藪に覆われている。

「南洋興発研究所跡」の歩き方
南洋興発研究所跡南洋興発研究所跡サン・ホセ市街にある。
「ブロードウェイ」を下った「十字路」を右折してサン・ホセ市街に入る。

「サン・ホセ教会の鐘楼」を過ぎて「8番街(8th Ave.)」の「五叉路」を右折する。

550m程進むと左手に「南洋興発工場事務所跡」がある。手前には「記念碑」がある。

「南洋興発工場事務所跡」の手前300m程から、道路左側(海側)一帯が南洋興発の「機関車操車場」であった。

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