バリ島東部

大東亜戦争におけるバリ島の歴史
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バリ島東部の戦跡一覧

クルンクンのゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕)

ギャニャール(Gianyar)からスマラプラに通じる道沿い(クルンクン県)に「日本軍防空壕」が遺されている。

道の南側は高さ10mほどの崖となっており、崖の上には建物が建っている。

ゴアとはインドネシア語で防空壕を意味する。

道に沿って、ほぼ等間隔に14ヶ所の入口が開いている。

左端(東端)の入口である。

入口付近の高さは1m程であり、かがめば中に入れる程である。入ると少し下り坂になっている。

入口付近は右に曲がり、直後に左にがっている。
入口への至近弾の爆風が直接中に吹込まないようにする構造である。

入口付近を過ぎてすぐ、天井は大人が立って歩ける程の高さとなる。左端の入口から数m進むと、右に曲がりながら続いている。

「防空壕」の奥には、中央に大きい通路(中央通路)が通っている。

中央通路はかなり広く、幅は5m程である。

左手には小部屋が設置されている。

小部屋は5mほどですぐに行き止まりとなっている。

右手には左から2つ目の入口から通じる通路がある。外から光が差し込むため、目が慣れてくると少し周囲が見えるようになってくる。

「防空壕」全体の見取り図である。

中央通路に14ヶ所の入口がそれぞれ接続されている。入口の反対側には小部屋が7ヶ所ほど設置されている。空襲を受けたときに、多くの人数を短時間で壕内に避難させられるように、このような多くの入口が設置されたのではないだろうか。

右端(西端)の入口である。

「防空壕」の右側(西側)は少しカーブしているためか、入口から光は入らずに真っ暗である。また、土砂が堆積しているために歩きづらい。

こちら側にも同様に小部屋が設置されている。

「クルンクンのゴアジャパン(Goa Jepang 日本軍防空壕)」の歩き方
ギャニャール(Gianyar)の中心街を通るJalan Ngurah Rai-Gianyar通りを東へ道なりに進む。
通り名はJalan Astina Timur、Jalan Turikup、Jalan Letnan Dua Ida Bagus Pujaと名前が変わっていく。

ギャニャール中心街から8kmほどのところにBanjarangkan村があり、峡谷にかかる橋を挟んで反対側にTakmung村がある。

この峡谷にかかる橋のすぐ手前の右手側(南側)、道路沿いに防空壕の入口が並んでいる。

バドゥン海峡(レパンビーチ)

昭和17年(1942年)2月18日、日本軍艦隊のバリ島接近を察知した連合軍は、上陸阻止のためジャワ島から巡洋艦3隻・駆逐艦7隻を出撃させた。一方、日本軍はバリ島攻略部隊を乗せた輸送船2隻を駆逐艦4隻が護衛していた。双方は2月19日深夜から20日未明にかけて、「バドゥン海峡」で激突した。
「バリ島沖海戦」である。

撮影場所はクルンクンの「レパン・ビーチ(Lepang Beach)」である。

右側(南西)にはバリ島攻略部隊(今村支隊)が上陸した「サヌール海岸」が見える。

左手前方(南東)に見えるのはペニダ島である。
ペニダ島の手前にはより小さいレンボガン島とチュニガン島があるが、ここからではよく見えない。

海峡は狭いところで幅10kmほどである。

「バリ島沖海戦」の結果は、日本軍艦隊が駆逐艦が1隻大破・1隻小破に対し、連合軍艦隊は駆逐艦1隻沈没・巡洋艦1隻中破・駆逐艦1隻小破であった。
圧倒的に優勢な戦力を持っていた連合軍艦隊は、大きな損害を出した上に、日本軍のバリ島上陸を阻止できなかった。
戦闘は戦略的にも戦術的にも日本軍の大勝に終わった。

「バドゥン海峡(レパンビーチ)」の歩き方
バドゥン海峡(レパンビーチ)撮影地点はスマラプラ(Semarapura)南の「レパン・ビーチ」である。

スマラプラ(Semarapura)中心部からJalan Puputan通りを南へ進む。

道なりに進むとJalan Raya Tojan通りと名前が変わるが、この道をさらに南下して海岸に出たところが「レパン・ビーチ」である。

サヌールビーチ(サヌール海岸)

日本軍は「蘭印攻略」の最終目標のジャワ島の攻略に先立って、「バリ島攻略」を計画した。バリ島には蘭印軍が飛行場(「デンパサール飛行場」)があり、これを占領してジャワ島周辺の制空権の奪取を狙ったのである。攻略部隊に選ばれたのは今村支隊の1個大隊であった。輸送船2隻に分乗した今村支隊は、昭和17年(1942年)2月18日未明、マッカサル泊地を出発し、翌19日深夜、サヌール泊地に進入した。

現在の「サヌール・ビーチ」である。

付近には浅瀬が広がっており、上陸には適した地だったであろう。

「サヌール・ビーチ」のあるサヌールは、バリで最も古くから開発されたリゾート地である。
1930年代から欧州やアメリカの芸術家が好んで滞在していた。

付近にはリゾートホテルが立ち並ぶ。

現在、「サヌール・ビーチ」はきれいに整備されている。

正面にはペニダ島が見える。
ペニダ島は、「サヌール・ビーチ」から「バドゥン海峡」を挟んで20km程沖合いである。

昭和17年(1942年)2月19日未明、バリ島攻略部隊(今村支隊)を乗せた日本軍輸送船2隻は、上陸阻止を狙う連合軍艦隊の到着前に「サヌール海岸」への上陸を完了させた。
バリ島の蘭印軍守備隊は既にジャワ島方面へ撤退していたため、上陸に際して抵抗はなく、今村支隊は上陸当日(19日)中に「デンパサール飛行場」を占領した。
また、連合軍艦隊と日本軍艦隊の間で起こった 「バリ島沖海戦」も日本軍の勝利で終わった。

「サヌールビーチ(サヌール海岸)」の歩き方
サヌールビーチ(サヌール海岸)リゾートホテルの立ち並ぶサヌール地区である。
「デンパサール国際空港」からはタクシーで20分ほど。

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