都としての京都の歴史は、桓武天皇による784年の長岡京、続いて794年の平安京への遷都に始まる。平安京は長方形の区画を持つ計画都市として設計され、このときの東西南北に引かれた碁盤の目の道は現在の京都の街並みに受け継がれている。平安京の中央に配置された京都御所は、明治2年(1869年)の東京行幸まで歴代天皇の居所・執務所であった。
京都府の人口は約263万人、うち京都市には約147万人が居住しており、これは日本の都市としては6番目の人口である(2011年現在)。市内の西側には桂川が流れ、市内上流の嵐山の桜並木や紅葉は多くの観光客で賑わう。また、市内東側には鴨川が流れ、川沿いの各飲食店は夏になると川の上に張り出した「川床」に座敷を設置し、夏の風物詩となっている。
京都伏見はかつて陸軍歩兵第十六師団が司令部を構え、歩兵第九連隊や野砲兵第二二連隊などが駐屯する軍都であった。陸軍歩兵第十六師団(垣兵団)は明治38年(1905年)7月18日に創設された。基幹連隊は歩兵第九連隊(大阪)・歩兵第二十連隊(福知山)・歩兵第三三連隊(三重)であった。後に第九連隊が京都へ、第三三連隊が奈良に移動した。前年の日露戦争に於いて歩兵第九連隊と歩兵第三三連隊は陸軍歩兵第四師団所属として満州での戦闘に参加した。
師団は昭和12年(1937年)の支那事変勃発時、中支戦線を転戦し南京攻略作戦に参加し、徐州、大別山を経て、武漢攻略戦に於いても活躍した。その後、昭和14年(1939年)には師団長として石原莞爾中将(当時)が就任した。
大東亜戦争開戦時は本間雅晴中将指揮下の第十四軍隷下の部隊としてフィリピン諸島ルソン島に上陸。同島バターン半島の米軍を駆逐しフィリピン諸島占領を果たした。その際、師団はバターン半島において大きな損害を庫被ったが、敵将マッカーサー将軍は命からがら豪州に遁走した。
「南方作戦」終了後、師団はフィリピン諸島警備の為ルソン島に駐留することになった。しかしながら、やがて戦局が悪化、昭和19年(1944年)3月30日~31日、パラオ諸島が米軍艦載機の大空襲を受ける。主戦線より1000キロも後方の補給基地が空襲を受けるに至り、フィリピン諸島防衛を担う陸軍第十四方面軍は同島の防衛強化を決定。隷下の師団に対して4月5日レイテ島進出命令が出される。レイテ島はフィリピン諸島のほぼ中央に位置し、太平洋に面している為、防衛上重要な島であった。
大本営の策定した「捷一号作戦」ではフィリピン諸島に米軍が来襲した際はルソン島で決戦を行うことになっていた。これに大きな影響を与えたのが、昭和19年(1944年)10月10日~15日に行われた「台湾沖航空戦」である。この「台湾沖航空戦」の誤認戦果により、大本営は敵上陸軍撃滅の可能性在りと判断。果たして、10月17日、レイテ湾に侵入した米海軍第7艦隊がレイテ島東岸に艦砲射撃を開始、20日には米陸軍第10軍団、第24軍団が上陸を開始した。
これに対して、大本営は「捷一号作戦」を発令。そしてその決戦の場をレイテ島とし、現地の陸軍第十四方面軍に対して兵力投入を指示したのである。 その後のレイテ決戦の結末は周知の通りである。逐次投入された歩兵第一師団や歩兵第二六師団は、レイテ島が放棄されるまで戦いつづけることになった。
米軍上陸の正面戦線を防衛した陸軍歩兵第十六師団は激しい艦砲射撃や上陸した米陸軍の圧倒的な火力によって甚大な損害を受け、防衛線は瓦解。残存兵力は島中央部の山岳地帯に圧迫され、以後友軍からの連絡・補給も途絶。終戦まで絶望的な戦闘を続けた。なお、牧野師団長は昭和20年8月10日自決した。
レイテ島には84000人の兵力が投入され、そのうち戦後生きて祖国の土を踏むことが出来たのはわずか2500人である。陸軍歩兵第十六師団は当初18000人の兵力を有していた。内、生還者は580人である。かつて京都深草・伏見に駐屯した陸軍歩兵第十六師団は名実共に壊滅し、輝けるその歴史に幕を閉じたのである。
第十六師団司令部の建物は現在も聖母女学院の校舎として保存・利用されている。また、当時、師団駐屯地と練兵場をつないでいた軍用道路は「第一軍道」という通り名のまま現在も残っている。この軍道の周囲には、軍に関係する記念碑・石碑が多く遺されている。