バナデル周辺(旧マッピ岬・旧マッピ山・旧バナデル平原)の戦跡一覧
バンザイクリフ(旧マッピ岬)
サイパン島の北端に「バンザイクリフ(万歳の崖)」と呼ばれる場所がある。
日本統治時代は「マッピ岬」と呼ばれていた。
すぐ背後にある「スーサイドクリフ(旧マッピ山)」から「バンザイクリフ」を望む。
昭和19年(1944年)7月6日、米軍はサイパン島の殆どを占領、日本軍守備隊は辛うじて最後の防衛線を敷いていたが、多くの兵力・火器を失い、組織的な抵抗は最早不可能な状態であった。
7月7日未明、「マタンサ」(サン・ロケ地区)付近に集結した残存の日本軍守備隊と一部の一般邦人は、米軍の最前線に対して最後の総攻撃を行った。
この総攻撃によって日本軍守備隊は玉砕、米軍はサイパン島北端「マッピ岬」に前進を開始した。
この時、「マッピ岬」周辺には、米軍に追い詰められた大勢の一般邦人が避難していた。迫り来る米軍の手に落ちまいとする一般邦人の多くは、この「マッピ岬」の断崖から海に身を投じた。
「マッピ岬」からはるか北にある祖国日本に向かい、多くの人は「万歳」を叫んで海に消えていったという。
バンザイクリフバンザイクリフ大勢の人を飲み込んだ海を望む「マッピ岬」は戦後「バンザイクリフ」と呼ばれるようになった。
現在、「バンザイクリフ」にはサイパン島で戦没した人々(将兵・軍属・一般邦人・現地人)の為の「慰霊碑」が多数建てられている。
近年、これら「慰霊碑」への破損行為が横行している。殆どは中国人観光客によるものである。
幸いにして、現在は北マリアナ政府の協力によって維持管理が成されている。
バンザイクリフバンザイクリフ昭和19年(1944年)7月9日16時45分、米軍はサイパン島北端「マッピ岬」に到達、占領宣言を出した。
「マッピ岬」周辺で掃討作戦を行う米軍兵士である。
7月7日未明の日本軍の総攻撃から9日までの間に、米軍の掃討作戦によって1000人近い日本人が殺された。その中には日本軍将兵以外にも大勢の一般邦人が含まれていた。
現在(平成21年・2009年)の「旧マッピ岬」。
多くの「慰霊碑」が無念の思いで亡くなった人々を慰めている。
「バンザイクリフ(旧マッピ岬)」の歩き方
サイパン島北端にある。
バンザイクリフバンザイクリフガラパン市街からマッピ・ロード(Marpi Rd)を北上する。サン・ロケ地区を過ぎてしばらく進むと右手に断崖(「旧マッピ山」)が見えてくる。
やがて右手に「ラストコマンドポスト」が見える。向かいに左に曲がる道の分岐がある。これがバンザイクリフ・ロード(Banzai Cliff Rd)である。バンザイクリフ・ロード(Banzai Cliff Rd)を道なりに進む。途中、右手に「退役軍人墓地」がある。
バンザイクリフ・ロード(Banzai Cliff Rd)の終端が「バンザイクリフ」である。
スーサイドクリフ(旧マッピ山)
サイパン島の北端近くに「スーサイドクリフ」と呼ばれる場所がある。日本統治時代までは「マッピ山」と呼ばれていた岩山である。
「スーサイドクリフ(旧マッピ山)」の麓から山頂を見上げる。
200m近い垂直の崖がそびえているのよく分かる。
山頂の左側に「展望台」と「慰霊碑」がある。
「バンザイクリフ」(サイパン島北端)から「スーサイドクリフ(旧マッピ山)」を見る。
「スーサイドクリフ(旧マッピ山)」の崖を西側から見る。サイパン島の南から連なる「旧マッピ山」が突然切立った崖となって終わっているのが良く分かる。
「旧マッピ山」の麓には牧場があり、牛が放牧されている。この一帯には、日本軍が途中まで建設し、その後に米軍が拡張した「バナデル飛行場」があった。
「バナデル飛行場」の周辺に建設された米軍の兵舎。後ろには「マッピ山」が見える。
米軍のサイパン島占領後の写真である。
スーサイドクリフスーサイドクリフ「旧マッピ山」の山頂は駐車場があり、「展望台」が整備されている。ここが現在は「スーサイドクリフ」と呼ばれる場所である。
「スーサイドクリフ」は平和な今日のサイパン島に於いて、絶好の展望が得られる場所である。
昭和19年(1944年)7月、この場所では、米軍に追い詰められた日本軍将兵や一般邦人が、捕虜になることを拒んで自らこの崖に身を投じたのである。
スーサイドクリフスーサイドクリフ「スーサイドクリフ」には展望台の側に、ここで命を落とした人々の霊を弔う「慰霊碑」が建てられている。
「スーサイドクリフ」の展望台から眼下の崖を見下ろす。目もくらむような高さの垂直の崖である。大勢の人々の命を飲み込んだこの崖は、今も昔も変わらない姿のままである。
かつてここで何があったのか、日本人として当然知っておかなくてはならない事実である。
スーサイドクリフスーサイドクリフ「慰霊碑」には「観音様」と「十字架」が建てられているかれている。
人種・国籍に関係無く、サイパン島に於いて戦没した人々の霊を慰めている。
「スーサイドクリフ」から北の方向を望む。
左側の陸地の端に見えるのが「旧マッピ岬」(「バンザイクリフ」)である。
米軍によってここに追い詰められた人々は同じ景色を見たに違いない。この海のむこうにある祖国日本にどのような思いをはせて散っていったのだろうか。
「スーサイドクリフ(旧マッピ山)」の歩き方
サイパン島北端近くにある。
スーサイドクリフスーサイドクリフガラパン市街からマッピ・ロード(Marpi Rd)を北上する。サン・ロケ地区を過ぎてしばらく進むと右手に断崖(「旧マッピ山」)が見えてくる。
やがて右手に「ラストコマンドポスト」が見える。ここを過ぎて道なりに進む。
右手に「旧マッピ山」を見ながら、この後3箇所ある「分岐」を右に曲がるように道なりに進んでいく。道は右回りに登っていく。
道の終端は広場になっており、ここが「旧マッピ山」の山頂(「スーサイドクリフ」)である。「慰霊碑」「展望台」がある。
バナデル飛行場跡地(旧バナデル平原)
日本統治時代、サイパン島北部の「マッピ山」と「マッピ岬」の間の平地は「バナデル平原」と呼ばれていた。
「バナデル平原」には「南洋興発第三農場」があり、サトウキビの栽培が行われていた。
日本統治時代の「バナデル平原」である。
左(南側)に「マッピ山」の断崖が見える。後に「スーサイドクリフ」と呼ばれる事になる。
「バナデル平原」は、米軍がサイパン島に侵攻する以前、一帯にサトウキビ畑(南洋興発第三農場)が広がる平和な場所であった。
昭和18年(1943年)まで、サイパン島の日本軍飛行場は南部の「アスリート飛行場」だけであった。
昭和19年(1944年)以降、中部太平洋方面の防衛強化の為、サイパン島には新たに3ヵ所の飛行場が計画された。
北部の「バナデル飛行場」、南部の「アスリート飛行場」から西3kmの飛行場(後の「コブラー飛行場」)、西部の 「オレアイ飛行場」であった。
「バナデル平原」に建設された「バナデル飛行場」は日本軍の戦闘機用の飛行場として計画された。
すぐ南の「マッピ山」の麓の崖に横穴を掘り、これを戦闘機用掩体壕として、ここから直接戦闘機を離陸させることも計画されていた。建設には、南洋興発会社の会社員等、多くの一般邦人も協力した。
米軍上陸直前の「バナデル飛行場」である。右(南側)が「マッピ山」、左(北側)が「マッピ岬」である。
併しながら、昭和19年(1944年)6月15日の米軍上陸時、「バナデル飛行場」は未完成であった。
地米軍はサイパン島を占領後、「バナデル飛行場」の滑走路を4380ftに拡張して短期間使用した。
米軍が拡張した「バナデル飛行場」である。
昭和20年(1945年)12月まで米第512海兵戦闘飛行隊(VMF-512・「F4U(コルセア)」装備)が駐留していたが、その後は使用されなくなり、「バナデル飛行場」は放棄された。
左(南側)が「マッピ山」、右(北側)に「バナデル飛行場」のあった「旧バナデル平原」が広がる。
米軍が占領した後のサイパン島北部、右端に「バナデル飛行場」が見える。
既に米軍によって拡張されており、周辺には兵舎や道路が整備されている。
現在(平成21年・2009年)のサイパン島北部、「バナデル飛行場」の滑走路や誘導路は殆ど遺されていない。
兵舎等の米軍関連施設は殆ど遺されていないが、道路は米軍が建設したまま現在も使用されているのが分かる。
バナデル飛行場跡地バナデル飛行場跡地「スーサイドクリフ(旧マッピ山)」の山頂から「旧バナデル平原」を見下ろす。
この一帯が「バナデル飛行場跡地」である。左に見える三角形の場所は戦後に造られた「退役軍人墓地」、正面が「バンザイクリフ(旧マッピ岬)」である。
現在は殆ど森や藪に被われ、一部は牧場になっているが、「誘導路跡」「駐機場跡」が遺されている。
マッピ山(「スーサイドクリフ」)に近い森の中に三角形の道が見える。これは「バナデル飛行場跡地」の「誘導路跡」である。
バナデル飛行場跡地バナデル飛行場跡地写真①(歩き方参照)、森の中に遺される「誘導路跡」から東側を見る。
舗装されているが、途中からは倒木で塞がれている。北側(写真左側)は牧場の敷地になっており、無断で立入ってはいけない。
写真②(歩き方参照)、森の中に遺される「誘導路跡」から北側の「駐機場跡」を見る。
ここも現在は牧場の敷地になっている。路面の舗装は遺されていない。
「バナデル飛行場跡地(旧バナデル平原)」の歩き方
サイパン島北端近くにある。
バナデル飛行場跡地バナデル飛行場跡地ガラパン市街からマッピ・ロード(Marpi Rd)を北上する。サン・ロケ地区を過ぎてしばらく進むと右手に断崖(「旧マッピ山」)が見えてくる。
やがて右手に「ラストコマンドポスト」が見える。ここを過ぎて道なりに900m程進むと、左手に「ダート入口」がある。「ダート入口」から入って進むと「Y字路」がある。
「Y字路」から先の左右の道が「誘導路跡」である。進んで行くと先の方は牧場の敷地になっており、無断で立入ってはいけない。