アサン(Asan)沿岸の戦跡一覧
日本軍防空壕
「アデラップ岬」の少し内陸側に「日本軍防空壕」が遺されている。
「壕」の見取り図である。この場所には3つの「壕」(左から「A豪」「B壕」「C壕」とする)が並んでいる。「壕」内の撮影場所と方向が分かるように、以降数字を壕内図と対応させる。
道路から草木をかき分けて斜面を少し登ったところに、よく見ると穴が開いている部分が見える。「①」
「A壕」の左端の入口である。「②」
入口からの通路はかがんで通れるほどの高さしかない。「③」
通路を抜けると広い空間が広がっている。「A壕」内の右側である。「④」
日本軍防空壕日本軍防空壕「A壕」内左側である。「⑤」
先ほどの入口からさらに左側にも通路がある。しかし、途中で土砂で完全に埋もれてしまっている。「⑥」
「A壕」の真ん中の入口である。かろうじて入口が見えているが、土砂が堆積しておりとても通ることはできない。「⑦」
「B壕」の左側の入口に入り、外側を向いたところである。こちらの通路はきれいに面が取られている。「⑧」
「B壕」内右側である。内部は土砂がかなり堆積している。「⑨」
左側はすぐ行き止まりとなっている。しかし、位置的にこの向こう側に「A壕」の空間があるはずである。元はつながっていたが、崩落で分離してしまったのかも知れない。「⑩」
「B壕」内から右側の入口外側に向けて取ったところである。こちらは埋まってはいないが、草木がかなり濃く生い茂っており、ほとんど光が入らない。「⑪」
「B壕」の右端の壁である。こちらも位置的に向こう側に「C壕」があるはずである。「⑫」
「B壕」内には空き缶や瓶が散乱していた。空き缶はバドワイザーであり明らかに戦後のものであるが、瓶の方は詳細不明である。「⑬」
「C壕」の入口である。かろうじて緑の薄いところが入口であると分かる。「⑭」
「C壕」内へ通じる通路である。「⑮」
「C壕」の右側は崖が後退しているため、「C壕」はあまり広くないと思われる。「⑯」
「日本軍防空壕」の歩き方
タモン地区からは1号線をハガニア方面へ。
ハガニアのロータリー(大酋長キプハの像)で左折し、4号線へ入る。ロータリーから500mほどのところにある33号線を右折する。200mほどでT字路があるが、ここは直進する。T字路から道の名前はWest O’Brien Drとなる。
West O’Brien Drを2kmほどいった左手にapecと看板の出た建物がある。ここの建物の左側の駐車場から草地を登ったところに「A壕」の左の入口がある。
アデラップ岬の四十五口径十年式十二糎高角砲・トーチカ
「アデラップ岬」にはガバナーズオフィスがあり、ここには 「四十五口径十年式十二糎高角砲」と「トーチカ」が遺されている。 「高角砲」は西側の広場に設置されている。
本砲は、大正後半(1920年代)~昭和初期(1930年代)に於ける日本海軍の主力高角砲として、竣工時の重巡洋艦や航空母艦(「赤城」「加賀」)等の各種艦艇に搭載された。
航空機の発達と共に本砲は次第に旧式化していった。しかし、高角砲としては比較的軽量(単装砲架は8t弱)であり、製造が容易であった。そのため、本砲の後継である「四十口径八九式十二糎七高角砲」が制式採用された後も製造され続けた。大東亜戦争後期には多数の本砲が陸上砲台・沿岸砲台において運用された。
砲身の中ほどのところに損傷がある。直撃弾を受けたのだろうか。
正面から見ると、砲身の損傷部から左に少し折れ曲がっているのが分かる。
俯仰角は+75度(仰角)から-10度(俯角)に俯仰可能であり、高低照準用ハンドルは砲架右側に位置した。
「高角砲」のある広場から岬の先端方向に行くと、旧グアム博物館がある。大きな塔につながった丘の上の建物が博物館であったが、平成14年(2002年)の大型台風で大きく損傷し、平成22年(2010年)現在も閉館したままである。
旧博物館のある丘に日本軍によって掘られた「壕」が残っている。
「壕」の奥行きは浅く、5mほどである。
「アデラップ岬」の東側の崖を降りていくと、「トーチカ」が2つ遺されている。1つ目は戦後作られたと思われる石垣の内側にある。
銃眼は同じ面に大小二つ開いている。
内部はかなり広く、奥行きがあるようである。周辺を見ても入口らしきものは見当たらない。ガバナーズオフィスが建設されたときに周辺も整備されたようであり、そのときに埋められてしまったのかも知れない。銃眼から中を見た限りでは奥の方は崩落しているように見える。
正面にはハガニア湾が広がっており、さらにその奥にはオンワード・ビーチ・ホテルなどのリゾートホテルが見える。
さらに海岸沿いに岬の先端方向に回りこむと、もうひとつの「トーチカ」がある。天然の岩盤を利用して作られたものであるようである。
こちらの銃眼はさきほどのものより小さめである。
銃眼から横に回りこむと、コンクリート壁で内部を囲っている構造となっているのが分かる。こちらの「トーチカ」も入口は潰されてしまったのか見当たらない。
コンクリート壁には銃眼らしきものが開いていた形跡がある。今はセメントのようなもので埋められてしまっている。
「アデラップ岬の四十五口径十年式十二糎高角砲・トーチカ」の歩き方
タモン地区からは1号線を南西へ。
ハガニアから更に3kmほど行ったところに6号線との交差点がある。この信号を右に曲がるとガバナーズオフィスの駐車場に出る。
「四十五口径十年式十二糎高角砲」は駐車場から左手の坂を上ったところに遺されている。
一方、「トーチカ」へは、まず駐車場から見て右手のゲートをくぐる。ゲートからすぐのところの小道から海に出られるので、ここから階段を下りていく。
海岸沿いを岬の先端方向に少し歩いたところに「トーチカ」が2つ遺されている。
九五式軽戦車・日本軍火砲
「アデラップ岬」付近の民家の庭に日本軍の 「九五式軽戦車」が遺されている。
「九五式軽戦車」は軽快かつ故障の少ない主力軽戦車として終戦まで使用された。本車は歩兵支援を目的に開発されたが、予算面の制約等により 軽戦車として開発された。
砲塔後部と車体前面に車載銃(「九七式車載重機関銃」)をそれぞれ装備していた。
機動力と信頼性の高さには定評があり、対戦車戦闘以外にも偵察・連絡にも多用された。昭和14年(1939年)の「ノモンハン事件」に於いては、本車の機動力と戦車兵の練度の高さで辛くもソ連軍戦車に対抗できた。
装甲は砲塔外周および車体前面でも12mm、車体上面後部は6mmと薄かった。
主砲の口径も37mmと小さく、重量は7.4tである。
大東亜戦争後半は本質的な火力・防御力不足を機動力や戦車兵の練度で補う事も限界となってきた。連合軍の反撃が開始されると共に出現した「M4中戦車(シャーマン)」に対しては、最早 「九五式軽戦車」の火力・防御力を以ってしては成す術は無かった。
「九六式二十五粍高角機銃」である。単装・連装・三連装とあり、単装は一人の銃手が上下左右の操作・照準を行う。これは単装である。
口径は25mm、銃身長は1.5mの60口径である。初速は900m/s、有効射程距離は3000mであった。
本銃は終戦まで各種艦艇・船舶の固定式対空機関砲として幅広く装備された。また、陸上の陣地に於いても対空・対地用として使用され、特に大東亜戦争末期の島嶼防衛に於いては米軍と死闘を演じた。
「改造三八式野砲」である。
日露戦争当時にロシア軍の野砲に対抗するため急遽ドイツのクルップ社に注文したのが当時の最新鋭だった「三八式野砲」である。しかし、第一次大戦において火砲は飛躍的に進歩し、「三八式野砲」は旧式化していった。
そのために更新が求められたが、経済的、時間的理由から改造と決定されたのが本砲である。
砲弾を装填した後に閉める「尾栓」は、スライドさせて閉める「水平式」である。強度はネジを締めるように閉める「垂直式」に劣るが、すばやく閉められるため、速射性(発射までが早い)が高かった。砲身尾部の右上のハンドルは、尾栓を開閉するためのものである。また、「三八式野砲」は改造されて脚が一本から二本となった。脚の形状からこれは「改造三八野砲」であると分かる。
日本陸軍の速射砲(対戦車砲)の「一式機動四十七粍速射砲」である。
本砲は射撃試験に於いて「M3軽戦車(スチュアート)」を1000mの距離から撃破可能であり、大いに期待された。しかしながら、本砲が部隊に配備された大東亜戦争後半以降、連合軍は「M4中戦車(シャーマン)」の配備を開始していた。本砲の貫徹能力では、「M4中戦車」に対しては至近距離からの側面・後面への射撃以外、撃破は困難であった。
錆止めなどはされておらず、腐食に任せるままである。なお、「一式機動四十七粍速射砲」」の尾栓も水平式である。
「四一式山砲」である。歩兵連隊で「連隊砲」として運用された本砲は、大東亜戦争開戦と共にあらゆる戦場で活躍した。 タイヤ部分はオリジナルではなく、戦後に取り付けられたものである。
尾栓は垂直式である。開閉にはネジを開け閉めする必要があったが、強い爆圧がかかる閉鎖機を確実に閉じる事が出来た。尾栓にネジの溝が切られているのが分かる。
砲身のみのものもあるが、型式等は不明である。
「九五式軽戦車・日本軍火砲」の歩き方
タモン地区からは1号線を南西へ。
ハガニアから更に3kmほど行ったところに6号線とのT字路がある。
左折して6号線に入り、200mほどいった左手に 「九五式軽戦車」が置かれている。
「日本軍火砲」は「九五式軽戦車」の周りに置かれている。
太平洋戦争博物館(Pacific War Museum)
「民家」の「九五式軽戦車」から道を挟んで反対側に「太平洋戦争博物館」がある。
博物館は個人経営であるが、収蔵量はかなりの量である。日米の兵器類のほか、当時の写真展示もある。
米軍車両も丁寧に整備された状態で保存されている。
特に日本軍の重火器類の収集量は特筆すべきものがある。
「九四式軽迫撃砲」 「九二式重機関銃」「九七式自動砲」などは特に迫力がある。
庭には「四十五口径十年式十二糎高角砲」や「一式機動四十七粍速射砲」なども展示されている。
展示内容詳細
・写真展示
・日本軍火器
・米軍火器
・屋外展示建物裏手側
・屋外展示建物左手側
「太平洋戦争博物館(Pacific War Museum)」の歩き方
太平洋戦争博物館(Pacific War Museum)タモン地区からは1号線を南西へ。
ハガニアから更に3kmほど行ったところに6号線とのT字路がある。
左折して6号線に入り、300mほどいった右手である。
入場料:3ドル
休館日:なし
開館時間:10:00-16:00
(2010年現在)
太平洋戦争国立歴史公園アサン・ビーチパーク(WAR IN THE PACIFIC NATIONAL HISTORICAL PARK ASAN BEACH)
「アサンビーチ」は米軍が上陸地点に選んだ場所である。
現在は「太平洋戦争国立歴史公園アサンビーチ」として整備されている。
「公園」の入口には米軍の魚雷が展示されている。
同じく航空爆弾である。
「アサンビーチ」は三角形の平坦な土地で、ラングーンが浅いために砂浜での兵備体制確立を助けることができるため、米軍の上陸には好条件であった。左側の海に突き出ているのがアサン岬である。
米軍が水陸両用トラックで上陸を敢行したとき、日本軍はトンネルやトーチカに潜伏し、機関銃射撃や迫撃砲で猛然と応戦した。
アサンの尾根には日本軍の「トーチカ」と「洞穴」が遺されている。
現在は「トーチカ」の前に草木が茂っているが、当時の日本兵はこの銃眼から洋上の無数の敵艦艇と押し寄せる米兵をどのような気持ちで見たのであろうか。
一方米軍視点の「アサンビーチ」からは、自分達を狙い撃ちするのに絶好の位置となったであろうアサンの尾根が見える。
「公園」内の説明板には当時の写真が展示されている。
写真の砲はアサンの尾根に設置されていた「五十口径四十一年式十五糎砲」である。金剛型戦艦の副砲であったが、新型の砲と換装されたのにともない、沿岸砲に転用されたものである。
アサンの尾根には「日本軍壕」があるが、崩落の危険があるために立ち入り禁止となっている。
柵の外側からは内部がどうなってるかはよく分からない。
アサンの尾根を挟んで「公園」と反対側(西側)には「短二十糎砲」の砲座が遺されている。
砲床前には説明板があり、当時の写真が展示されている。
ほぼ無傷の「短二十糎砲」とコンクリート壁の前に米兵が立っている写真である。この辺りはまさに米軍の上陸地点であり、激しく戦闘が行われたはずであるが、奇跡的に難を逃れたのであろうか。
本砲は砲架が固定式であり、一度据え付けると容易に移動が出来なかった。そこで、コンクリート製掩蓋などで遮蔽された砲台に配備し、更にその砲台を偽装して秘匿したとしても、一度射撃を開始すると容易にその位置を露呈してしまった。
砲床の前のコンクリート壁は現在は根元の方で折れてしまっている。
折れたコンクリート壁はそのまま前に横倒しになっている。
迅速な移動が困難な本砲は陣地変換が出来ず、運搬が困難な本砲は、味方部隊の後退の際に放棄され、米軍に捕獲された。
中にはドーナッツ型の砲架が遺されている。ここに砲を載せて回転して方向を変えられるようになっていた。天井部分には崩落を防ぐために支柱が組み込まれている。
砲床の前はピティ湾である。
「太平洋戦争国立歴史公園アサン・ビーチパーク(WAR IN THE PACIFIC NATIONAL HISTORICAL PARK ASAN BEACH)」の歩き方
タモン地区から1号線を南西へ。
「アデラップ岬」を過ぎて2kmほどの右手側(海岸側)に「公園」の入口がある。「公園」の入口から左手の尾根のふもとに獣道があり、そこからアサンの尾根へ登っていくことができる。斜面はかなり急なので注意が必要である。
「短二十糎砲」の砲座はアサンの尾根の反対側にある。
「公園」の入口から300mほどさらに1号線を南西に行くと、右側の路肩に「PITI BOMB HOLES PRESERVE」と書かれた看板がある。
この看板の脇に海岸へ下りていく階段がある。
階段を下りて海岸まで出て、そこから海岸沿いに右に進む。途中川があるが、これを超えて更に進んだところの右手に砲座がある。