アンガウル島東部

大東亜戦争におけるアンガウル島の歴史
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アンガウル島東部の戦跡一覧

WW2セメタリー

島北東部のやや内陸のところに芝生がきれいに整備された広場がある。第二次世界大戦の追悼施設らしいが、設立などの詳細は不明である。

広場右手側には石造りの建物のようなものがある。天井はない。

左手側には碑のようなものがある。プレートなどが嵌められていたような跡が残っている。

碑の上部にはポールが折れたような跡がある。銅像でも建っていたのだろうか。

「WW2セメタリー」の歩き方

「アンガウル港」北側の道を道なりに進むと、集落を抜けて「アンガウル飛行場」と平行な道に出る。

この道を北東海岸へ向けて進むと「発電所」がある。「アンガウル港」から「発電所」までは約2kmの道のりである。

「発電所」の手前300m程の右手側が芝生の広がる広場となっている。

慰霊碑群

アンガウル島の北東の海に面した見晴らしのよい場所にアンガウル島に関係する「慰霊碑」が集められている。元々、アンガウル島の北西(「アンガウル神社」付近)にあったが、平成22年(2010年)、この場所に移設された。

「守備隊長後藤丑雄少佐」の碑である。後藤少佐は第十四師団第五九連隊第一大隊1382名を率いてアンガウル島を守備していた。米軍はここに1個師団約21000名を上陸させ、戦力差は圧倒的であった。米軍上陸から約1ヶ月後の10月19日夜、後藤少佐は生存者約130名を率いて最後の夜襲を行い戦死した。

「砲兵隊の慰霊碑」である。
英語で「1944年9月にアンガウル島の戦いに命を捧げた砲兵隊が眠る」と刻まれている。第一大隊の指揮下には砲兵第二中隊の芝崎省三中尉以下180名がいた。実際に配備されていた砲は不明であるが、75mm野砲6門が当時の師団砲兵隊1個中隊の標準編成であった。

海岸側には兵士の個人名が書かれた小さい碑がたくさん並んでいる。各兵士の遺族が立てたものであると思われる。

なお、この場所のすぐ西側は「レッドビーチ」と呼ばれる砂浜があり、これは米軍が上陸した海岸2ヶ所のうちの1つである。

「慰霊碑群」の歩き方

「アンガウル港」北側の道を道なりに進むと、集落を抜けて「アンガウル飛行場」と平行な道に出る。

この道を北東海岸へ向けて進むと「発電所」がある。「アンガウル港」から「発電所」までは約2kmの道のりである。

「発電所」のところは「十字路」となっている。この「十字路」を直進したあとは一本道となり、この道の終点が「慰霊碑群」の広場となっている。

飛行機墓場

島北東部の海岸沿いに「飛行機墓場」と呼ばれる飛行機の残骸の散らばる一帯がある。
複数の種類の飛行機の残骸が1ヶ所に集められており、墜落したものでなく不要となった航空機を集めて廃棄したもののようである。

「B24」のプロペラである。先端部は大きく折れ曲がっている。

「B24」の下部機銃座である。
「B24」は12.7mm機銃を計10挺装備していた(J型)。下部機銃座には12.7mm機銃2挺が装備された。

航空機のコックピット部分である。風防部分の骨組みの多さが特徴的である。

コックピットの後部側には円形の機銃座のような部分がある。これらの特徴から、これは艦上攻撃機TBF(アベンジャー)であると思われる。アベンジャーは操縦士、無線士のほか砲塔射撃手が搭乗し、背面機銃は全周旋回可能な銃塔式であった。

飛行機の胴体部分のようなものがひしゃげたように崩れている。現地住民の話では、過去に米陸軍輸送機C-47(スカイトレイン)のコックピット部分があったが朽ちて崩れてしまった、とのことであった。これがそのC-47かもしれない。

主翼部分の桁のようである。ゴム部品らしきものが取り付けられている。燃料タンクの防弾ゴムであろうか。

航空機のエンジンである。

型式不明であるが、一機ほぼ全体が残った形の単発機がある。写真右手側がエンジン、左手前側が右翼、左奥が胴体である。エンジンと胴体は完全に分離した状態となっている。

コックピットの後部である。米軍機は日本軍機と比べて総じてパイロット背中側の防弾板が厚く、生存率が高かったようである。

尾翼部分である。垂直尾翼、水平尾翼ともに胴体から外れた状態となっている。

「飛行機墓場」の歩き方

「アンガウル港」北側の道を道なりに進むと、集落を抜けて「アンガウル飛行場」と平行な道に出る。この道を北東海岸へ向けて進むと発電所が出てくる。港から発電所までは約2kmの道のりである。

発電所のある十字路を右折すると、左手に旧コーストガードの廃屋がある。十字路から約400mほどのところの左側(海岸側)一帯が飛行機墓場である。「B24」のプロペラは道から見えている。なお、飛行機墓場のすぐ東側には塹壕がある。

塹壕

飛行機墓場のすぐ東側に塹壕が遺されている。

場所によってはかなり深い。中に立つと、場所によっては大人の身長でも地表に頭が出ないところもある。深さから考えると、戦車の侵攻を妨害するために掘られた戦車壕だったかもしれない。戦車壕は米軍戦車を食い止める効果はあったが、米兵が壕に隠れしまって攻撃しにくくなる、という面もあったようである。

硬い珊瑚の岩盤を掘るのは大変な苦労だったようである。戦記によっては「一日中掘っても20cm程度掘り下げるのがやっとであった」という記述も見られる。塹壕は海岸まで続いている。

塹壕は島の外周道路の部分は埋められているが、道路を越えて内陸の方まで続いている。端の方は土砂で埋まってしまったのか、徐々に浅くなって終わっている。

「塹壕」の歩き方

「アンガウル港」北側の道を道なりに進むと、集落を抜けて「アンガウル飛行場」と平行な道に出る。この道を北東海岸へ向けて進むと発電所が出てくる。港から発電所までは約2kmの道のりである。

発電所のある十字路を右折すると、左手に旧コーストガードの廃屋がある。十字路から約500mほどのところの両側が塹壕となっている。飛行機墓場のすぐ東側である。

アンガウル飛行場

「アンガウル飛行場」である。米軍がこの小島を狙った動機はこの飛行場であった。パラオ諸島は火山島起源で起伏の激しい地形の島が多いが、アンガウル島は飛行場の運用に適した平坦な地形だったのである。米軍はアンガウル島を占領したあと、直ちに飛行場の建設に着手した。

現在、滑走路は約2000m程度に拡張されている。滑走路長としては200人乗り程度の大きさの航空機でも離発着できる規模である。滑走路の北端には街灯のようなものが一本立っており、その先はそのまま海となっている。

滑走路の北端西側には駐機場のようなスペースがある。

以前はベラウ航空が小型機でコロールからほぼ毎日運航を行っていたが、現在は閉業して定期便はない。滑走路の南端西側にはターミナルがある。ターミナルといっても田舎のバス停のような小さいものであり、現在使われていないためか周辺は草が伸び放題である。

「アンガウル飛行場」の歩き方

「アンガウル港」から南へ400mほど、3つめのT字路を左折(東へ)する。集落を抜け、左折してから約1kmで滑走路に出る。

ターミナルは滑走路の手前左側にある。滑走路南端からは200mほど北に行った西側である。

ブルービーチ

昭和19年(1944年)9月17日午前5時30分、米第81師団約21000名が上陸作戦を開始した。ブルービーチは米軍が上陸を行った2ヶ所のうちの一つである。

島の外周道路から海岸に出る小道の脇に米軍側の記念碑が建てられている。「アンガウル島解放のために戦った第81師団兵士に捧ぐ-ワイルドキャットは勝利するか戦死するまで立ち止まらない」と刻まれている。ワイルドキャットは第81師団の愛称である。

海岸は約600mに渡って砂浜が続いている。

海岸に出て右手に歩いていくと、砂浜に錆びた鉄骨の構造物が3つある。これは米軍が占領後に設置した物資荷揚げのためのものである。

鉄骨の構造物と対をなす形で、海に向かってレールが伸びている。浅瀬まで来た舟艇をこのレールの上の台車に乗せ、陸地に引き揚げるためのものではないだろうか。

米軍はこの島東部のブルービーチのほか、島北部のレッドビーチの二面から上陸を行った。

「ブルービーチ」の歩き方

「アンガウル港」から南へ400mほど、3つめのT字路を左折(東へ)する。集落を抜け、左折してから約1kmで滑走路に出る。道は滑走路を横切る形で東へ抜ける外周道路へ続いている。
なお、滑走路を横切る手前にはターミナルがある。

滑走路を越えて外周道路へ入り、1.3kmあたりのところの右手に米軍の記念碑が立っている。

この記念碑の脇の小道を進むと砂浜に出ることができる。砂浜に出て右手に100~200mのところに荷揚げ用レールの残骸が遺されている。

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