大東亜戦争におけるパラオ諸島の歴史

パラオ共和国は日本からほぼ真南へ約3000kmに位置する独立国である。国土は南北約640kmに渡って点在する586の島からなるが、全て合わせても約458平方kmであり、種子島と同程度の面積である。パラオ諸島は火山島に起源し、その後の地殻・海面変動によって隆起珊瑚礁の島々ができた。ほとんどの島は無人島で、有人島はわずか9島である。

気候は海洋性熱帯気候である。一年を通して平均気温27℃程度と高温であり、月による変動は小さい。一般的に5~10月が雨季と言われているが、乾季・雨季は明確には分かれていない。年間総雨量はかなり多く、コロール島で平均3735mmである。これは世界的には多雨地帯に分類される日本の1718mmの倍以上である。

国内の遺跡などを研究した結果、パラオ諸島には約4000年以上前から人が住んでいたと推定されている。ヨーロッパ人との本格的な接触は天明3年(1783年)のイギリス船アンテロープ号の座礁事件から始まる。島民は破損したイギリス船の代わりの小船の建造に協力し、乗員はイギリスに帰還することができた。友好的に始まった交流であったが、その後1820年代よりヨーロッパ人が多く訪れるようになり、明治18年(1885年)にスペインがパラオ諸島の領有権を宣言して植民地化した。しかし、明治31年(1898年)に米西戦争に敗れたスペインは国力を失い、グアム島はアメリカに割譲され、パラオ諸島を含むスペイン領ミクロネシアはドイツへ売却された。

大正3年(1914年)に第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟に基づいて連合国として参戦し、ドイツに宣戦布告した。日本は海軍を派遣し、パラオ諸島のドイツ軍守備隊を降伏させてこれを占領した。戦後処理である大正8年(1919年)のパリ講和会議において、南洋諸島(パラオ諸島・マリアナ諸島等)がドイツ植民地から日本の委任統治領になると、パラオ諸島は日本の南洋統治の中心地となっていた。日本統治下では学校や病院のほか、各種インフラが整備された。沖縄出身者を中心に多くの日本人がパラオ諸島に移住し、リン鉱石採掘のほか、農業、漁業、ボーキサイト生産などの開発で栄えた。大東亜戦争開戦前にはパラオ人の3倍近い日本人が居住していた。

大東亜戦争が勃発すると、フィリピン諸島や南方資源地帯への最前線基地であったパラオ諸島は多くの部隊を送り出して序盤の快進撃を支えた。日本の支配領域は急速に拡大し、開戦から1年も経つとパラオ諸島は前線からはるか離れた後方基地となっていた。しかし、昭和19年(1944年)にマリアナ諸島が失陥すると、いよいよ米軍の攻撃の矛先がパラオ諸島にも向けられてきた。パラオ諸島は米軍が奪還を狙うフィリピンの手前に位置していたのである。

昭和19年(1944年)9月15日、日本軍約11000名が守備するペリリュー島に約18000名の米軍が上陸した。続いて9月17日、日本軍1個大隊(約700名)が守備するアンガウル島にも約10000名が上陸(一部はのちにペリリュー島へ移動)した。

米軍が3日で占領する予定であったペリリュー島では、日本軍が洞窟陣地にこもって頑強に抵抗し、2ヶ月半に渡る激戦が繰り広げられた。限られた兵力を分散させないため、1個大隊しか配備できなかったアンガウル島は2週間で全面占領された。米軍の当初の目的はフィリピン諸島攻略支援のための飛行場建設であったが、日本軍の抵抗で占領に時間がかかりすぎてフィリピン諸島攻略に間に合わなかったため、戦略的には無意味だったと言われている。なお、パラオ諸島の他の島には終戦まで米軍は上陸せず、日本軍部隊と一般邦人は制空権、制海権を握られた状態で孤立していた。

終戦後の昭和22年(1947年)、パラオ諸島はアメリカを施政権者とする太平洋諸島信託統治地域となった。1978年の住民投票において、ミクロネシア地域の統一国家から離脱することが決定し、昭和56年(1981)年にパラオ憲法を施行して自治政府の「パラオ共和国」が発足した。パラオ憲法には「非核条項」があり、これがアメリカの軍事戦略と相容れず調整が難航したが、平成6年(1994年)に非核条項を棚上げする形でアメリカとの自由連合国として独立し、同年に国際連合に加盟した。信託統治領としては最後の独立国であった。

パラオ諸島は現在でも日本とつながりが深い。平成8年(1996年)に自然崩落したKBブリッジ(韓国企業が建設)の再建など、多くの援助がなされている。観光業が盛んであり、コロール島からペリリュー島にかけて、約30kmに及ぶ環礁内に点在するロックアイランドはダイビングスポットとして有名である。年間約8万人の観光客のうち、日本人が約3万人を占める。

パラオ人同士はパラオ語を使用しているが、どの世代の人もかなり英語を使いこなす。人口の3割はフィリピン人であり、パラオ人はフィリピン人と会話するときに英語を使うために慣れているようである。

パラオ語には日本語が元になった外来語が多く、若い世代でも日本語の単語をたくさん知っている人は多い。素朴な南洋文化で何世紀も暮らしてきたパラオ諸島では、元々3000個程度の単語しかなかったと言われている。現在使われている文明社会に関連する言葉の多くは英語や日本語が外来語化したものである。「ダイトーリョー(大統領)」や「ダイジョーブ(大丈夫)」のほか、変わったものでは「チチバンド(ブラジャー)」や「ツカレナオース(疲れを直す、が転じてビールを飲むこと)」などもある。
日本統治時代を経験した年配者には流暢な日本語を話す人もいるそうである。

また、アンガウル州では憲法第12条第1項において、日本語も公用語として定められている。日常的に日本語を用いる住民はいないが、日本統治時代の名残りである。