旧チャチャ・旧ドンニィ周辺の戦跡一覧
カグマン半島の野戦病院
カグマン半島北部はサイパン島東部に位置し、日本統治時代は南洋興発の大規模なサトウキビ畑が造られていた。島の西部へとつながる軽便鉄道が引かれ、この付近一帯は、南洋庁サイパン支庁サイパン島東村と呼ばれていた。サイパン島東村には「八幡神社」があり、サトウキビ栽培で大いに栄えていた。
昭和19年(1944年)6月15日、米軍がサイパン島西部のオレアイ海岸・チャランカノア海岸に上陸を開始した。
サイパン島東部にあるカグマン半島は米軍上陸海岸の反対側にあった。
カグマン半島北部の「ドンニィ」には陸軍の野戦病院が置かれ、米軍との戦闘で負傷した将兵が続々と運び込まれてきた。しかし、米軍に包囲されていたサイパン島への補給は途絶し、医薬品はたちまち欠乏、負傷兵に対して満足な治療を行うことは出来なかった。
6月23日には米軍はサイパン島の南半分を占領、攻撃の矛先を北に向けた。
タッポーチョ山の日本軍は頑強に抵抗したが、圧倒的な戦力で押してくる米軍に効し切れずに、27日以降、タッポーチョ山・カグマン半島の大部分は米軍の手に落ちた。
旧チャチャ・旧ドンニィ周辺(カグマン半島北部)カグマン半島北部の「ドンニィ」にも米軍が迫っていた。野戦病院はサイパン島北部への移動を決定するが、自力で歩く事の出来ない重傷者を連れて行くことは最早不可能であった。
当時、米軍の捕虜になる事は堅く戒められていた。
また、それまでの米軍による手当たり次第の艦砲射撃や、無差別な爆撃を目の当たりにしていた人が、米軍の投降勧告に従うことは難しかったであろう。そして、野戦病院が残していく重傷者に対してできる最後の事は、自決用の手榴弾を手渡してやる事だけであった。
この時、野戦病院には1人の従軍看護婦がいた。サイパン島在住の菅野(旧姓三浦)静子さんである。
彼女は当時若干18歳、米軍上陸後に自ら志願して負傷兵の治療に従事していた。
戦後、奇跡的に生還。当時の事実を知る数少ない人の1人である。
以下、野戦病院の移動の様子を、彼女の手記「サイパン島に祈る」の一部を抜粋して紹介する。
気休めとは思っても、私は兵隊さんを慰めたかった。
月が出た。明るい月光に照らされたすり鉢の中で、
「看護婦さん」
と苦しい息づかいで呼んだのは、若い将校さんだった。
「看護婦さん、九段坂の歌を知ってるか」
「ええ、知ってるわ。私の大好きな歌よ」
「……歌えるか?」
「ええ、歌えるわ。歌ってあげましょうか」
若い将校は、歌ってくれという気力はないようだ。私は、その将校の横にすわって、歌い出した。
ウーエノエキカラ、クダンーマデ
カーッテシラナイ、ジレェッタサー
ツエヲタヨリニイチニチガカーリ
セガレキタゾーエ、アイーニキーター
一番、二番、三番と、小さな声でつづけているうちに、あたりからすすり泣きの声が起こった。
ふり返ると、いつの間にか隊長も、軍医さんも、私のすぐうしろに立っていて、その目に涙が光っていた。青い月の光で、患者たちの泣いている顔が見える。
「おれたちは、靖国神社へ行くんだな」
「そうだ、みんなで靖国神社へ行こう」
そんな声がすり鉢の中から、聞こえてくる。
隊長もしばらく、その声に耳を傾けていたが、やがて小さな声で、「看護婦さん、出発だよ」
というと、先に立って歩き出した。私が立ち上がると、とたんに、
「看護婦さん、ありがとう」
「看護婦さん、さようなら」
「隊長どの、軍医どの、お世話になりました」
「看護婦さん、死んではだめだぞ」
という声が、あっちからも、こっちからも起こった。おっと泣き出したいのをこらえて、私は走った。
野戦病院の独歩患者(歩ける負傷者)や付近の一般邦人は米軍の砲爆撃を避けて夜間にサイパン島北部へ移動していった。軍医や衛生兵、そして従軍看護婦達も重傷者に別れを告げて移動を開始した。やがて、野戦病院のあった場所から手榴弾の炸裂音が絶え間なく鳴り響いたという。
現在は、殆どがジャングルに覆われているカグマン半島北部は、迫り来る米軍を前に、大勢の日本軍将兵が無念の想いで自決を遂げた場所である。
八幡神社跡
「カグマン半島北部」には日本統治時代に建てられた「八幡神社跡」が遺されている。
当時、この付近一帯はサイパン島東村と呼ばれていた。
また、カグマン半島の「ラウラウ湾」沿いには南洋興発第二農場があった。
大正13年(1924年)10月28日、「八幡神社」が創立され、祭神は「大抵比賣神」「息長帯姫」であった。
その後、昭和19年(1944年)6月、サイパン島に上陸した米軍によって破壊され、「八幡神社」は荒廃した。
「八幡神社」は、戦後、埼玉県久伊豆神社宮司小林茂氏によって「彩帆八幡神社(サイパン八幡神社)」として再建された。 昭和54年(1979年)、再建工事が開始、昭和55年(1980年)9月、再建鎮座奉祝祭が行われた。
祭神は「サイパン国魂大神」「八幡大神」「久伊豆大神」である。
現在の「鳥居」は戦後に「彩帆八幡神社」として再建された時のものである。
「鳥居」の前は「拝殿跡」であり、さらにその前は「石段」となっている。
「石段」を上りきったところには「狛犬」が両側に配置されていたようである。
右側の「狛犬」は失われているが、左側の「狛犬」は今もなお当時の姿をとどめている。
「石段」の中ほどに「燈籠」が遺されている。
当時は、こちら側が「八幡神社」の参道入口であったようだが、現在は深い森となっている。
「狛犬」の後ろには八幡神社の札のある戦後の「鳥居」とは別のもう一つの「鳥居」が配置されていたようである。
併しながら、こちらは柱が折れて横倒しになっている。これは日本統治時代の「八幡神社」の時の「鳥居」であると思われる。
戦後の「鳥居」の奥は岩を切り出したような通路になっており、その奥には「本殿」がある。
「本殿」は新しく、戦後に「彩帆八幡神社」として再建された時のものである。
「拝殿跡」の前にテーブルがあり、この上に砲弾や機銃弾などの不発弾や、ビンや機械部品のようなものが置かれている。付近の住民が拾ったものが集められているのだろうか。
「八幡神社跡」の歩き方
サイパン国際空港方面からクロス・アイランド・ロード(Isa Dr. 31号線)を暫く北上する。
「サイパン熱帯植物園」(2011年1月31日休園)を過ぎて約1.5km進むと、クロス・アイランド・ロード(Isa Dr. 31号線)から右(東側)にKagman Rd.(34号線)が分岐する「T字路」がある。「T字路」には大きな「ガソリンスタンド」がある。この「T字路」を右折してKagman Rd.(34号線)に入る。
「T字路」からKagman Rd.(34号線)を500m程進むと、左手に細い道(Kamuti Rd.)がある。
この細い道を100m程入ると、「民家」の庭のようなところに出る。
ここから更に、両側から草の生い茂る下りの「小道」を行くと、正面に「廃屋」が見えてくる。 ここを左に曲がって50m程で「八幡神社跡」に出る。
庭のある「民家」から先は私有地のようなので、勝手に立ち入ってはいけない。
住民の方に「神社跡」を探していると伝えたところ、快く通してくれた。
洞窟のマリア像
洞窟のマリア像洞窟のマリア像カグマン半島北部に洞窟にマリア像の祀られた教会がある。
「Santa Lourdes Shrine As Teo」が正式名称である。毎年2月中旬には、ここで祭礼が催される。
門をくぐって正面の祭壇の「祠」に「マリア像」が祀られている。
良質の水に恵まれないサイパン島だが、この「祠」の前には湧き水の井戸があり、マリア様の神水としてあがめられている。
「祠」の左側には広い「洞窟」がある。
戦時中には野戦病院として、また大型台風の避難所として使われていたという。
内部にはここで無くなった方の遺族が置いたのであろうか。卒塔婆や石碑がいくつか置かれている。
「洞窟のマリア像」の歩き方
サイパン国際空港方面からクロス・アイランド・ロード(Isa Dr. 31号線)を暫く北上する。
「サイパン熱帯植物園」(2011年1月31日休園)を過ぎて約1.5km進むと、クロス・アイランド・ロード(Isa Dr. 31号線)から右(東側)にKagman Rd.(34号線)が分岐する「T字路」がある。「T字路」には大きな「ガソリンスタンド」がある。この「T字路」を越えて更にクロス・アイランド・ロード(Isa Dr. 31号線)を北上する。
「T字路」から約2km進むと「十字路」がある。
「十字路」の左手の道路に「マリア像」と書かれた小さな看板が出ている。
この「十字路」を右折すると道は下り坂になっている。この道を約550m進むと、左側に「アステオ・ミニマート」がある。
ここを右折すると、すぐ左側に「Santa Lourdes Shrine As Teo」と書かれた「看板」がある。
右折してから100m程進んだ右手に「教会」の入口がある。入口の向かいに「駐車場」がある。