大東亜戦争におけるペリリュー島の歴史

ペリリュー島はパラオ諸島を構成する島のひとつであり、南北約9km・東西約3kmと南北に細長い形をした島の面積は13k㎡である。パラオ共和国の中心地であるコロール島からは南に約50km、アンガウル島からは北東約10kmである。周囲を珊瑚礁に囲まれており、島自体も珊瑚礁で出来ている。中央部に海抜80m~90mの切り立った岩山が幾つかあるが、島のほとんどは平坦である。

現在の人口は約500人、そのほとんどが島の北部の狭いエリアに居住している。戦前は南部の平坦地に住宅地が分布していたようであるが、飛行場建設などに伴って住宅地が移転し、また戦争中に南部が激しい戦闘で廃墟となってしまったため、戦後の新しい町は北部にできたようである。

昭和15年(1940年)5月、ペリリュー島南部の平坦地に1200mの滑走路2本をもつ日本海軍の飛行場が完成した。パラオ諸島のほとんどの島は火山島を起源とする起伏の激しい地形であるが、ペリリュー島は飛行場の運用に適した平坦な島だったのである。これは昭和16年(1941年)10月23日に完成したマリアナ諸島 テニアン島の「牛飛行場(ハゴイ飛行場)」と並ぶ、南洋諸島最大規模の日本軍飛行場であった。また、コロール島周辺も港湾や水上機基地などの整備が進められ、パラオ諸島は日本海軍の根拠地としての色合いを濃くしていった。

戦局が日増しに悪化していくなか、昭和19年(1944年)9月15日、ついにペリリュー島に米軍の上陸が開始された。この日、ペリリュー島に殺到したのは米第1海兵師団の精鋭約21000名、これに対して中川大佐以下約10000名の守備隊は猛烈な反撃を実施した。特に、水際陣地における守備隊の反撃は凄まじく、米軍は大きな損害を出し、何度も撃退された。海岸は彼我の将兵の遺体で埋まり、砂は血で染まったという。

しかし、圧倒的な兵力で押寄せる米軍は遂に橋頭堡を確保、内陸に向けて進撃を開始した。中川大佐はかねてより構築していた複郭陣地に拠って持久戦を展開した。守備隊の残存兵力は山岳地帯の地形を利用して米軍の進撃を阻んだ。米軍は当初、3~4日での攻略を考えていたが、守備隊の勇戦は実に2ヶ月以上に及んだ。その間、あまりの損害の多さに米第1海兵師団が撤退、換わって米陸軍第81歩兵師団が到着、投入された米軍兵力は実に40000名近くに上った。

しかしながら、孤立無援で戦う守備隊将兵は次々と斃れ、その最期の時も迫っていた。昭和19年(1944年)11月24日16時、ペリリュー地区隊司令部の中川大佐からパラオ集団司令部に、予め取決めてあった暗号電文が届いた。
「サクラ・サクラ」・・・それはペリリュー島守備隊将兵からの最期の別れの言葉であった。

パラオ人は概ね親日的である。国旗は日の丸に似たデザインであり、日本語風の名前を持つ人も多い。住民の戦争被害が比較的小さかったことが、戦後反日にならなかった要因の一つであると思われる。特にペリリュー島では戦闘前に島民をパラオ本島に避難させ、日本人だけが残って戦い玉砕したのである。

アンガウル島から生還した舩坂弘氏の著作「サクラサクラ(1966年)」には以下のエピソードが載っているそうである。

ある老人が若い頃日本兵と仲良くなり、戦況が日本に不利となった時「一緒に戦わせて欲しい」と日本兵隊長に進言したが「帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!」と激昂され、見せ掛けの友情だったのかと失意の中島を離れる船に乗り込んだ。が、船が島を離れた瞬間その隊長を含め日本兵が手を振って浜へ走り出てきた。老人はその時、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという。

現在も島内には「九五式軽戦車」や「零式艦上戦闘機」のほか各種銃砲類が大量に遺されている。また、おびただしい弾痕の残る司令部跡などの建物は戦闘の激しさを物語っている。島内に遺る500を超える洞窟陣地には未だに当時の遺品が散らばっている。これらの戦闘の痕跡は全く整備されていないものが多く、生々しいリアリティーがあるのがペリリュー島の戦跡の特徴である。

ペリリュー島まで

コロール-ペリリュー間には州政府が運航する貨客船があるが、週3便程度の不定期路線である。時間は頻繁に変更されるので、直前にホテルなどからState Officeに電話をしてもらってスケジュールを確認するのが良いだろう。
片道4ドルで予約は不要。所要時間は2時間半程度である。

以前はベラウ航空が小型機によってほぼ毎日運航を行っていたが、現在は閉業している。そのため、現在のペリリュー島への公共交通機関は貨客船しかなく非常に行きにくい場所となっている。

ダイビングショップの「マーメルダイバーズ」はコロール-ペリリュー間の移動のみを片道40ドルで扱っている。ただし、ダイビングツアー等でボートの移動があるときに便乗できるのみであり、ボートの移動がないときは乗ることができない。スピードボートで移動自体は1時間程度だが、途中ダイビングをしながら移動するために時間がかかる。ボートのスケジュールはコロール島の「マーメルダイバーズ」の営業所で確認できる。

マーメルダイバーズ
http://www.mamldivers.com/mt/index.html (2023年現在 HP閉鎖)

ペリリューダイバーズ
http://www.dolphinbay-resort-peleliu.com/jpn/index.html

コロールから往復の移動手段を心配せずに戦跡を回るには、戦跡ツアーを利用するのが最も良いだろう。朝にコロールを出発してガイドに戦跡を案内してもらい、夕方にコロールに戻るツアーがある。

ペリリュー島の交通情報

ペリリュー島の戦跡を見学するためには、島上陸後に州政府事務所で「ランドツアーパーミット(LAND TOUR PERMIT、右上写真)」を5ドル/日、あるいは12ドル/週で購入して携帯しなければならない。島内にはパトロールが巡回しており、提示を求められることがある。

島内にはレンタカーやタクシーがない。ダイブショップや売店でレンタサイクルを10ドル/日で貸し出しているところがあるので、これが島内の主要な移動手段となる。

なお、左下写真の店は州政府事務所から南へ100mほどの「アイランドテラス」1階の売店であり、ここでも自転車を貸し出している。島の北端から南端まで自転車で走ると45分程度である。

島内には2件のレストランしかない。「イエローヴォールレストラン(右下写真)」は「マーメルダイバーズ」のツアー客の宿泊がある場合しか営業していないようである。右写真の「ジャルバーズサンセットバー&グリル」もホテル付属のレストランであるが、宿泊客が多いためほぼ毎日営業のようである。しかし、宿泊客でない場合、夕食は当日午後4時までの予約が必要である。

(2010年現在)