大浜の特攻艇秘匿壕群
宮古島と伊良部島をつなぐ伊良部大橋の手前の海岸沿いに特攻艇の秘匿壕群が遺されている。伊良部大橋を通って伊良部島へ向かう県道252号の南側は崖、北側は海岸となっているが、この県道の北側は戦後に埋め立てられたものである。
県道の北側の海岸に4ヵ所、南側の崖に15ヵ所の秘匿壕が琉球石灰岩を掘って構築された。上記写真は現地の案内板の地図であるが、位置関係が分かりやすく表示されている。
県道より北側の海岸の秘匿壕である。元々4ヵ所あったが、うち2ヵ所は伊良部大橋建設のために埋められた。
秘匿壕は入江の内側に構築されており、外洋から近づく敵艦艇からは目立たない場所となっている。
この大浜の特攻艇秘匿壕群には「海上挺身隊第三十戦隊」が配備予定であった。海上挺身隊は昭和19年 (1944年) 8月~10月に30個戦隊が編成されたが、既に米軍の進攻でマリアナ諸島を失陥していた時期であり、海上輸送は跳梁する米潜水艦によって大きな被害を受けていた。
第三十戦隊も輸送中に奄美近海で大損害を受けたため、編成地の広島県宇品に帰還した。そのため、大浜の特攻艇秘匿壕群は、終戦まで実際に特攻艇が配備されることはなかった。
遺された2つの秘匿壕のうち、左側の秘匿壕である。入口から近い位置でコンクリートで埋められている。これは伊良部大橋の基礎部分である。
右側の秘匿壕である。左側のものよりも奥まで続いている。入口からすぐのところの左側が小さく掘り込まれている。
入口すぐの掘り込みである。関連の用具を置く場所だったのか、攻撃を受けた際に秘匿壕正面から吹き込む爆風等から退避するためのものであろうか。
右側の秘匿壕の奥である。右側の秘匿壕と同じく、伊良部大橋の基礎部分が見える。
秘匿壕から海岸を見たところである。撮影当日は満潮に近い時間帯だったが、秘匿壕を出たところすぐが水際となっているのが分かる。入口部分は波によって運ばれた砂が堆積している。
外洋の敵艦艇から見つけにくく、かつ秘匿壕から特攻艇を出し易い位置が選ばれたものと思われる。
南側の崖に並ぶ秘匿壕の西側の端に位置する2つの秘匿壕の模式図である。上記案内板において、①と②という番号が振られている秘匿壕である。2つの秘匿壕はコの字型をしており、奥で繋がっている。
秘匿壕はこの2つの東側にも並んでいるが、藪が深く近づくのは難しい。また、奥行きが浅かったり崩れたりしてしまっているためか、道路側から少し探索しただけでは見つけられなかった。
①の秘匿壕である。道路側から崖を向いて右端に位置する。特攻艇を移動させるために設置されたレールの敷石が2列遺されている。
特攻艇は正式名称「四式肉薄攻撃艇」、通称「㋹ (マルレ)」と呼ばれた。マルレは装甲のないベニヤ板で作られた小型のモーターボートであった。全長は5.6m、全幅は1.8m、重量1200kg、60馬力程度の自動車用エンジンを装備しており最高速力は23~25ktであった。艇後部に250kgまたは120kg 2個の爆雷を装備していた。
当初は敵艦の至近に爆雷を投下して離脱することが想定して開発されたが、戦局の悪化に伴い体当たり作戦が採択された。
一つ一つの石はこぶし大程度の大きさの石である。半分埋め込まれるような形で並べられている。レールの敷石が遺されているのは①の秘匿壕のみである。
小型のモーターボートとは言え人力で運べるサイズではないと思われるので、他の壕でもレールを設置して艇を移動させていたのではないかと思われる。
①の秘匿壕の一番奥の部分である。左側に②の秘匿壕に続く通路が見られる。
「マルレ」は陸軍によって運用されていたが、海軍でも同様の特攻艇「震洋」が運用されていた。陸軍は「海上挺身隊」、海軍は「震洋隊」と呼称しており、「海上挺身隊第三十戦隊」が配備予定であった大浜の特攻艇秘匿群は陸軍のマルレが配備予定だったものと思われる。
「大浜の特攻艇秘匿壕群」の歩き方
秘匿壕は伊良部大橋の手前、宮古島側に遺されている。
伊良部大橋に向かって右手側は海岸となっているが、道路が橋に向かって上っていくところの右手側に見える崖の下に2つの秘匿壕がある。奥が橋の基礎で埋められている秘匿壕である。
道路が橋に向かって上がり始める手前のところから海岸に出ることができる。
道路が伊良部大橋に向かって上っていくところの右手側から海岸に出られるが、その反対側の左手側には丘があり、草木が生い茂っている。
その丘の道路沿いのところに「戦争遺跡 大浜の特攻艇秘匿壕群」の標と説明板がある。
説明板から茂みの奥へ数メートル行くと、レールの敷石が遺されている①の秘匿壕の入口が見えてくる。
説明板によると①の秘匿壕以外にも複数の秘匿壕があるようだが、藪が深く近づくことは困難である。
トゥリバー浜特攻艇秘匿壕群
トゥリバー浜にも特攻艇秘匿壕群が遺されている。トゥリバー浜の特攻艇秘匿壕群は大浜の特攻艇秘匿壕群から北東に1kmほどの位置にある。
トゥリバー浜は入江のような地形となっている。草木が生い茂っていて分かりにくいが、対岸側からよく見ると崖の下に何か所か壕が掘られているのが分かる。
秘匿壕の入口部分である。大きさは大浜の特攻艇秘匿壕群のものと同じくらいである。
秘匿壕内部である。特に奥の方が曲がっていたり複数の壕が繋がっている様子は見られず、シンプルに海岸から直線的な形状をしている。
秘匿壕の入口のすぐ近くに海面があり、大波のときにペットボトル等の漂着物が流れ込んできて溜まっているものと思われる。
秘匿壕の中から海岸を見る。
トゥリバー浜の特攻艇秘匿壕群の歩き方
トゥリバー浜の特攻艇秘匿壕群は、「ヒルトン沖縄宮古島リゾート」と「パイナガマ海空すこやか公園」の間の入江のヒルトン側の崖の下にある。
上写真の左手側の防波堤の内側に遊歩道があり、崖の手前まで行くことができる。
遊歩道は崖の手前で終わるが、そこから海岸に降りることができる。
遊歩道の先端から防波堤によじ登ると、1.5mほど下に地面がある。若干高さがあって昇り降りが大変だが、誰が設置したのか簡単な木の梯子がかけられていた。
防波堤から下に降りて崖に沿って歩くと、10mほどで1つ目の秘匿壕の入口がある。
全部で何ヵ所あるのか不明だが、少なくとも2つの秘匿壕の入口が確認できた。
パイナガマビーチの機関銃壕
宮古島の北西部、パイナガマビーチに機関銃壕が遺されている。機関銃壕はパイナガマビーチの西の端、長崎半島の付け根の崖の下にあり、パイナガマビーチに上陸しようとする敵を迎え撃つために設けられたと考えられている。
実際には、米軍は宮古島に空襲と艦砲射撃を行ったのみで、上陸はしてこなかった。
機関銃壕は石灰岩でできた崖をくりぬいて造られている。周辺には草木が生い茂っており、よく見ないと機関銃壕の存在には気づかない。
もし米軍がこのビーチに上陸したとしたら、事前の偵察でこの機関銃壕には気づくことができず、撃たれて初めてその存在に気付いたであろう。
銃眼部分である。機関銃壕はこの銃眼部分のみがコンクリートで固められている。幅は40cm、高さは15cm程度である。
手前は広く奥は狭い台形のような形をしており、敵の攻撃から身を守りながら左右に射界が広く取れるように工夫がされている。
銃眼のサイズ的に、砲などあまり大きな火器は運用できなかったと思われる。
銃眼から機関銃壕の内部が少し窺える。壕の内部は奥行きが約8mあり、その一番奥に高さ約4mの垂直な縦穴がある。崖の上からこの縦穴を通じて機関銃壕に出入りできるようになっていた。
内部は狭く、人ひとりが通過できるほどのスペースだそうである。
出入口となる縦穴には階段がなく、出入りには梯子が使われていたと考えられている。
崖の上には遊歩道が整備されている。写真の左手側の柵の向こう側に機関銃壕の出入口があるはずだが、草木が生い茂っていて簡単に近づくことはできない。
出入口の壕口は0.8m×1.3mの大きさだそうだが、枯れ葉等で足元の状況は分かりにくい。気付かずに壕口から落下してしまうことも考えられるので、注意が必要である。
パイナガマビーチの機関銃壕の歩き方
宮古島北西部のパイナガマビーチの西の端 (海に向かって左端) にある長崎半島の付け根の崖の下にある。
パイナガマビーチに沿って西の端まで歩いていくと、「パイナガマビーチの機関銃壕」の標がある。この標のところから砂浜に降りて崖側を見ると、機関銃壕の銃眼が見える。
機関銃壕は波打ち際に近い位置に設けられている。満潮時には海水が銃眼のすぐ下までくる。満潮時には陸地側からは機関銃壕は見えないので、見学の際は少し海水に足をつけなくてはならない。
また、海と反対側に階段があり、この階段を上っていくと、長崎半島の崖の上に設けられた遊歩道に出ることができる。機関銃壕の出入口である壕口はこの遊歩道から茂みを分け入ったところにあるはずである。