ヒッカム米空軍基地の戦跡一覧
記念碑・A26(インベーダー)
ヒッカム飛行場は真珠湾基地群を構成する施設の一つであり、約11.5平方kmの敷地面積を持つ。飛行場の名称は航空隊創世期に航空機の持つ潜在能力を強く主張したHorace Meek Hickam中佐にちなんで名付けられた。滑走路は基地に隣接するホノルル国際空港と共用している。
基地中央付近のロータリーの国旗掲揚台である。
第二次世界大戦期に米陸軍航空隊に身を捧げた全ての兵士を称える記念碑である。
台座の上の飛行機は真珠湾に配備されていた主力戦闘機「P-40(ウォーフォーク)」の模型である。
「P-40」の機動性は「零式艦上戦闘機(零戦)」よりもはるかに劣っていた。しかし、真珠湾攻撃の際、エースパイロットのテイラー中尉とウェルク中尉は「零戦」を計5機の日本軍機を撃墜した、と主張している。
「P-40」の周囲にはたくさんの記念碑が設置されている。
真珠湾攻撃の際にヒッカム飛行場で戦死した将兵の名を刻んだ戦没者記念碑である。
ロータリーの外側に「A-26(インベーダー)」が展示されている。
「A-26」は米陸軍の双発軽爆撃機であり、第二次世界大戦から朝鮮戦争、ベトナム戦争まで通して使用された唯一の軍用機である。
「A-26」が最初の戦場に投入されたのは昭和19年(1944年)夏のことである。ニューギニア戦線の日本軍が占領していた島への爆撃が初陣であった。しかし、翌年には終戦を向かえたため、大東亜戦争ではあまり活躍の機会はなかった。
「A-26」は様々な型が製造され、輸出されて各国で運用された。最後の機体は1980年でコロンビア空軍で退役したものであった。
展示機は「RB-26C」という型であり、「B-26C(マローダー)」の武装を外して写真機と夜間撮影用の照明弾を搭載した偵察機型である。
この機は第67戦術偵察部隊に配属され、朝鮮戦争時にはソウルの金浦飛行場に配備されていた戦歴を持つ。
「記念碑・A26(インベーダー)」の歩き方
ヒッカム飛行場は軍事施設であり、一般人の立ち入りは禁止されている。しかし、現役の米軍人に知り合いがいて案内してくれれば、特に審査などはなくゲートを通過することができる。
ロータリーはほぼ基地の中央に位置する。記念碑はロータリーの中に、「B-26」はロータリーの北西側にある。
司令部・格納庫
ロータリーを挟んで「A-26」の反対側に位置するこの建物は、昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃時に「Big Barracks」と呼ばれた兵舎として使われていたものである。現在は太平洋方面空軍の司令部となっている。
12月7日の早朝(現地時刻)、6隻の日本空母「赤城」「加賀」「翔鶴」「瑞鶴」「蒼龍」「飛龍」から350機の艦載機が2派に分かれて発進した。
建物前の説明板にはこの建物がどのように使われていたか、日本軍機がこの建物にどのような経路で攻撃を行ったかが説明されている。
183機からなる第1次攻撃隊はオアフ島の北230海里から06:00に発進し、続いて167機からなる第2次攻撃隊は200海里北から07:30に発進した。
攻撃隊の主要目標は真珠湾に停泊する米戦艦群であったが、米軍の迎撃機の発進を防ぐために飛行場にも攻撃が加えられた。
建物は当時の滑走路のすぐ脇に位置していた。壁面には無数の弾痕が遺されている。
弾痕の中には機銃弾だけでなく、爆弾の破片が当たったと思われる大きいくぼみも遺されている。
第1次攻撃隊の9機の「九九式艦上爆撃機(99艦爆)」と第2次攻撃隊の27機の「九七式艦上攻撃機(97艦攻)」がヒッカム飛行場の攻撃に割り当てられた。
「瑞鶴」からまさに飛び立たんとする「97艦攻」である。この機は第2次攻撃隊として陸用爆弾を装備し、ヒッカム飛行場を攻撃に向かった。
「零式艦上戦闘機(零戦)」の任務は米軍の迎撃機から爆撃機・攻撃機を護衛することであった。しかし、迎撃機がほとんど離陸できなかったたため、のちに「零戦」も対地攻撃に加わった。
司令部の裏手には格納庫がある。
この写真はヒッカム飛行場上空を飛行する「翔鶴」所属の「97艦攻」である。
さきほどの写真のマーク部分を拡大したものである。司令部と格納庫が写っている。司令部は上空から見るとカタカナの「キ」の字のような特徴的な形をしている。建物からは黒煙が立ち上っている。
格納庫は大型機も収容できそうな大きなものである。
真珠湾攻撃時、米軍機のほとんどは掩体壕に入れられておらず、駐機場に並べられているだけであった。米軍は掩体壕などを準備しなくてはならないほど日本軍の攻撃の可能性が高いとは考えていなかったのである。
当時オアフ島の各飛行場には総計約400機の米軍機が配備されていた。しかし、日本軍機の攻撃によって188機が破壊され、155機が損傷した。
空襲の直後に撮影された格納庫である。建物各部に損傷の跡が見られる。
格納庫外観は空襲直後のものと極めて似ている。修復されて今日まで使われているものと思われる。
「司令部・格納庫」の歩き方
司令部・格納庫司令部・格納庫司令部はロータリーのすぐ南側にある。
格納庫はロータリー側から見て司令部のすぐ裏手にある。
ジェット戦闘機
4機のジェット戦闘機が展示されている。
この「F-86E(セイバー)」の最初の型が飛行したのは終戦直後の1947年であった。
他にF-15A(イーグル)、F-4C(ファントム)、F-102A(デルタダガー)が展示されている。
展示内容詳細
・F-15A(イーグル)
・F-4C(ファントム)
・F-102A(デルタダガー)
・F-86E(セイバー)
「ジェット戦闘機」の歩き方
ジェット戦闘機ジェット戦闘機ロータリーからWorthington Ave.を南西へ。
ジェット戦闘機は道の左側に展示されている。
バリー・チャンドラー砲台跡(Battery Barri/Battery Chandler)
海軍の一大拠点であった真珠湾を防衛するため、1900年代初め頃から真珠湾入口付近に砲台群の建設が始まった。現在のヒッカム空軍基地の敷地内に建設された砲台群はカメハメハ要塞と呼ばれた。
真珠湾の入口のこの場所には、かつて4.7インチ砲を備えたバリー砲台と3インチ砲を備えたチャンドラー砲台があったが、現在は既に取り壊されている。
砲台があった場所は現在はジェット戦闘機をかたどったモニュメントが立てられている。
バリー砲台は南北戦争で戦死したThomas O Barri大尉にちなんで名付けられた。また、チャンドラー砲台は飛行機事故で死亡したRex Chandler中尉にちなんで名付けられた。
ここから南側に真珠湾の入口となる細い水道を見ることができる。
水道は北側の内陸に向けて深く食い込んで広がっている。向こう側には海軍艦艇が停泊しているはずである。
「バリー・チャンドラー砲台跡(Battery Barri/Battery Chandler)」の歩き方
ロータリーからWorthington Ave.を南西へ。Worthington Ave.は左に曲がっていくが、このすこし手前の左手に駐車場がある。
駐車場から少し南へ歩くと水道に出るが、飛行機のモニュメントは水道沿いに立てられている。
ハスブルック砲台(Battery Hasbrouck)
真珠湾の水道入口に遺されているハスブルック砲台は明治42年(1909年)から大正3年(1914年)にかけて建設された。砲台は南北戦争時代のHenry Comelius Hasbrouck将軍にちなんで名付けられた。砲台は射程13.7kmの8門の12インチ臼砲を装備していた。
砲台にはそれぞれ4つの砲架を持つ2つの砲座がある。円形の砲架にはそれぞれ12インチ臼砲が設置された。
それぞれの砲座は三方を防護壁で囲まれている。防護壁はカタカナの「ヨ」の形をしており、砲座は「ヨ」の内側に隣同士に並べられている。この構造はダイアモンドヘッド近くのルージャー要塞ハーロウ砲台と同じ構造である。
指揮所が防護壁の中央に設けられている。臼砲からは防護壁に直接の視界が遮られるため、指揮所から射撃指示が必要であったと思われる。指揮所からは両方の砲座が見下ろせる。
ここから海に向けて南側を見たところである。防護壁の高さは6m程度であり、遠くを見渡せるほどの高さではない。
防護壁はコンクリートで作られ、土が上を覆って植物が生えている。防護壁の中は弾薬庫や兵舎として使われたと思われる部屋が設けられている。防護壁の上にはこれらの部屋から伸びる換気口がところどころに設置されている。
看板に12インチ臼砲が運用されている当時の写真が展示されている。1930年代のものである。
防護壁内へ通じる扉には鍵がかけられているが、一部鍵がかかっていない扉があり、中へ入ることができた。
防護壁内部は外部からは光が全く入らないため、懐中電灯がなければ真っ暗闇である。これは換気装置のようである。
コンクリート壁が分厚く気密性が高いためか、ダクトが各部屋に通されている。内部はこのような小さな部屋に分かれている。
郵便受けのようである。
トイレであるが、ドアは失われている。洗面台が隣にある。
「ハスブルック砲台(Battery Hasbrouck)」の歩き方
ロータリーからVickers Ave.を南へ。Fort Kam Rd.で左折する。この道に入って800mほど行くと、右手側に林がある。
この林の向こう側は開けたグラウンドのようになっており、砲台はこのグラウンドの西側にある。
ホーキンス砲台(Battery Hawkins)
ホーキンス砲台は昭和16年(1941年)に建設された。南北戦争時代の将軍Hamilton Smith Hawkinsにちなんで名付けられた。
海側から見ると、砲台は草に覆われた単なる土山のようにしか見えない。
砲台の中央には監視所があり、両側には砲座がある。鉄製の構造物が遺されている。
内部には折れたコンクリート柱のみが遺されている。測距儀か観測鏡を据え付ける台だったのであろうか。
それぞれの砲座には円形の鉄製の砲架が遺されている。
砲座の後ろに階段が取り付けられており、砲台の上に登ることができる。ここの砲座には射程5500mの3インチ砲が設置されていた。
砲台のすぐとなりにもうひとつ土山がある。
土山の後ろに回りこむと入口があり、この土山がコンクリート製の建物を覆っていたことが分かる。砲台のための弾薬庫だったと思われる。
「ホーキンス砲台(Battery Hawkins)」の歩き方
ロータリーからVickers Ave.を南へ行き、Fort Kam Rd.へと左折し、Seaman Ave.を右折する。Seaman Ave.に入って800mほどの右側に砲台がある。
砲台は砂浜のすぐ手前に位置する。
ジャクソン砲台(Battery Jackson)
ジャクソン砲台は大正2年(1913年)に建設された。南北戦争時代のRichard H Jackson将軍にちなんで名付けられた。
ここには射程13.7kmの6インチ砲2門が設置された。普段は掩体の中に隠されており、射撃時に外に展開した。
掩体に加え、大正4年(1915年)には対空用のシェルターが増設された。
砲台のすぐ近くにあるのは第201戦闘通信集団の建物である。
ここは開放式格納庫の近くであり、駐機している戦闘機を見ることができる。
「ジャクソン砲台(Battery Jackson)」の歩き方
ロータリーからVickers Ave.を南へ行き、Fort Kam Rd.へと左折し、Seaman Ave.を右折する。Seaman Ave.からさらにHarbor Dr.に左折して200mほどの右手側に砲台がある。
砲台はフェンスを挟んで駐機場のすぐ隣に位置する。
セルフリッジ砲台(Battery Selfridge)
セルフリッジ砲台は明治40年(1907年)から大正2年(1913年)にかけて建設された。Thomas Etholen Selfridge中尉(1882-1908)にちなんで名付けられた。
ここには射程27kmの12インチ砲2門が設置された。砲は通常掩体の中に隠され、射撃時に外に展開した。
現在は砲台の上に木が生い茂っている。
この砲台に設置された12インチ砲が射撃する瞬間を捉えた写真である。
「セルフリッジ砲台(Battery Selfridge)」の歩き方
ロータリーからVickers Ave.を南へ行き、Fort Kam Rd.へと左折し、Seaman Ave.を右折する。Seaman Ave.からさらにHarbor Dr.に左折して400mほどの左手側に砲台がある。
クロッソン砲台(Battery Closson)
クロッソン砲台はカメハメハ要塞の砲台群の中では最後の大正9年(1920年)に建設された。南北戦争時代のHenry Whitney Closson将軍(1834-1917)にちなんで名付けられた。
この砲台は厚さ6mの防護壁に囲まれた2つの砲座を持っていた。砲座は地面から9m掘り下げられていた。建設当初は無蓋の砲台であった。砲台西側の砲座である。
砲座にはそれぞれ射程27kmの12インチカノン砲が設置され、砲は当時最新式の360度回転可能な砲架に載せられていた。東側の砲座である。
昭和17年(1942年)にコンクリート製の天蓋が建設され、現在の形式となった。空襲からこの砲座を守るための対空陣地も追加で建設された。この写真は天蓋が追加される前に撮影されたものである。
「クロッソン砲台(Battery Closson) 」の歩き方
砲台は2本の平行滑走路の間に位置する。ロータリーからVickers Ave.を南へ行き、Fort Kam Rd.へと左折、Seaman Ave.右折、Harbor Dr.を左折する。Harbor Dr.はホノルル国際空港の誘導路の下をくぐって東へと続く。Harbor Dr.は途中でWorchester Ave.に名前が変わる。
砲台は誘導路をくぐってから800mほどのところの左手側にある。