資料館展示
真珠湾奇襲で沈没する前の戦艦「アリゾナ」の模型である。全長185.32mの艦体の中央に艦橋が設置され、その前後に三連装の砲塔二基ずつが配置されている。一番砲塔のさらに前の艦首部分には艦載機射出用のカタパルトが設置されている。アリゾナの火薬庫誘爆は水平爆撃で投下された爆弾が水平装甲を貫通して引き起こされた、という説が主流であるが、カタパルト用の黒色火薬に着火したことが誘爆した、という説もある。
沈没したアリゾナから引き揚げられた副砲弾である。アリゾナは副砲として51口径12.7cm砲×12門、25口径12.7cm砲×8門を装備していた。
真珠湾奇襲を行った第一航空艦隊旗艦の空母赤城の模型である。赤城は当初巡洋戦艦として起工されたが、完成前にワシントン海軍軍縮条約が締結されたため、廃艦処分を回避するため当時は補助艦艇であった空母に改装された。真珠湾奇襲時の搭載機数は、常用66機、補用25機であった。
機動部隊は択捉島の単冠湾を出港したあと、12日間の航海のあいだ米軍に気付かれることなくハワイ諸島に到達した。攻撃は完全に奇襲となったが、それでも29機の未帰還機が出た。未帰還機のプロペラである。
真珠湾攻撃は立案の時点で一つ大きな問題があった。それは平均水深12mという真珠湾の浅さである。
当時の航空魚雷は攻撃機が投下したあと、一旦水深50mほど沈んでから調停深度に浮上してくるものであった(模式図 上)。
これでは投下した魚雷が真珠湾の海底に突き刺さってしまう(模式図 下 赤)。これを航空技術廠による投下後の走行安定性を高めた愛甲魚雷の開発、および超低空飛行訓練により、魚雷投下後の沈下が10m以下となり浅深度雷撃が可能となった(模式図 下 黒)。
真珠湾海底より引き揚げられた愛甲魚雷である。手前右側のものは魚雷の模型であるが、後部に木製の安定舵が付いている。ジャイロによって検知した姿勢をもとに、この舵を動かして魚雷が安定した姿勢で海面に投下されるようになっていた。
攻撃を受けて大破着底したアリゾナの模型である。上写真が艦首方向、下写真が艦尾方向である。中央の艦体をまたぐように作られている白い部分が記念館である。もっとも大きく海面上に露出している部分は艦尾方向の第三砲塔であるが、水深は浅く艦体が海面のすぐ下にあるのが分かる。なお、艦首は完全に破断された状態となっており、火薬庫誘爆の激しさを物語る。
アリゾナの艦体
真珠湾西岸からフォード島方向を望む。フォード島手前の海面上に浮かぶコンクリート台は、それぞれ真珠湾奇襲時に停泊していた艦艇の位置を示しており、それぞれに艦名が記されている。当時の雷撃隊はこの海面すれすれのアングルからフォード島に並ぶ戦艦群を見たはずである。
アリゾナ側から真珠湾を望む。対岸にクレーンが立ち並び、今も重要な港湾施設である。岸までは500m程度しかなく、当時のアリゾナ乗組員はこの狭い水道に正確に魚雷を投下する九七艦上攻撃機を見たであろう。
記念館は艦体の真上に建っているので、沈んだ艦体を間近でみることができる。記念館中央あたりに沈んだ艦体の見取り図が設置されている。海面上に出ている部分は赤く色が塗られているので、見えている部分が艦体のどこに相当するのかが分かりやすい。
記念館の奥にはアリゾナとともに沈んだ1177名の将兵の名前が刻まれている。
海面上に出ているもっとも大きく目立つのは第三砲塔である。この砲塔は無傷だったため、第四砲塔とともに陸揚げされてオアフ島要塞の要塞砲として再利用された。完成したのは1945年の8月であり、一度も交戦することなく1947年から1948年にかけて解体された。
記念館の中央には星条旗が掲げられている。その根元の部分に海面から円筒が突き出している。この円筒は当時の旗の掲揚台であった。奥にはアリゾナの埠頭位置を示すコンクリート台が見える。
艦橋横の右舷舷側である。艦体はすぐ海面下にあり、海面上に出ていない構造物もよく見ることができる。
アリゾナの沈没から68年経過した2009年現在でも、一日あたり1クォート(約0.95リットル)の油が漏れ続けている。海面上に油が虹色に光っている。