アンガウル島西部

大東亜戦争におけるアンガウル島の歴史
・アンガウル島西部・アンガウル島北部・アンガウル島東部アンガウル島は、ペリリュー島からさらに南西へ約10km、中心地のコロール島からは約60kmに位置する。パラオ諸島を取巻く珊瑚礁の外にあるため、周囲は外洋で波が高い。南北約4km、東西約3...

アンガウル島西部の戦跡一覧

アンガウル港

アンガウル島西部のほぼ中央に「アンガウル港」がある。ドイツ統治時代・日本統治時代からアンガウル島の主要な港として機能してきた。現在も、アンガウル島唯一の港として島の玄関口となっている。

大正11年(1922年)、南洋群島出港令施行細則が制定され、サイパン島・ヤップ島・ポナペ島・ヤルート島・トラック諸島に各1箇所、パラオ諸島に2箇所の移出港が置かれた。パラオ諸島では「パラオ港(コロール島)」「アンガウル港」の2港が移出港とされた。

更に、昭和2年(1927年)、南洋群島交通港取締規定が制定され、「アンガウル港」は交通港とされた。

現在の岸壁は日本統治時代に整備された。
護岸に使用された当時の鉄板が遺されている。

港内は堤防で囲まれている。

コンクリート製の立派な堤防である。日本統治時代に造られたのか、米軍が占領後に整備したのかは詳細不明である。

「アンガウル港」の歩き方

アンガウル島唯一の港であり、アンガウル空港が使用されていない(2011年現在)為、アンガウル島を訪れた場合、一番最初に着く場所が「アンガウル港」である。
州政府が運行するコロール島からの貨客船(ステートボート)も「アンガウル港」に入港する。

アンガウル島西部のほぼ中央に位置し、ここを中心として集落(旧サイパン村)がある。

アンガウル島の外周道路は、「アンガウル港」の直ぐ北からと、集落を南に抜けたところから、それぞれ南北に伸び、アンガウル島北部や東部の海岸沿いを通って島を1周している。

M4中戦車(シャーマン)

「アンガウル港」の堤防の側の海面上に、米軍の「M4中戦車」が遺されている。

車体の上半分が海面上に露出している。

砲塔や車体後部のエンジンは失われている。

「アンガウル港」では、大規模な戦闘や米軍の上陸は行われておらず、この車両が戦闘時に海没したとは考えにくい。

「M4中戦車」は堤防の先端の直ぐ側にある。
米軍がアンガウル島を占領後、堤防を拡張する際の土台として使用したのではないかと考えられる。

実際、米軍が、占領した島嶼の港湾整備に於いて、不要になった戦車や捕獲した日本軍戦車を、堤防の土台として使用していた事例は、サイパン島等に於いて見受けられた。

他にも、堤防の先端には、鉄道用トロッコの様な機械部品が幾つか見える。

「M4中戦車(シャーマン)」の歩き方

「アンガウル港」の堤防の先端にある。

ちょうど、「アンガウル港」の出入口にあたる場所になる為、アンガウル島に船で渡る場合は、その行き帰りに見ることが出来る。

「アンガウル港」に入る場合は船の左舷側、「アンガウル港」から出る場合は船の右舷側に、戦車が見える。

リン鉱石積出施設跡

「アンガウル港」から少し北の森の奥に、「リン鉱石積出施設跡」が遺されている。

ベルトコンベアで、リン鉱石を積出用のトロッコ等に載せる為の施設であり、ドイツ統治時代の施設と考えられる。

ベルトコンベアを駆動させる為のローターやギアなども遺されている。

「リン鉱石積出施設」は地面を谷状に掘下げた場所に造られていた。
鉄骨で組まれた橋状の櫓の上にベルトコンベアがあり、ベルトコンベア運ばれたリン鉱石が櫓の下のトロッコ等に落とされる仕組みであった。

櫓の上に装備された、ローラーやギア。
ギアの歯車は腐食し、表面が剥離しているが、歯の1枚1枚は原型を保っている。
大きなローラーはベルトコンベアを駆動させる為に使用されたのだろうか。

ベルトコンベアは、左右に斜めに設置された小型のローラーで支えられている。
ベルトコンベアには分厚いゴムが使用され、現在も所々切れてはいるが、当時のまま遺されている。

ベルトコンベアは、地中に掘られた坑道へと続いているが、この先は暗くて狭く、どこまで続いているかは詳細不明である。
坑道真上の地上には、目立った「施設跡」は遺されておらず、戦災や風化で失われたのかもしれない。

付近には、鋭角に組まれた鉄骨が多数並んでいる。
この鉄骨は、外周道路から見える。
並んでいる鉄骨に沿って進むと森の奥に「リン鉱石積出施設跡」がある。この鉄骨が何に使用されていたかは詳細不明である。

他にも、森の奥には、鉄骨・レール・鉄板・部品の残骸等が多数散乱している。
「リン鉱石関連施設跡」と思われるが、殆ど原型を保っておらず、詳細不明である。

「リン鉱石積出施設跡」の歩き方

「アンガウル港」の直ぐ近くに、集落の北側から森の中に入っていく道がある。
この道がアンガウル島北側の外周道路であり、島北部の海岸沿いを通って、島東部まで続いている。

外周道路に入ると直ぐに周囲が森になる。
森に入って100m程進むと、右手の森の中に、鋭角に組まれた鉄骨が多数並んでいるのが見える。左手の森の中には、格子状に組まれた巨大な鉄骨と側道の入口がある。
(N:06°54′28.32″ E:134°07′50.62″)

この場所から右手の森に入り、並んでいる鉄骨に沿って西(海側)に進んでいくと、「リン鉱石積出施設跡」がある。

周辺には「リン鉱石関連施設跡」と思われる鉄骨や残骸が多数散乱している。

リン鉱石工場・貯蔵庫跡

「アンガウル港」から少し北東の森の奥に、「リン鉱石工場・貯蔵庫跡」が遺されている。
外周道路からは、格子状に組まれた巨大な鉄骨が見える。

格子状に組まれた巨大な鉄骨から側道があり、進んで行くと森の中に多数の鉄骨類や積み上げられた鉱石(ぼた山)が見えてくる。

ぼた山や鉄骨類はかなり大きく、また広範囲に渡って散在している。
しかしながら、付近は木々に覆われており、また木の根がそこかしらに広がっている為、容易には進めない。全容は詳細不明である。

「リン鉱石工場跡」と思われる巨大な建築物も遺されているが、木々に阻まれて接近は困難である。

「リン鉱石工場・貯蔵庫跡」の歩き方

「アンガウル港」の直ぐ近くに、集落の北側から森の中に入っていく道がある。
この道がアンガウル島北側の外周道路であり、島北部の海岸沿いを通って、島東部まで続いている。

外周道路に入ると直ぐに周囲が森になる。
森に入って100m程進むと、右手の森の中に、鋭角に組まれた鉄骨が多数並んでいるのが見える。左手の森の中には、格子状に組まれた巨大な鉄骨と側道の入口がある。
(N:06°54′28.32″ E:134°07′50.62″)

側道から、右手の森に入っていくと、右手に「リン鉱石工場跡」が見えてくる、その先に「リン鉱石貯蔵庫」がある。

側道は未舗装であり、所々ぬかるんでいる。また、至る所に巨木が生えている為、日本の感覚では、廃道に近い。しかしながらこの側道はアンガウル島の地図にも記載されている。

灯台跡

「リン鉱石積出施設跡」「リン鉱石工場・貯蔵庫跡」の北の高台に「灯台跡」が遺されている。

現在は木々に覆われ、「灯台」も崩壊してしまっているが、日本統治時代に建設された「灯台」と「灯台関連施設」だったようである。

「灯台跡」の隣に「管理棟跡」と思われる、コンクリート製の建物跡が遺されている。
風化と破損が著しいが、「灯台関連施設跡」の中では最もはっきり形が遺されている。

「管理棟跡」は2階建てであり、上階へ通じる階段がある。

2階は大きな1部屋になっており、西側(海側)と北側にはテラスが設けられている。窓は比較的大きい。

大正11年(1922年)、「アンガウル港」は南洋群島の移出港の1つに指定され、「パラオ港(コロール島)」と共に、パラオ諸島の重要な港として機能した。

テラスの屋根を支える柱には装飾が施されている。
繁栄していた頃のアンガウル島を今に伝えている。

テラスの西側は海に面している。現在は、周囲に木々が生い茂り海は見えないが、打ち寄せる波の音が聞こえる。

米軍がアンガウル島に上陸してくるまで、この島では平和な生活が営まれていた。かつて、このテラスからは海が見え、絶好の展望であった事であろう。

「灯台跡」は殆ど崩壊しており、「灯台」としては原型を保っていない。
「管理棟」と2階部分で繋がっていたようであるが、コンクリート製の通路も崩壊している。

「灯台跡」の土台部分には、階段が設けられている。おり、コンクリート製の手すりには装飾が施されているのが分かる。

「アンガウル港」への船舶の往来を見守っていた往時の「灯台」を偲ばせる。

「灯台跡」「管理棟跡」から少し離れた場所に「貯水槽跡」が遺されている。

「灯台跡」「管理棟跡」のある場所と「貯水槽跡」のある場所とは「石畳・石段」で繋がっており、「貯水槽跡」も「灯台関連施設」だったと思われる。

「貯水槽跡」からは高台の麓まで「鋼鉄製水道管跡」が遺されている。
「鋼鉄製水道管跡」に沿って「石段」が麓まで伸びている。

「灯台跡」「管理棟跡」のある場所と「貯水槽跡」のある場所の間に遺されている「石柱」。

「貯水槽跡」の側に遺されている「コンクリート製水道管跡」。

これら「灯台関連施設跡」は高台の上一帯に遺されている。この高台は1つの大きな岩山になっているが、かつてはここに「灯台関連施設」が集中していたと思われる。

高台には他にも「石段」が遺されているが、先は森になっており道などは失われている。

「灯台関連施設跡」の全体図。
「灯台関連施設」は岩山全体を利用した高台に建設されていた。

外周道路から側道に入ると「鋼鉄製水道管跡」に沿って急な「石段」がある。
この「石段」を登った場所に「貯水槽跡」があり、そこから先の「石畳・石段」を進むと「石柱」「灯台跡」「管理棟跡」がある。

「灯台跡」の歩き方

「アンガウル港」の直ぐ北から、外周道路に入って100m程進むと、右手の森の中に、鋭角に組まれた鉄骨が多数並んでいるのが見える。左手の森の中には、格子状に組まれた巨大な鉄骨と側道の入口がある。ここは、「リン鉱石積出施設跡」「リン鉱石工場・貯蔵庫跡」への入口である。
(N:06°54′28.32″ E:134°07′50.62″)

この場所から外周道路を更に400m程進む。
途中大きく左に道が曲がっている。
やがて、左手に「鋼鉄製水道管跡」と「石段」のある側道が見えてくる。

この側道が「灯台跡への入口」である。
(N:06°54′37.92″ E:134°07′49.15″)

「鋼鉄製水道管跡」に沿って「石段」を登ると「貯水槽跡」がある。
「貯水槽跡」の裏に更に「石畳・石段」があるので、これに沿って進むと「灯台跡」「管理棟跡」がある。周辺は木々に覆われている。
(N:06°54′38.05″ E:134°07′46.84″)

LVT(2両)

「アンガウル港」から集落を抜けて東に行ったところに「LVT」が2両遺されている。

すぐ道沿いに放置されているが、周囲はジャングルとなっており車両も草に覆われているため、よく見ていないと見過ごしてしまうであろう。

「LVT」とは「Landing Vehicle Tracked」の略であり、米軍が上陸作戦で使用した水陸両用トラクターである。

左側の「LVT」である。

上陸作戦では舟艇で近づける水深で兵士が降り、無防備な状態で岸まで辿り着かなくてはならず損害を受けやすい。

「LVT」は装甲自体はそれほど厚くはないが、比較的安全、効率的に兵士を搭載して岸に送ることができた。側面のキャタピラは水かきのようになっており、スクリューがなくても推進力を得ることができた。

前面である。
水上航行時に水の抵抗を減らす為、船のように傾斜の付いた形状となっている。

右側の「LVT」を上から見たところである。

本来はここに兵士を搭載する空間があるが、この中にも木が生えたり草が茂ったりしているためによく分からない。

「LVT」には10種類程度の型式があるが、この2両は傷みが激しく型式不明である。

キャタピラに駆動力を与える起動輪である。

「LVT(2両)」の歩き方

「アンガウル港」から集落を抜けて東へ600m程行ったところにある。

「アンガウル港ターミナル」の右側(南側)から伸びる道を100m程行くと、道は左右に分岐する。ここを左側の細い道のほうに入る。道なりにさらに約500m進むと「T字路」に突き当たる。

「T字路」の突き当たったところ(東側)のジャングルの中に「LVT」が2両並んだ状態で放置されている。
草が深く生い茂っているので、道からはよく見ないと見つからない。

日本軍守備隊長住宅跡

アンガウル島の南西の海岸沿いに「建物の土台のような跡」が遺されている。

これは現地住民の話では「日本軍守備隊長の住宅跡」だそうである。ジャングルを分け入ったところにほぼ正方形をしたコンクリートがある。この付近には建物の土台のようなものが他にもある。

この正方形のコンクリートのすぐ脇に枯れ木のようなものが立っている。これは住宅に付随する「デンキバシラ(電柱)」だったそうである。

「住宅跡」は海岸からわずか10m程度の場所にある。海岸は珊瑚が2、3mの高さで張り出した形となっている。

現地住民の話ではこの付近の珊瑚をくりぬいてトーチカか陣地のようなものが遺っているらしいが、今回は発見できなかった。干潮時には入口が見つけやすいそうである。

「日本軍守備隊長住宅跡」の歩き方

「アンガウル港」から外周道路を南西へ行く。

しばらく左右に住宅が点在しているが、街を抜けると左右にジャングルが広がる。道が左に緩やかにカーブする

道の左側(東側)に電気関係のポールが2本立っている(右写真)。

道を挟んでこのポールの反対側のジャングルを海岸方向に向けて分け入っていく。道から100m程で海岸に出るが、そのすぐ手前に「住宅跡」がある。

病院跡

「アンガウル港」から外周道路を南西へ、住宅街を抜けたところに「病院跡」が遺されている。

これはドイツ統治時代に病院として使われていた建物を日本が引き継いで病院として使っていたものである。病院としても大規模なものではなく、診療室が3、4部屋程度、といった規模の建物である。

現地住民の話では、終戦で日本人が引き揚げた後は「priest(聖職者)」の住居となっていたそうである。

廃材で覆われて分かりにくいが、「病院跡」の正面側にはコンクリートの階段が遺っている。

「病院跡」と道路の間あたりにコンクリートの箱のようなものがある。窓などはないので、恐らく建物に付随する貯水槽であろう。

「病院跡」の歩き方

「アンガウル港」から外周道路を南へ行く。

しばらくは左右に住宅が点在しているが、しばらくいくと両側がジャングルとなる。
「アンガウル港」から約1kmあたりのところの左手に「病院跡」がある。

近くに「T字路」があり、そのすぐ手前の場所である。

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