コロール島: メインストリート沿い

大東亜戦争におけるコロール島・バベルダオブ島の歴史
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メインストリート沿いの戦跡一覧

地下防空壕

ロックアイランドカフェの道路を挟んだ反対側に防空壕らしきものが遺されている。入口は2つあり、日本統治時代の他の防空壕とよく似ているが、説明板などはなく詳細不明である。周囲には新しい戦後の建物ができているが、意図的に保存されたものであろうか。

内部を覗き込むと、ゴミが大量に投げ入れられており、奥のほうがどうなっているのかはよく分からない。

「地下防空壕」の歩き方

コロール島中心部からやや西側、ロックアイランドカフェの道路を挟んだ反対側にある。

旧南洋庁

「旧南洋庁パラオ支庁庁舎」が遺されている。

大正11年(1922年)に南洋庁が設置された当初は本庁に同居していたが、手狭になったために道路を挟んだ反対側に支庁が建てられた。

当時の写真が残っている。
正面の概観は現在とほとんど同じである。建築は昭和13年(1938)~昭和14年(1939年)頃と考えられている。正面の両側の2階部分は増築されているのが分かる。
この写真の左手に本庁があった。

現在は「パラオ最高裁判所庁舎」として使用されている。車寄せを持つ正面玄関とその上部の垂直性を強調した装飾が印象的である。

建物の右手側は図書館となっており、これは戦後増築された部分である。

「旧南洋庁」の歩き方
旧南洋庁コロール島中心部からやや西側、ロックアイランドカフェの東約100mほどのところのT字路の南東角にある。

旧昌南クラブ

「旧昌南クラブ」が遺されている。

「昌南クラブ」は日本人の娯楽施設で、普段は碁会所などとして使われた。時には展覧会やパラオの伝統的なダンスショーなどが開催された。

当時の「門柱」が遺されている。
石柱の上に灯篭のようなものが乗っている。

現在はパラオ高校校舎となっている。

先ほどの「門柱」の右手にも当時のものと思われる門が遺されている。

こちらも灯篭型で太い造りである。

「昌南クラブ」の庭にスクリーンを持ち込んで映画上映がなされることもあったという。パラオの文化の中心であったようである。

最初の「門柱」から高校に入ったところは駐車場となっているが、ここに当時のものと思われる「碑」らしきものが遺されている。

正面側には漢字が刻まれていたようだが、削れてしまって読み取ることができない。「二等」「郷」など、部分的に読み取れるところもある。また、裏側にはプレートがはめこまれていた跡があるが、これは失われている。

「旧昌南クラブ」の歩き方
現在のパラオ高校である。「旧南洋庁」から見て道を挟んだ反対側である。

旧パラオ公園

パラオのメインストリート沿いに「パラオ公園」と彫られた石柱が遺されている。裏側は「昭和御大典記念事…」と刻まれている。文字は続くようだが埋没しており、「事」の下が何と書いてあるかは分からない。昭和3年(1928年)昭和天皇即位の「御大典」を記念して建てられたものであろう。

現在、この場所は「ネコプラザ」というショッピングセンターになっており、当時の「パラオ公園」の面影はない。

「旧パラオ公園」の歩き方
「石柱」は「ネコプラザ」というショッピングセンターに併設されているガソリンスタンドの前にある。

旧パラオ病院

パラオコミュニティカレッジの敷地でこのメインストリートに面した建物は、戦前は「南洋庁パラオ医院本館」として使用されていた。当初はドイツ時代の建物を使って診察していたようであるが、新たにこの建物が建てられて移転したようである。

当時の写真が残っている。戦後の増築もほとんどなく、当時の姿をよく留めているのが分かるだろう。写真資料などから建設は昭和6年(1931年)~昭和9年(1934年)と推測されている。

現在は大学の事務棟として使用されている。一時期一部が2階建てに増築されたこともあったようだが、現在は撤去されて原型に近い形となっている。

大きなアーチを取り付けた玄関入口が特徴的である。撮影がクリスマス時期であったためか、電飾で飾られていた。

「旧パラオ病院」の歩き方
現在のパラオコミュニティカレッジである。
コロール島の中心地でメインストリートが蛇行するところの北側に位置する。

旧パラオ小学校

パラオコミュニティカレッジの敷地内で、メインストリートから少し入ったところには「パラオ小学校」があった。周辺に建物が建っているが、これが当時のものかどうかは不明である。

パラオ人は公学校、日本人は小学校で分かれて教育を受けていた。公学校では日本語習得に多くの時間が割かれたようである。また、公学校の運動会に小学校の生徒が参加するなどの交流もあったようである。公学校ではビン徒競争という、ビンを頭の上に乗せて落とさないように走る、という風変わりな競技があったが、日本人の子供にはとても難しかったそうである。

「旧パラオ小学校」の歩き方
パラオコミュニティカレッジの敷地内である。

前述の「旧パラオ病院」の建物の右手側にある路地を北に入る。メインストリートから約100mほど入った右手側にあるちょっとし広場になっているあたりに小学校があった。

旧電信所・郵便局跡地

現在パラオ国会議事堂として使用されている建物は、パラオ無線電信所庁舎であった。パラオにおける電信業務は第一次世界大戦後の海軍特設無線電信所に始まる。東京との通信のために大規模無線施設を建設し始めたところ、南洋庁が設置されたためにこの電信所は海軍から南洋庁に移管された。

大正15年(1926年)の竣工から80年以上経過しており、現在パラオ共和国に遺る日本統治時代の建物の中で最も古いものと考えられている。

当時は1階が電動機室と倉庫に、2階が通信室、受信機室、事務室に使用されていた。現在建物は原形を留めないほどに増築されている。

また、パラオ国会議事堂の前は一面芝生となっているが、ここにはかつて当時の郵便局があった。郵便局の方は完全に取り壊されて何も遺っていない。なお、当時は郵便局の他にも郵便ポストがたくさん設置されていたが、現在は郵便局からでないと郵便物が出せない。

「旧電信所・郵便局跡地」の歩き方
コロール島中心地である。メインストリート沿いの南側で、広い芝生が広がっているので分かりやすいであろう。

旧野球場・無線塔跡地

日本統治時代の「野球場」は現在も「アサヒスタジアム」として使われている。

当時パラオにサッカーやテニス、卓球、柔道、相撲など様々なスポーツ競技が紹介された。特に野球はパラオの人々を熱狂させ、今日も「iakiu(やきゅう)」と日本語で呼んでいる。

当時、この場所には「野球場」を囲むように「無線塔」が立っていた。
前述の「電信所」からも至近の距離である。

約100mほどのところの右手に野球場(アサヒスタジアム)がある。

「旧野球場・無線塔跡地」の歩き方
メインストリートから前述の「旧電信所(現パラオ国会議事堂)」の右側の路地を南へ進む。

特二式内火艇・九六式二十五粍高角機銃

「アサヒスタジアム」の裏に「特二式内火艇(カミ車)」が遺されている。
「特二式内火艇」は日本海軍の水陸両用戦車であった。最大の特徴は、水上走行時は前後に大型のフロート(浮き)を装着して浮力を得、陸上に上陸後はフロートを切り離して走行する仕組みになっていた事であった。

車体後部は装甲が斜めになっており、後部フロートを切り離す際は後方へ滑らすように切り離した。

水上航行時は車体後部に装備されたスクリューによって行われた。
スクリューへの動力は車内のエンジンから供給され、分配器によってスクリューと履帯(キャタピラ)への動力を切替える事が出来た。
陸上装甲時はスクリューを切り離し、履帯に動力を切替えて移動した。

後部フロートには舵が装備された。
水上航行時は車内からワイヤーによって舵を操作して、任意の方向に進んだ。

足周りは、「九五式軽戦車」を基にしているが、誘導輪を接地させ安定性向上が図られた。
また、サスペンションは全て車内に収納され、車外にはコイルスプリング等は見られない。これは、水密性を考慮した結果であった。

砲塔は、上部に車長用のハッチがあるが、監視用のキューポラは無い。
水上航行時には、ハッチを覆うようにして筒状の監視塔が装着された。これは陸上走行時には切り離したが、装着したままの車両もあった。

砲塔内には、主武装として「一式三十七粍戦車砲」を搭載した。砲身は失われているが、砲架が遺されており、砲手用の肩当や引金の様子が分かる。
砲架の左側には副武装である「九七式車載銃機関銃」が戦車砲と同軸装備された。現在、同軸機銃は失われ、防盾に同軸機銃用の穴が見える。

砲塔内側面には砲弾架が装備された。本車は132発の37mm砲弾を搭載した。

車内は、「九五式軽戦車」と比較すると非常に広い。

車内前方に装備されていた変速機(ギアボックス)が見える。右側に操縦手、左側に無線手(機銃手)が位置した。

左右に装備されているハンドルは、車体前方下面に装備された前部フロート固定具を操作するハンドルである。これを操作して、カニ鋏状の固定具を開閉し、前部フロートの着脱を行った。

操縦席のペダル類、機銃架(ボールマウント)の様子がよく分かる。

「特二式内火艇」の車体上面に 「九六式二十五粍高角機銃(96式25mm高角機銃)」が載せられて遺されている。
本銃を「特二式内火艇」の車体上面に搭載して運用する事は無い。

終戦時の武装解除に於いて、無造作に積まれたか、或いは戦後に展示用に載せられたと考えられる。
従って、「特二式内火艇」の車体上面に 「九六式二十五粍高角機銃」が載ったこの様な状態は、これら兵器の本来の姿ではない。

遺されている本銃は連装である。2本の銃身が旋回銃架に搭載されている。
口径25mm・銃身長1.5m・装弾数15発(箱型弾倉)・実用発射速度120発/分であった。

旋回銃架左側には、銃手の座席と俯仰角用のハンドル・撃発ペダル(引金)が装備された。

一部破損しているが、銃手の座席と俯仰角用のハンドルが遺されている。

銃身には冷却用のヒダが埋め込まれた。また、銃身1本あたり、左右2本の駐退機が装備された。

銃身の先端には閃光覆い(フラッシュハイダー)が装着されていた。発砲時の閃光によって銃手の目が眩んで照準の妨げになる事を防ぐ為の装備であった。

左側の銃身の閃光覆いは失われているが、取付部分にねじ山が切られているのがよく分かる。また、銃身内の旋条(ライフリング)が見える。

「特二式内火艇・九六式二十五粍高角機銃」の歩き方
野球場の南西の角のところにある。ちょうど野球場のライトスタンド、ぎりぎりファールゾーンになるあたりである。

「九六式二十五粍高角機銃」は「特二式内火艇」の車体上面に載せられている。

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