アガット(Agat)周辺

大東亜戦争におけるグアム島の歴史
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アガット(Agat)周辺の戦跡一覧

太平洋戦争国立歴史公園アパカ・ポイント・ビーチパーク(WAR IN THE PACIFIC NATIONAL HISTORICAL PARK AGAT UNIT-APACA POINT)

「アガットビーチ」は米軍が上陸地点に選んだもう一つの地点である。

「アガットビーチ」は現在、「太平洋戦争国立歴史公園アパカ・ポイント・ビーチパーク」として整備されている。

この海岸では米第1海兵臨時旅団と陸軍歩兵第三八連隊第一大隊が死闘を繰り広げた。

米軍の上陸に備えた防御施設として、日本軍は石灰岩の突出部分に「トーチカ」を構築していた。

昭和19年(1944年)7月21日午前8時、米軍は上陸を開始した。こ日本軍はこれらの「トーチカ」から猛反撃を行い、米軍上陸部隊に死傷者1000名の損害を与えた。

しかしながら、上陸部隊は多数の艦艇と航空機に支援されており、上陸正面の第一大隊は午前9時頃までに全滅した。

一つめの「トーチカ」から海岸を岩山沿いに回り込んでいくと、岩の裂け目を利用して別の「トーチカ」も築かれているのを見ることができる。

天然の珊瑚礁の岩盤を利用した「トーチカ」は、注意深く見ないとその存在を見落としてしまうであろう。

「太平洋戦争国立歴史公園アパカ・ポイント・ビーチパーク(WAR IN THE PACIFIC NATIONAL HISTORICAL PARK AGAT UNIT-APACA POINT)」の歩き方
アサンから1号線を南東に進み、「オロテ半島」付近で2A号線に入る。

内陸の2A号線を2kmほど南東に道なりに進むと、直進の細い道と左にカーブしていく太い道とに分岐する。道なりに左にカーブしていくと再び海岸沿いの道となるが、これは2号線である。

ここで直進の細い道を進むと「アパカ・ポイント・ビーチパーク」の入口が見えてくる。

太平洋戦争国立歴史公園ガアン・ポイント・ビーチパーク(WAR IN THE PACIFIC NATIONAL HISTORICAL PARK AGAT UNIT-GA’AN POINT)

「アパカ・ポイント・ビーチパーク」より少し南には「太平洋戦争国立歴史公園ガアン・ポイント・ビーチパーク」が整備されている。

この海岸では米第1海兵臨時旅団と陸軍歩兵第三八連隊第一大隊が死闘を繰り広げた。

海岸のすぐ内側に小さな丘があり、この丘にトンネルが縦横に通っており、一つの複合的な「トーチカ」となっている。海岸正面側には分厚いコンクリートで囲まれた「トーチカ」がある。

銃眼はかなり大きく、内部のスペースも広く天井も高い。重砲を設置するための「トーチカ」だったのであろうか。

丘の後方側には出入り口があり、前面側とトンネルでつながっているようである。海岸方向からは難攻不落と考えられたこの要塞も、揚陸された米軍戦車に後方に回り込まれついに破壊された。

トンネル内は土砂が堆積しており、中に入っていくことはできない。

米軍は上空からの偵察ではこの小さい丘は単なる砂山だと判断していた。

丘の上部にもコンクリートの構造物が残っている。

内部はコンクリートの支柱で補強されている。海岸側はコンクリート壁が崩れたように大きく開いている。米軍の攻撃で銃眼部分のコンクリートが破壊されたのであろうか。

海に面した場所に 「短二十糎砲」が保存されている。砲本体の下の砲架部分も遺されている。方向射界は全周(360度)可能であり、手動によって8.6度/秒で旋回する事ができた。

本砲は、大口径(口径200mm)で威力のある火砲ではあったが、元々、商船の自衛用火砲として開発された急造砲であった為、島嶼などの陸上砲台・沿岸砲台において運用するには適していなかった。

防錆の為のペンキ塗装が施されており、保存状態は良好である。

隣には「九六式二十五粍高角機銃」が遺されている。
単装・連装・三連装とあり、これは連装である。連装・三連装は旋回銃架(バーベット)に載せて使用された。下の丸い円盤状の部分である。

グアム島の海軍第五四警備隊司令杉本豊海軍大佐は、陸上戦闘においては防掩蓋不十分な 「短二十糎砲」よりも「九六式二十五粍高角機銃」などの大口径機銃の方が有効であった、という戦訓報告をしている。

保存状態は概ね良好であるが、銃身の先端が少し欠けている。

「太平洋戦争国立歴史公園ガアン・ポイント・ビーチパーク(WAR IN THE PACIFIC NATIONAL HISTORICAL PARK AGAT UNIT-GA’AN POINT)」の歩き方
アサンから1号線を南東に進み、「オロテ半島」付近で2A号線に入る。

内陸の2A号線を2kmほど南東に道なりに進むと、直進の細い道と左にカーブしていく太い道とに分岐する。細い道を直進すると「アパカ・ポイント・ビーチパーク」に出る。

分岐する太い道の方を道なりに左にカーブしていくと再び海岸沿いの道となるが、これは2号線である。
アガットの町付近の2号線沿いに「ガアン・ポイント・ビーチパーク」の入口が見えてくる。

アリファン山(有羽山)

米軍が上陸した「アガットビーチ」の内陸部には、山頂が特徴的な形をした「アリファン山」がある。

「アリファン山」は第三八連隊長、末長常太郎大佐の率いる歩兵3000名弱が守備していた。
なお、このとき横井庄一陸軍上等兵の所する輜重中隊は「アリファン山」後方に展開していた。

山裾の起伏の激しい丘陵地には、「塹壕跡」らしき溝とむき出しになった赤土が交互に散らばっている。

海岸に上陸した米軍に対し、昭和19年(1944年)7月21日深夜、「アリファン山」に集結したアガット方面の守備隊が全軍夜襲突撃を行うが、その多くが戦死した。末長大佐も午前3時半頃、「アリファン山」で銃撃戦の末に戦死した。

丘からは米軍が上陸した海岸がよく見通せる。

グアム国際空港に向かう飛行機は、通常島北西側からアプローチし、左にターンして滑走路へと最終進入する。天候が良ければ、左ターンする直前の機窓から右手側に「オロテ半島」を見ることができる。「オロテ半島」の向こう側に見える緑の広場は「ガアン・ポイント・ビーチパーク」である。

「ガアン・ポイント・ビーチパーク」のすぐ内陸側の丘陵が「アリファン山」である。

「アリファン山(有羽山)」の歩き方
アリファン山(有羽山)タモン地区からは1号線を南へ。

1号線を道なりに行くと、途中2A号線、2号線と名前が変わる。
アガットの町の少し手前で12号線とのT字路の交差点(信号り)がある。この信号を1kmほどこえたところに左斜め前に伸びる路地があるので、ここを入る。

この路地は分かりにくいので、「ガアン・ポイント・ビーチパーク」まで行ってから戻ったほうが分かりやすいかもしれない。

路地は目印となる「ガアン・ポイント・ビーチパーク」の300mほど手前(北東)である。

アリファン山(有羽山)この路地を500mほど入ったところを左折する。
この路地に入って左折できるところの2つ目である(1つめは十字路となっている)。

左折すると100mほどで突き当たりにとなる。
この付近の獣道から「アリファン山」へ入ることができる。

ニミッツ・ビーチパーク

「ガアン・ポイント・ビーチパーク」の3kmほど南の「ニミッツ・ビーチパーク」には、「米軍の対空陣地跡」が遺されている。同じ形をした「砲座」が海に向けて4つ並んでいる。

海岸からすぐ内陸の場所にコンクリートの土台(「砲座」)が遺されている。

「砲座」にドーナッツ型の「砲架の一部」がはめ込まれている。

「砲架の一部」の直径は157cmである。また、リングの幅は25cmである。

「ニミッツ・ビーチパーク 」の歩き方
ニミッツ・ビーチパーク タモン地区から1号線を南西へ。

「オロテ半島」付近で2A号線に入る。
内陸の2A号線を2kmほど南東に道なりに進むと、再び海岸沿いの道となるが、これは2号線である。

海岸に出ててから5kmほどの右手に「ニミッツ・ビーチパーク」入口が見えてくる。

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