大東亜戦争におけるコロール島・バベルダオブ島の歴史

パラオ共和国の首都はかつてコロール島コロール州であったが、平成18年(2006年)にバベルダオブ島のマルキョク州に移転した。しかし、現在も経済、交通の中心地はコロール島である。また、パラオ共和国約2万人の人口の約半分はコロール島に住んでいる。

パラオ諸島で最大の島はバベルダオブ島であり、諸島の総面積の7割を占める。面積は331平方㎞であり、これはミクロネシア全体でもグアム島に次いで2番目の大きさである。火山を起源とする島であり、全体的に山がちである。パラオ諸島の玄関口となているパラオ国際空港もバベルダオブ島にある。

コロール島とバベルダオブ島にはかつてKBブリッジ(韓国企業が建設)が架けられていたが、平成8年(1996年)に自然崩落した。現在は日本の援助によって再建されたニューKBブリッジが両島を結んでいる。コロール島は周辺のアラカベサン島、マラカル島とも橋で結ばれている。

第一次世界大戦の結果、大正8年(1919年)に南洋諸島(パラオ諸島・マリアナ諸島等)がドイツ植民地から日本の委任統治領になると、パラオ諸島は日本の南洋統治の中心地となっていた。その中でも、コロール島には南洋庁が置かれ南洋植民地統治の中心となった。特に1930年代頃からは多くの日本人が移住し、学校や病院が建設され、商店が立ち並び、日本人村が形成されていった。

多くの南洋諸島においてそうであったように、日本は現地人の教育普及や環境改善にも力を入れた。移住した日本人向けの小学校のほか、日本語を母国語としないパラオ人向けの公学校が建てられた。公学校は大正4年(1915年)から建設が始まり、コロール島などパラオ諸島各地に6つの公学校が建設された。

公学校には義務教育課程である3年間の「本科」があり、「本科」で優秀な成績を収めた生徒は2年間の「補習科」に進学できた。教育では日本語習得が重視され、カリキュラムの約半分の時間が割り当てられた。さらに補習科の卒業生で特に優秀だった生徒には「本工徒弟養成所」に進学する道が開かれていた。「本工徒弟養成所」は全南洋群島から毎年約30人が選抜されて建築や土木、機械などを学ぶエリート校であった。また、日本統治時代後半には内地に留学して高等教育を受けたパラオ人も少数ながら存在した。

パラオ諸島は開戦後も比較的後方に位置し、産業・教育は発展していった。しかし、昭和19年(1944年)にマリアナ諸島が失陥すると、いよいよ米軍の攻撃の矛先がパラオ諸島にも向けられてきた。パラオ諸島は米軍が奪還を狙うフィリピンの手前に位置していたのである。米軍の目的はフィリピン諸島攻略支援のための飛行場確保であった。この事態を受け、日本軍はパラオ諸島の防備強化を決定、既に配備されていた陸海軍部隊に加え、関東軍から陸軍の精鋭、歩兵第十四師団をパラオ諸島に送る事となった。

当時は、米海軍潜水艦の跳梁によって日本軍船舶の被害が激増していたが、歩兵第十四師団の輸送はほとんど被害を受けることなく行われ、師団主力はパラオ本島(バベルダオブ島)に配備された。その後、米軍は飛行場が既に建設されていたペリリュー島と平坦で新規建設が可能なアンガウル島に上陸を行った。

2島には師団から分派されていた守備隊が頑強に抵抗を行ったが、激戦ののちに玉砕した。なお、パラオ諸島の他の島は比較的起伏が激しいために飛行場建設に向かず、終戦まで米軍は上陸しなかった。そのため、これらの島では日本軍部隊と一般邦人は制空権、制海権を握られた状態で終戦まで孤立していた。

戦後は日本人が引き揚げ、太平洋諸島信託統治領の首都もサイパンに置かれたため、人口は激減し、インフラ整備も後退した。新たな施政者となったアメリカは経済開発や産業振興に消極的であり、都市開発が本格的に行われるようになったのはパラオ自治政府が成立して日本や台湾が援助を始めた1980年代以降のこととなる。

南洋植民地統治の中心となったコロール島には庁舎などが多く残されており、日本統治時代を偲ばせる。日本軍兵器としては「特二式内火艇」が遺されているが、これは今日では現存数が少なく貴重である。バベルダオブ島には「零式艦上戦闘機(零戦)」や艦上爆撃機「彗星」の残骸のほか、軍事施設跡、民間工場跡が遺されている。