艦内
艦体の上は歩けるように木の板が張られている。艦体の上から内部に入れる階段が設置されている。
艦首の21インチ(533mm)魚雷発射管である。ボーフィン号は艦首に6基、艦尾に4基の魚雷発射管を備えていた。
魚雷発射管の手前は魚雷保管庫となっている。魚雷は24本を搭載していた。
スペースに制約のある艦内は狭く、左右にベットや机などの居住区がある。乗員は士官6名、兵員60名であった。細い通路を通って艦尾方向へと移動できる。
乗組員の居住スペースを抜けると、操舵をコントロールする部屋に出る。壁面には無数の計器類が並んでいる。
エンジンルームである。ゼネラル・モーターズ278A16気筒ディーゼルエンジン4基を装備しており、出力は1,350hp。2軸推進であった。エンジンは左右に2基を備えた部屋が縦に二つ配置されている。最大速力は水上で20.25ノット、水中で8.75ノットであった。
バッテリールームである。潜水艦は海中での位置が敵艦に知られないようにするため、エンジンよりも静粛なモーターを使用して航行した。潜行中は2ノットで48時間航行することができた。
艦尾魚雷発射管である。ボーフィン号は艦首魚雷発射管から魚雷を発射したのち、旋回して艦尾魚雷発射管から再度雷撃を行う戦術をよく取っていたようである。
甲板
艦内を見たあとは、艦尾の出口から艦体の上に出られる。全長は95m、全幅は8.31m、安全潜行深度は120mである。
艦橋よりやや艦尾方向には25口径5インチ砲が1門設置されている。魚雷は高価な兵器で搭載数も限られており、小型船を狙うのには備砲が使われた。
艦橋の艦尾側には40mm機関砲が1基設置されている。
艦橋の艦首側には20mm機銃が1基設置されている。照準器と弾倉は欠落している。
艦橋右舷側には日の丸のマークが描かれている。ボーフィン号は軍艦4隻、ヴィシー・フランスの商船1隻、大型輸送船29隻、500トン以下の小型輸送船10隻を撃沈したと記録している。旭日旗は軍艦を、大きい日の丸は大型輸送船を、小さい日の丸は小型輸送船を表している。
撃沈するたびに日の丸を描いていったのであろう。戦後日本側の記録とボーフィン号の記録を照合した結果、1隻の海防艦と15隻の輸送船の撃沈が確認された。この誇らしげに描かれている日の丸の中の一つは、多くの疎開学童と共に沈んだ対馬丸である。
資料館
日本人捕虜第一号となった酒巻和男少尉の関連品である。酒巻少尉の乗っていた特殊潜航艇は真珠湾に奇襲攻撃を行ったあと、米軍駆逐艦の攻撃や羅針盤の故障で座礁した。
酒巻少尉は潜航艇の鹵獲を防ぐために時限爆弾を仕掛け、脱出したあと失神状態で海岸に漂着していたところを捕まった。当時の軍人は「捕虜になることは恥」と教育を受けており、酒巻少尉は捕虜収容所内で自決を試みた。
しかし寸前で思いとどまり、その後同じく自決をしようとした日本人捕虜の説得にあたり、多くの日本人を救った。そして、終戦後の1946年に復員を果たした。
ベローズ飛行場付近の岩礁で座礁した特殊潜航艇のプロペラである。なお、特殊潜航艇は先端部の魚雷2本を発射したあと搭乗員は脱出することになっており、魚雷そのものに操縦席を設けた回天とは形状は似ているが全くの別物である。
屋外展示
日本軍の特攻兵器の回天である。九三式型魚雷を人が乗り込み操縦できるように改造し、炸薬量は1.55トンで一撃で戦艦をも撃沈できるとされた。しかし、回天が開発された戦争後期は連合国側の対潜能力が上がっており、回天を搭載した潜水艦が射程内に近づくのも難しくなっていため、大きな戦果を上げることはできなかった。
回天の船体の一部は切り取られて内部が見えるようになっている。
米軍の四連装40mm対空機関砲である。それぞれの銃身が一分間に120発を発射することができた。巡洋艦以上のクラスの艦艇に搭載され、単装のものは潜水艦にも搭載された。
50口径3インチ砲である。ボーフィン号の前級であるガトー級の潜水艦の備砲にはこれとほぼ同型のものが使われていた。対空砲としては有用だったが、対艦用としては威力不足であったため、バラオ級ではより口径の大きい備砲が搭載された。