ハワイ諸島(Hawaiian Islands)は北太平洋中央付近に位置する火山列島である。
8つの主要な島(ハワイ島・マウイ島。カホオラウェ島・ラナイ島・モロカイ島・オアフ島・カウアイ島・ニイハウ島)で構成される南東ハワイ諸島と、それ以西からミッドウェー環礁までの約2200kmに渡って連なる33の島と多数の珊瑚礁・岩礁で構成される北西ハワイ諸島に分けられるが、その殆どは無人島であり、一般的にハワイ諸島という場合、南西ハワイ諸島を指す事が多い。現在は、ミッドウェー環礁を除くハワイ諸島はハワイ州としてアメリカ合衆国の州の1つである。ハワイ州の州都はオアフ島ホノルルであり、人口の約8割(85万人)はこのオアフ島に集中している。
ハワイ諸島には先住民としてポリネシア人が居住していたが、安永7年(1778年)、イギリス人のジェームス・クック一向がヨーロッパ人としては初めてハワイ諸島に上陸した。その後、ヨーロッパ人が入植してくるようになったが、文化7年(1810年)にカメハメハ大王のハワイ王国がハワイ諸島を統一して独立を保っていた。
19世紀後半には、日本からの移民も行われるようになり、日本との結びつきも深まっていった。しかし、この頃から次第にアメリカのハワイ諸島への進出が目立つようになり、多くの土地はアメリカ人農園主が所有するようになっていった。更に、アメリカによるハワイ王国の併合計画が秘密裏に進められていた。
明治26年(1893年)1月、アメリカ人農園主が米海兵隊の武力を背景にクーデターを起し、明治27年(1894年)、アメリカへの併合を目的とするハワイ共和国が成立した。ハワイ共和国は、明治28年(1895年)にリリウオカラニ女王を廃位し、ここにハワイ諸島の先住民による国家であったハワイ王国が滅亡した。また、先住民に対する虐殺も行われた。明治31年(1898年)、アメリカは正式にハワイ諸島を併合し、準州(自治領)とした。
アメリカの領土となったハワイ諸島は、アメリカによる太平洋支配への拠点となっていた。オアフ島真珠湾には米海軍の基地が建設され、米海軍太平洋艦隊の一大拠点として機能していった。また、当時ハワイ諸島には多くの日本人移民がいたが、太平洋に於ける日本とアメリカの対立が深まるにつれ、日本人移民に対する迫害が目立つようになり、日本でも反米気運が高まっていった。
やがて、東アジアや東南アジアへの進出を巡る日本とアメリカの対立は修復不能に近い状態になっていった。昭和16年(1941年)8月、アメリカによる日本への石油全面禁輸が実施された。これに対し、日本は自存自衛の為、やむなく対米開戦に踏み切った。昭和16年(1941年)12月8日(現地7日朝)、日本海軍機動部隊を発進した日本海軍機350機がハワイ諸島オアフ島真珠湾の米海軍太平洋艦隊基地を空襲、米軍の戦艦4隻・航空機多数を撃破した。これを機に大東亜戦争が開戦開戦し、日本とアメリカは戦争状態となった。
大東亜戦争に於いて、ハワイ諸島は米軍の重要な基地として機能した。オアフ島には米海軍・米陸軍の基地や飛行場が多数あり、前線に向かう部隊の訓練や補給・休養が行われた。特に、真珠湾の米海軍基地は損傷艦の修理・整備にフル稼働し、昭和17年(1942年)5月8日の「珊瑚海海戦」で損傷した航空母艦「ヨークタウン」を3日間の突貫工事で応急修理し、1ヵ月後の「ミッドウェー海戦」に間に合わせると言う貢献をした。
日本と戦争になった事によって、ハワイ諸島の日本人移民やその子孫である日系人は危険分子と見做され、以前にも増して厳しい迫害・排斥に曝された。併しながら、日系人の若者の多くは、自分たちの祖国となったアメリカに対する忠誠心を示す為、自ら進んで従軍を志願した。彼らは日系人部隊として編成され、主として欧州戦線に従軍したが、多くの犠牲を伴いながらも献身的で勇敢な戦い振りを見せた。それはアメリカの国民に多大な感銘を与え、戦後は、ハワイ諸島のみならずアメリカ本土に於ける日系人の地位向上に繋がった。
戦後、ハワイ諸島では州へと昇格する気運が高まり、昭和34年(1959年)8月21日、正式にアメリカ合衆国第50番目の州となった。その後は、観光地としての投資とインフラ整備が行われた。1970年代以降、日本からの観光需要が高まり、観光施設への投資が更に促進された。観光業はハワイ諸島の主要な産業として現在に至っている。