バリ島南部

大東亜戦争におけるバリ島の歴史
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バリ島南部の戦跡一覧

三浦襄翁の墓

デンパサール市街地の西側に、バリ島の人々から「バリの父」と慕われた三浦襄の墓がある。

三浦は、戦中、日本軍政下のバリ島で民政部顧問として奔走した。
併しながら、日本の敗戦によりインドネシア独立の約束を果たせなかった自責の念により、昭和20年(1945年)9月7日、拳銃で自決した。

三浦は、戦前、バリ島で貿易商社と自転車修理工場を営んでいたが、開戦直前にオランダによって日本へ強制送還されていた。

通りの看板から細い小道を入っていくと、20m程のところに墓がある。

日本軍の「バリ島攻略」に於いて、現地に明るい三浦は道案内兼通訳の為の軍属として徴用された。

三浦は日本軍のバリ島攻略部隊(今村支隊)に同行し、昭和17年(1942年)2月19日深夜、「サヌール海岸」に上陸した。

日本軍政下のバリ島で、三浦はアジア10億の開放運動である大東亜戦争の意義を説いて回った。

また、貧しい人々を集め、缶詰や歯ブラシなどの工場を設立、製品を海軍軍需部に納めていたが、三浦自身は代金を受取らずに全て現地人に支払ったという。

石の柵で囲まれた内側に石棺があり、中央には自決した日付(9月7日)が西暦(1945年)と皇紀(2605年)で刻まれている。

三浦の謙虚で誠実で人情に篤いその人柄は、バリ島民の敬愛と信頼を集めた。
軍への訴えを持ってくるバリ島民に対して三浦は親身に相談に乗り、軍との調整に奔走した。

昭和20年(1945年)8月15日、日本が敗戦し、三浦が信じた日本によるインドネシア独立は果たせなくなった。インドネシア独立が実現されるはずだった日(昭和20年9月7日)、三浦は責任を感じて拳銃で自決した。享年57歳であった。

墓の右前には、「三浦襄の墓」という日本語と共に、三浦が自決した日付が刻まれている。

墓の上には線香立てのような窪みが設置されている。線香の灰らしきものが残っており、最近も参拝者がいたようである。

墓の手前には遺言が記された石板がある。

「日本人の断言することは必ず断行するという事実を諸君の前に示す事は、三年有半育成せられた諸君の覚醒せる精神に更に一段の進歩向上を遂げしむる最後の教訓である事を私は信ずる者である。(一部抜粋)」

三浦は日本に帰国せず、魂をバリ島にとどめ、インドネシア独立を見守ることを選んだ。
葬儀には1万人余りの島民が集まったそうである。

「三浦襄翁の墓」の歩き方
三浦襄翁の墓デンパサール市街地西側である。

デンパサール中心部のププタン広場(Medan Puputan)からJalan Gajah Mada通りを西へ500m行くとロータリーがある。
このロータリーを左折してJalan Thamrin通りを南へ。

途中通り名はJalan Iman Bonjol通りに変わるが、ロータリーから1kmほどで左手にトゥガル・ベモステーション(Tegal Bemo Station バスターミナル)がある。
このベモステーションのすぐ手前のT字路を右折してJalan Karkatu通りに入る。

T字路から100mほどでのところの右手に墓の位置を示す看板がある。

海軍軍属大館像

クロボカンには記念塔と二人の兵士の像が建てられている。左側の像は海軍軍属であった大館の像であり、バリ名はイ・ニョマン・スニアである。スニアとは「静けさ」という意味だそうである。

塔の前にはプレートが設置されている。平成5年(1994年)10月6日に立てられたようである。

大館は日本の敗戦後、トゥバンに駐留中に原隊を離脱し、独立派バリ人の新兵教育についた。密偵やオランダ軍の追跡から逃れつつ、密かに地元独立運動の指揮を取っていた。戦闘では常に先頭に立って戦ったという。

入口には柵が設置されているが、鍵はかかっていないので中に入ることができる。

塔の高さは10mほどであろうか。

昭和21年(1946年)5月22日、サワー村がオランダ軍に包囲され、救援を求められたグラライは部下のスギアニャール部隊を援軍として送った。
この時、大館は、スマンディ分隊長の指揮下に於いて1部隊(大館部隊)を率いて出撃した。
サワー村付近に於いて、大館部隊はスギアニャール部隊と合流、両隊はオランダ軍を攻撃すべく進撃を開始した。

大館像は左手を腰にあて、右手で敬礼する姿勢を取っている。腰の右側には拳銃がさされている。左側には鞄のようなものを下げている。

右側の像はインドネシア人兵士のようである。腰にさした軍刀に左手をかけ、右手にはハサミのようなものを振り上げ、何かを叫んでいるように見える。

翌日(昭和21年5月23日)午前9時、行軍中の大館部隊・スギアニャール部隊に対して、突然、一斉射撃の銃声が鳴り響いた。両部隊はオランダ軍の奇襲攻撃を受けたのであった。

この銃撃で少なくとも18名が敵弾を受け、大館部隊・スギアニャール部隊は散り散りなって敗走した。
そして、大館を含む3名の兵士が戦死した。
彼は原隊に留まっていれば故郷の地を踏めたはずである。しかし、彼はバリの為に命を捧げたのである。

塔の正面には扉があるが、鍵がかかっており中を見ることはできない。

塔の裏側にははしごが設置されている。
また、周囲四面にはそれぞれ白いレリーフがはめ込まれており、当時の兵士の様子を再現している。

「海軍軍属大館像」の歩き方
海軍軍属大館像像は島南西部のクロボカン(Kerobokan)という町の北約5kmのところにある。

クタ(Kuta)方面からはJalan Sunset Road通りを北上すると、クロボカンを南北に貫くJalan Raya Kerobokan通りに突き当たるので、ここを右折(北へ)する。
ここのT字路から5kmほどのJalan Gunung Sanghyang通りとの交差点を右折(東へ)する。

なお、この交差点はロータリーとなっている。
ロータリーから200mほどのところのT字路の右手前(南西側)の角に塔と像が立っている。

また、デンパサールから西へJalan Gunung Agung通り→Jalan Gunung Sanghyang通りを通っても行けるようである。

グラライ像(2ヶ所)

「デンパサール国際空港」付近にはイ・グスティ・グラライ像が二ヶ所ある。

1つ目の像は「デンパサール国際空港」北側のロータリーの中央に建てられている。

グラライは手を後ろに組んで仁王立ちしている。「将軍」の統率力と力強さを表現したものであろうか。

グラライは1917年1月30日にバリ島南部のバドゥンで生まれた。その後、オランダ軍の軍事訓練を受け、少尉としてバリの蘭印軍に所属していた。

2つ目の像は「デンパサール国際空港」北西側のT字路に建てられている。左手に本か鞄のようなものを持ち、少し崩した姿勢で立っている。

表情も1つ目の像と比べると温和に見える。

昭和20年(1945年)にインドネシアが独立を宣言すると、グラライはバリ島に上陸した約2000人のオランダ軍に対抗して部隊を率いた。敬意を持って「将軍」と呼ばれているようであるが、実際の人民共和治安軍での階級は中佐であった。最初の攻撃はタバナンのオランダ軍司令部の襲撃であった。

像の下にはプレートがはめこまれている。
題の「MELDEKA」とはインドネシア語で「独立」を意味する。

昭和21年(1946年)11月20日、オランダ軍は隣のロンボク島からの増援と航空機による支援をもって大規模攻勢をかけた。 「マルガ」に於いて、グラライは彼の部隊とともにオランダ軍に突入し、全員が戦死した。

グラライはインドネシアの英雄であり、彼の像はバリ島の各地で見かけることができる。また、グラライはインドネシアの50,000ルピア札の肖像画にもなっている。

「グラライ像(2ヶ所)」の歩き方
1つ目の像は「デンパサール国際空港」のすぐ北側のJalan Airport Ngurah Rai通りのロータリー部分にある。

2つ目の像はJalan Airport Ngurah Rai通りをロータリーから東へ行き、Jalan I Gusti Ngurah Rai通りとのT字路の正面に建っている。

デンパサール国際空港(グラライ国際空港)

「デンパサール国際空港」の正式名称は「グラライ国際空港」である。名称は独立戦争の英雄、グラライに由来する。
昭和6年(1931年)、オランダによって草地の飛行場として建設されたのが最初であり、植民地時代はオランダ領インド航空によって使用されていた。
日本軍がバリ島を攻略を決定した大きな要因がこの飛行場の存在であった。

「デンパサール国際空港」はジャカルタ、スラバヤに次いでインドネシア第三の空港である。

バリ島南端のバトゥン半島の付け根部分の地峡を東西に貫く形で3000m滑走路を一本備えている。

「デンパサール国際空港(グラライ国際空港)」の歩き方
デンパサール国際空港(グラライ国際空港)バリ島への玄関口である。

成田国際空港、中部国際空港、関西国際空港から定期旅客便が飛んでおり、日本からは約7時間の空の旅である。

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