南方作戦

(昭和16年12月8日~昭和17年5月)

南方資源地帯

大東亜戦争の開戦理由のひとつは「南方の資源(特に石油)を確保し、長期自給の体制を確立する」という目的を達成する為であった。当時欧米各国の植民地であった東南アジアは天然資源の宝庫であり、特に蘭印(オランダ領インドネシア)は日本が最も渇望していた石油の大産地であった。日本はこれらの資源獲得を目指して開戦に踏み切ったのである。

南方作戦はこれら南方資源地帯を制圧することを目的に実施された。最終目的は蘭印方面の油田地帯占領であったが、その準備として英国植民地マレー半島・米国植民地フィリピン諸島を占領して、蘭印攻略の足掛かりを築く必要があった。また、中国の英国領香港や中部太平洋の米国領グァム島・ウェーク島、南太平洋のラバウルの占領も同時に行われた。

マレー半島攻略(昭和16年12月8日~昭和17年2月15日)

昭和16年12月8日深夜、日本陸軍第二五軍がマレー半島のコタバル(英領マレー)、シンゴラ・パタニ(タイ)に上陸を開始。コタバル上陸は8日午前2時(現地3時30分)、日本海軍の「ハワイ空襲」の1時間20分前であり、大東亜戦争は日本軍のマレー半島上陸で開始された。上陸した日本軍は一路マレー半島南端のシンガポール目指して南下を開始した。上陸開始当初から日本陸軍航空隊は各所で英国空軍を撃破、マレー半島の制空権を握ることに成功した。

当時、シンガポールには英国海軍東洋艦隊があり、主力である戦艦「プリンス・オブ・ウェルーズ」は英国が世界に誇る最新鋭戦艦であった。英東洋艦隊は日本軍のマレー半島上陸の報に接し、シンガポールを出撃。日本軍の輸送船団攻撃を目指した。これに対して、南仏印(フランス領インドシナ)に展開していた日本海軍基地航空隊は英東洋艦隊を求めて連日索敵を実施した。12月9日、潜水艦の報告と索敵によって英東洋艦隊を発見。10日、日本海軍基地航空隊の陸上攻撃機が英東洋艦隊に攻撃を開始し「マレー沖海戦」が発生した。この海戦で英東洋艦隊は戦艦「プリンス・オブ・ウェルーズ」、巡洋戦艦「レパルス」を喪失。マレー半島の英東洋艦隊はその戦力の大部分を失った。「マレー沖海戦」は戦闘行動中の戦艦が航空攻撃によって撃沈された初めての海戦となった。

マレー半島の英軍は随所に防衛拠点を設けて、日本軍を足止めし、英本国からの応援を待つという方針であった。併しながら上陸した日本軍は機械化部隊を中心として編成されており、その進撃速度は英軍の予想を上回るものであった。また、英軍の大部分はインドをはじめとする英国植民地兵士で構成されていた。英国植民地インドから集められたインド人兵士は戦意に乏しく、寧ろ日本軍に協力的でさえあった。随所で陣地を突破された英軍は橋梁や道路を破壊しながら後退したが、日本軍はこれらを素早く補修し、マレー半島を南に進撃していった。昭和17年1月31日、日本軍はシンガポール対岸のジョホールバルに到達。仏印(フランス領インドシナ)から陸路移動してきた部隊も合流、50000人の日本軍はシンガポール上陸の準備を整えた。

2月8日深夜、日本軍はシンガポールへの上陸を開始、守備する英軍100000人との間に激戦が展開された。一部の英軍は頑強に抵抗し、攻撃する日本軍の砲弾は底を突き始めた。併しながら、日本軍が水源地を押さえると、15日、英軍は降伏した。日本軍は英領マレー・シンガポールを占領した。当時、シンガポールは英国の東洋植民地支配の中心地であり、シンガポールの喪失は英国の東洋に於ける一大拠点の喪失を意味した。

香港攻略(昭和16年12月8日~25日)

昭和16年12月8日、日本陸軍第二三軍が英国領香港への侵攻を開始。英国植民地である香港は香港島と対岸の九龍半島から成り、九龍半島の国境付近には英軍の堅固な陣地があるという情報を日本軍は開戦前に得ていた。そのため香港攻略を担当する日本軍には特別編成の砲兵隊が配備されていた。しかし実際に進撃を開始してみると、九龍半島の英軍守備陣地(ジン・ドリンカーズ・ライン)はそれ程強力では無く、11日正午、守備する英軍部隊は香港島へ撤退を開始した。

12月13日、日本軍は香港島の英軍に対して降伏勧告を行ったが英軍はこれを拒否した。15日、日本軍は香港島への砲撃を開始し、18日、三方から上陸を開始した。守備する英軍部隊と随所で激戦が展開されたが、日本軍によって水源地が確保され、市民の恐慌状態で香港島の治安は悪化していった。25日、英軍が降伏、日本軍は香港を占領した。

フィリピン諸島攻略(昭和16年12月8日~昭和17年5月6日)

米国領フィリピン諸島に対しては、昭和16年12月8日の空襲を皮切りに、22日、フィリピン諸島ルソン島に日本陸軍第十四軍が上陸。大きな戦闘は特にないまま、昭和17年1月2日、日本軍は首都マニラを占領した。守備する米比軍は当初の計画通りルソン島南部のバターン半島に築いた守備陣地に後退していた。日本軍はこれを米比軍の敗走と判断し、バターン半島に後退した米比軍の掃討は容易であると考えた。これにより主力部隊は蘭印攻略の為に引き抜かれ、治安警備の為に残された日本陸軍第六五旅団7000人がバターン半島の米比軍攻撃を行うことになった。しかし、バターン半島に立て篭もった米比軍は80000人、さらに半島には二重の防衛線が築かれていた。

バターン半島に進撃した日本陸軍第六五旅団はたちまち米比軍の防衛線に遭遇して大ききな損害を出し、2月中旬には戦力の2/3以上を失っていた。4月3日、戦力を強化した日本軍はバターン半島への攻撃を再開。これより前の3月11日、バターン半島沖のコレヒドール島から米国極東軍司令官マッカーサー大将が脱出しており、バターン半島の米比軍は食料不足も重なって戦意が低下していた。十分な準備砲撃と空爆の後に前進を開始した日本軍の前に米比軍は後退を続けた。11日、日本軍はバターン半島全体を制圧した。14日、日本軍はコレヒドール島への砲撃を開始、5月5日、島に上陸した。守備する米比軍は抵抗したが、6日、コレヒドール島の米比軍が降伏した。バターン半島とコレヒドール島を占領したことで、フィリピン諸島の首都マニラへの脅威は取り除かれた。日本軍はフィリピン諸島を占領した。

ウェーク島・グアム島・ラバウル攻略(昭和16年12月10日~昭和17年1月23日)

中部太平洋方面では米国領グァム島・ウェーク島への攻略作戦が実施された。グァム島に対しては昭和16年12月10日未明、日本陸軍南海支隊がグァム島に上陸、同日中に占領した。ウェーク島に対しては11日、日本海軍陸戦隊が上陸を図ったが高波と強風によって上陸は難航、更にウェーク島米軍砲台からの砲撃により駆逐艦2隻撃沈・輸送船1隻損傷という被害を受け、一旦上陸作戦を中止せざるを得なかった。23日深夜、態勢を立て直した日本軍は再度上陸を企図、米軍は激しく抵抗したが同日夕方降伏。日本軍はウェーク島を占領した。

昭和17年1月23日、先にグァム島を占領した日本陸軍南海支隊が南太平洋ニューブリテン島ラバウルに上陸。同島には豪州軍1400人が守備していたが、3月までには島全体を制圧した。ラバウルは中部太平洋の海軍根拠地であるトラック諸島防衛の為の外郭要地として重視されていた。以後、ラバウルには航空基地が整備され、ソロモン諸島・東部ニューギニアを巡る一連の作戦の拠点となっていく。

蘭印攻略(昭和17年1月11日~3月10日)

蘭印(オランダ領インドネシア)の攻略こそ日本が開戦に踏み切った主要な目的である「南方資源地帯の確保」の中で最も重要であった。当時の蘭印では年間800万キロリットルの石油が生産され、それだけで、日本の年間消費量600万キロリットルを上回っていた。マレー半島・シンガポールの攻略もフィリピン諸島の攻略も全てはこの蘭印攻略を円滑に進めるための事前作戦であった。蘭印はボルネオ島、スマトラ島、セレベス島、ジャワ島及び周辺の島々から成っており、ボルネオ島には石油の大産地であるパレンバンがあり、ジャワ島は蘭印の政治経済の中心であった。

マレー半島攻略、フィリピン諸島攻略が長引いた場合、蘭印方面へ連合軍兵力の集中が進み、蘭印攻略が困難になると考えられた。よってマレー半島・フィリピン諸島攻略をなるべく早く完了する必要があった。しかし「南方作戦」を開始すると、マレー半島・フィリピン諸島での進撃が予想を上回る速さで進行した為、日本軍は作戦日程を約一ヶ月繰り上げた。

マレー半島・フィリピン諸島攻略と平行し、蘭印の中心地ジャワ島周辺の攻略が行われた。昭和17年1月11日~2月10日、ボルネオ島。1月31日、アンボン島。2月20日、チモール島。2月25日、スマトラ島。特に1月11日セレベス島メナドには日本海軍空挺部隊が、2月14日スマトラ島パレンバンには日本陸軍空挺部隊が降下した。パレンバンでは同地にある油田施設をほぼ無傷で制圧した。これにより日本軍はジャワ島攻略に向けた外殻要地攻略を終えた。

ジャワ島スラバヤ港には蘭・英・米・豪州海軍の艦艇計14隻があり、ジャワ島攻略の為にやってくるであろう日本軍艦隊と船団を待ち受けていた。これに対し、日本軍のジャワ島攻略部隊は護衛の海軍艦艇30隻、陸軍部隊を搭載した輸送船95隻であった。2月27日午後、ジャワ島西部を目指す日本艦隊と連合国海軍との間に「スラバヤ沖海戦」が行われた。これは大東亜戦争における最初の艦隊戦闘になった。結果連合国海軍は5隻を失って退却。残存艦艇はオーストラリアに脱出することになった。28日夜半、上陸準備中の船団を護衛していた日本海軍と脱出を図る連合国海軍との間に「バタビア沖海戦」が行われ、連合国海軍は5隻を喪失したが、日本軍も輸送船4隻が沈没した。

3月1日、三方からジャワ島に上陸した日本陸軍第十六軍40000人は同島の中心地バンドンを目指した。ジャワ島の連合軍兵力はオランダ軍25000人、英軍10000人、豪州軍5000人、米軍1000人、現地兵40000人であったが、連合軍は指揮系統が不統一であり、特にオランダ軍は戦意が低かった。またジャワ島は長くオランダの植民地支配下にあり、現地のインドネシア人には連合軍に対する反感があった。その様な状況下でやってきた日本軍に対してインドネシア人は非常に協力的であり、各地で日本軍は熱狂的に歓迎された。7日、ジャワ島の連合国は降伏、10日(陸軍記念日)、日本軍がバンドンに入城した。蘭印攻略は当初もっとも困難が予想されていたが、最も短期間で容易に作戦を終了した。

5000万人のインドネシア人は日本軍を熱狂的に迎え、その後の軍政も第十六軍司令官今村均中将の人徳もあり、南方地域の中では成功した数少ない例となった。またインドネシア国民の親日感は戦後も衰えなかった。