前部最上甲板
米海軍の戦艦「ミズーリ」は、アイオワ級戦艦の第3番艦として、昭和15年(1940年)6月12日に建造発注され、ニューヨーク海軍工廠に於いて昭和16年(1941年)1月6日に起工、昭和19年(1944年)1月29日に進水し、6月11日に就役した。
米海軍アイオワ級戦艦は日本海軍の大和型戦艦と同時期の設計であった。後に空母に改装されてあえない最期を遂げた「信濃」(大和型戦艦第3番艦)と、戦艦「ミズーリ」は同期であり、その同期生とはまったく対照的なその後を歩んだ。
基準排水量48500t、満載排水量53000t、全長270.4m、全幅32.98m、吃水11.58m、最大速力33ノットであり、乗員(士官・兵員)1851名であった。
乗艦してまず目に入るのは巨大な主砲である。
戦艦「ミズーリ」は50口径40.6cm砲9門(3連装砲塔3基)を装備していた。
全長は大和型戦艦より長い。主砲塔側面には湾岸戦争(平成3年・1991年)に従軍した際の記念章が描かれている。
見学順路に従って進むと、右舷前部、艦橋の下に最上甲板より一段高い甲板がある。
昭和20年(1945年)9月2日、当時戦艦「ミズーリ」は東京湾にあり、この場所で大日本帝国全権代表と連合国代表による、日本の降伏調印式が行われた。
現在は、「サレンダーデッキ」として公開され、自由に見学できる。
降伏調印式の際の記録写真等の各種展示が成されている。
降伏調印文書のコピーが展示されている。
文書は2通(日本用・連合国用)とあったが、日本用の文章にはカナダ代表が署名欄を間違えた為、後から訂正した跡がある。
連合国は、この様な不備のある文章を、一国の降伏調印文書として受容れるよう日本に強制した。
甲板には、降伏調印式会場であった事を記念するプレートが埋め込まれている。
後部最上甲板
見学順路に従って進むと、右舷の副砲(38口径12.7cm砲)の横を通る。
戦艦「ミズーリ」は、建造当時、副砲・高角砲兼用として38口径12.7cm砲20門(連装砲塔10基)を装備していた。昭和57年(1983年)、近代化改装の際に、8門(4基)を取外し、現在は12門(6基)が遺されている。
さらに進むと、後部の最上甲板に出る。
第3主砲塔が見える
第3主砲塔の側に、主砲塔の構造を説明した模型が置かれている。
右舷後部、第3主砲塔の横の舷側には、大東亜戦争に於いて、日本軍特攻機による攻撃の痕跡が遺されている。
昭和20年(1945年)3月24日、戦艦「ミズーリ」は米海軍第58任務部隊と共に、沖縄本島周辺に出動し、4月1日から開始されたの米軍の沖縄本島への上陸を、艦砲射撃によって支援していた。
この時、日本軍は「菊水作戦」を発動、 沖縄本島周辺の米軍艦隊に対して特攻機を出撃させた。
昭和20年(1945年)4月11日、日本海軍の特攻機(爆装した 「零戦」)が、戦艦「ミズーリ」に接近し、右舷後方から突入を図った。突入直前、特攻機の主翼が第3副砲塔にぶつかり、機体は海中に墜落した。この特攻機は惜しくも目的を果たせなかった。
この特攻機を操縦していた勇士は、「鹿屋基地」を出撃した第五建武隊の石野節雄二等兵曹であった。
この時、同じく第五建武隊の石井兼吉二等兵曹も突入を図ったが、撃墜され、無念にも突入は果たせなかった。
現在も遺る舷側の凹みが、特攻機が突入した痕跡である。
この時、機体と石野二等兵曹の遺体の一部が甲板上に残った。祖国の危機に際しての自己犠牲的な行為に感動したウィリアム・キャラハン艦長(当時)は、勇敢な日本軍搭乗員を海軍式葬儀をもって弔った。それは、戦艦「ミズーリ」唯一の艦上葬儀であった。
飛行甲板周辺
第3主砲塔の横を通り、艦尾側に進む事が出来る。
第3主砲塔から後ろ前(艦尾側)は、建造時は対空機関砲座と艦載機用の飛行甲板が設けられていた。
近代化改装後は、ヘリコプターデッキが設けられていた。
艦尾にはアメリカ国旗が掲揚されている。
飛行甲板周辺からから左舷側に移動する。
飛行甲板(ヘリコプターデッキ)だった場所は、現在ではテントが張られ、レストランとして営業している。営業時間は昼食時のみのようである。
艦尾から艦体左舷側を見る。
艦上構造物と比較すると艦体の幅が広いのが良く分かる。日本海軍の大和型戦艦にも見られた、昭和期の近代的戦艦(史上最後の戦艦)の特徴であった。
見学順路に従って、左舷後方から最上甲板を艦首側に進むと、艦上構造物を見学する事が出来る。
左舷には内火挺(ランチ)が置かれている。艦体と比較すると遥かに小さいランチだが、それでもある程度の大きさがある。同じランチが、バスを降りて直ぐの「記念館」入口付近に展示されている。
副砲塔周辺
順路に従って、左舷側の艦上構造物のラッタル(階段)を登っていく。
ここでは、副砲塔(38口径12.7cm砲連装)の様子を見学する事が出来る。
副砲塔の基部である。
弾薬庫になっており、上にある副砲塔に砲弾や装薬を運ぶ装置(揚弾機)が装備されている。展示用に装薬(薬莢)も置かれている。内部は立入り禁止であるが、外から見学できる。
更にラッタルを登り、もう一段上のデッキに上がる。
場所としては、第2主砲塔の直ぐ真後ろ辺りである。前方に最上甲板前部(前甲板)が見える。反対(右舷)側の同じ場所は「サレンダーデッキ」である。
左舷側の副砲塔周辺のラッタルを登って、更に上のデッキに移動していく。ラッタルは狭くて急なので足元に注意が必要である。
現在、片舷3基の副砲塔が遺されている。
アイオワ級戦艦の副砲「Mk12 5inch砲(38口径12.7cm砲)」は、高角砲も兼ねており、日本海軍の大和型戦艦が後に副砲2基を取外して口角砲を増設したのと比べると、米海軍では早くから対空防御の必要性を認識していたと言える。
副砲塔内部も外から見学する事が出来る。
発射速度40発/分、砲口初速792.5m/s、最大射程16200m、最大高度11160mであった。
トマホークデッキ
見学順路に従って進むと、「トマホークデッキ」がある。巡航ミサイル「トマホーク」4発を収納する発射台が4基(16発)設置されている。
「トマホーク」の射程は1250~1650kmであった。
第2煙突を挟んで、艦尾側には、対艦ミサイル「ハープーン」が設置され、ミサイル本体と発射を模した展示が成されている。
射程は124 km以上、現在、日本の海上自衛隊も使用している。
戦艦「ミズーリ」は、昭和57年(1983年)の近代化改修に於いて、「トマホーク」32発、「ハープーン」16発、それらの発射装置、管制装置を装備した。
「トマホーク」の発射台(4発)は、第2煙突の後方(艦尾側)にも4基設置され、合計で発射台8基(32発)を装備する。平成3年(1991年)の湾岸戦争では「トマホーク」24発をイラク領内に発射した。
第1煙突である。
第2煙突である。
見学できる「トマホークデッキ」は第1煙突と第2煙突の間に設けられている。建造時、ここには対空機関砲座が設置されていた。
防空指揮所
見学順路に従って進むと更に上のデッキに上がる。左舷側を見ると、「記念館」入口(バス乗場)が見える。既にかなりの高さである事が分かる。
順路の途中に、対空機関砲「ファランクス」が設置されている。発射速度3000発/分であった。
「ファランクス」も近代化改装に於いて装備された。艦橋付近に2基(両舷)、第2煙突(後部艦橋)付近に2基(両舷)が装備されていた。現在、近くから見学できるのは、この左舷前方の1基である。
「ファランクス」の側を通って艦首側に移動すると、防空指揮所に出る。防空指揮所は、対空戦闘時に指揮をとる場所である。
防空指揮所は露天であるが、中央には、厚い装甲で覆われ、トーチカの様な造りをした戦闘指揮所が設けられている。細長い監視窓があり、シャッター式の防弾ガラスが装備されている。
防空指揮所から前部最上甲板を見る。前方には「戦艦「アリゾナ」記念館」が見える。
更に上を見ると、マストやレーダーなどの様子が良く分かる。防空指揮所から上は一般公開されておらず、ここが見学できる場所ではもっとも高い場所となる。
映画「パール・ハーバー」(2001年:アメリカ)では、防空指揮所で戦闘シーンの撮影が行われた。
防空指揮所の下は航海艦橋である。
順路に従ってラッタルを下り、一段下の航海艦橋の内部を見学できる。
航海艦橋
見学順路に従って進むと航海艦橋に入る。
航海艦橋の中央にも、厚い装甲で覆われた戦闘指揮所が設けられている。扉が開いており、外から内部を見学できる。開いた扉から、装甲の厚みがよく分かる。
戦闘時、艦橋には艦長以下幕僚が位置し、操舵、砲戦、通信等の指揮をおこなう艦の中枢部であった。また、戦艦の様な大型艦の場合、艦隊の指揮をとる場合もあった。
戦闘中に艦橋が被弾し、艦長以下幕僚が死傷すると、艦や艦隊の指揮系統が麻痺してしまう。その為、戦闘指揮所を厚い装甲で覆い、戦闘時、艦長以下はその中で指揮をとった。
戦闘指揮所内部には、艦を指揮するための様々な装置が装備されている。
通常の航海時は、戦闘指揮所では不便であるため、航海艦橋から指揮をとった。
航海艦橋から前部最上甲板を見る。
この様な戦闘指揮所は、艦砲による海戦を想定した装備であり、明治時代から、各国戦艦の艦橋に装備されていた。日本でも「記念艦「三笠」(横須賀)」に同様の装備を見る事が出来る。
この様な装備は、この艦が海戦の主役を演じる事を期待されて建造され、かつては戦艦が海の王者であり、海戦の主役だった時代を現在に伝えている。
戦艦を海の王者から引きずり降ろしたのは、日本海軍の「真珠湾攻撃」であり、更に、戦艦に替わって航空機の地位を不動にしたのは、他ならぬ、戦艦「ミズーリ」を建造した米海軍自身であった。
航海艦橋の直ぐ後ろの区画は、チャート(海図)室になっている。現役当時の様子を再現して、チャートやヘルメットなどが置かれている。内部は立入り禁止だが、外から見学できる。
艦橋側面には、これまでの戦歴を物語る記章が描かれている。
艦内各室
最上上甲板と艦上構造物を見学した後、第3主砲塔の前部(艦尾側)から、艦内に降りることが出来る。
写真の屋根が艦内に降りる階段の入口である。
艦内に降りると、まず兵員食堂がある。
兵員食堂は、椅子やテーブルの間隔が広く取られ、カフェテリアの様な雰囲気である。椅子やテーブルは壁や床に固定されており、艦が衝撃を受けても倒れないようになっている。
兵員食堂には、飲み物のサーバーが設けられおり、兵員が自由に飲めるようになっていたようである。
これらは、現役当時のままを再現するために、当時のまま展示されている。当然、現在では機能していないので、勝手に飲もうとしてはいけない。
兵員食堂の各所には、現役時代の写真が多数展示されている。戦艦「ミズーリ」の長い戦歴を物語っている。
兵員食堂の一部が資料室になっている。
ここでは、戦艦「ミズーリ」が建造されてから退役するまでの歴史が、写真と資料と共に展示されている。大東亜戦争に従軍した際の写真や関連品も展示されている。
見学順路に従って進むと、別な資料室が設けられている。
ここでは、米海軍士官の歴史に関する展示が成されている。
艦内のこの周辺は、士官居住区であったようであり、士官食堂が保存され、展示されている。
士官食堂には、各個人専用のカップが置かれている。カップは官給品のようであるが、それぞれに氏名が記されている。
士官食堂は、くつろげる雰囲気の兵員食堂とは違い、整然とした雰囲気がある。椅子は固定されていないが、隙間は広くない。
見学順路に従って進むと、調理場(烹炊所)や配膳室がある。艦内のこの周辺は炊事関連の場所だったようである。 尚、艦の外にあるギフトショップでは、当時艦内の調理場で使用されていた調理マニュアルの複製品を売っている。
食料貯蔵庫である。内部には缶詰や野菜の箱が置かれているが、展示用のダミーである。
配膳室である。現役時代は、ここにお盆を持った将兵が並び、配膳を受けた。
更に進むと、下の区画に降りる防水扉がある。
この下は立ち入り禁止である。機関室に通じており、戦闘中はこれを閉ざし、浸水による被害を局限した。艦内は全ての区画が公開されている訳ではないが、公式の艦内ツアー(有料)に申し込めば、一般見学では公開していない区画を見学する事ができる。
(詳細は公式HP)
ここにベーカーがある。1851名分のパンを焼くのは大変であったろう。
工作室である。
艦内である程度の機械工作が出来るように、各種工作機械が備えられていた。取扱いは専門の工員が担当した。
先任伍長(Command Master Chief)の執務室である。
先任伍長とは、上級下士官として、部隊内の規律・士気の維持に努める役職である。模範的な下士官から選ばれた。
艦内各室艦内各室艦内郵便局である。
現在は営業していない。
見学順路に従って進むと、一段上の区画に登る。ラッタルを登ると、ここにも防水扉がある。
この区画は、最上甲板と同じ高さである。
資料展示
戦艦「ミズーリ」模型が展示されている。
これ以外にも模型が展示されており、建造時の様子や近代化改修後の様子がよく分かる。
館内展示の最後は、大東亜戦争に関する大掛かりな展示が成されている。
第二次世界大戦に於ける、各国のプロパガンダポスターである。
各国が様々な主張を様々な手法で伝えようとしていたのが分かる。戦争とは国家の利害の対立であり、様々な立場からの見方がある。
戦艦「ミズーリ」に関する展示もあるが、主として大東亜戦争に関係しており、連合国が勝利して世界平和をもたらし、戦艦「ミズーリ」は、その一翼を担ったという内容である。
沖縄本島に於いて、戦艦「ミズーリ」に突入しようとして果たせなかった、石野節雄二等兵曹の写真である。
特攻機 (「零戦」)の残骸が展示されている。
米国では、国家の危機に際し、殉じた兵士や人々を手厚く弔い、敬っている。これは世界のどの国家でも当然の事である。
現代の日本人は、かつて未曾有の国難に対して、その身を犠牲にして国を救おうとした数多の英霊に対して、如何なる弔いを出来ているのあろうか。