北部(旧北地区): ペリリュー島市街地

大東亜戦争におけるペリリュー島の歴史
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ペリリュー島市街地の戦跡一覧

小学校門柱

「ペリリュー小学校」入口の「門柱」は日本統治時代の公学校の「門柱」である。
公学校は現地人の為の学校であった。

「門柱」を通ったところは運動場となっている。

「門柱」はところどころ削れている。白いペンキが塗られている。

「ペリリュー小学校(「Peleliu Elementary School」)」は戦後の昭和20年(1945年)に設立された。

「小学校」から外を見たところである。
正面は国旗掲揚台、右側の建物は「州政府オフィス」である。

「小学校」の前の交差点に「ハルオ・イグナシオ・レメリク大統領の墓」がある。
ハルオ・イグナシオ・レメリクは、昭和11年(1933年)6月1日に日系人としてペリリュー島で生まれた。昭和53年(1981年)3月2日、パラオ共和国(自治政府)初代大統領でに就任したが、昭和60年(1985年)6月30日、反政府組織に暗殺された。
コロール島の「ベラウ国立博物館」に「記念碑」がある。

「小学校門柱」の歩き方
市街地北側である。

「州政府オフィス」前の道路を挟んだ反対側である。「門柱」の横には「Peleliu Elementary School」の看板がかかっている。

「大統領の墓」は交差点の北側である。

電信所跡・カシ陣地跡地

市街地の民家に囲まれるように「電信所跡」が遺されている。
表通りから少し入ったところにあるが、表通りから「電信所跡」の一部が見えている。

住宅地が近く島民が立ち入ることが多いためか、内部にはゴミが散乱している。この棟の2階の床は大部分が崩落している。

この「建物」は日本海軍の「電信所」であった。
後に、「電信所」周辺に「トーチカ」「散兵壕(塹壕)」「洞窟」が造られ、この付近一帯が米軍の上陸に備えた防御陣地(「カシ陣地」)となっていた。

表通りから見ると小さい「建物」に見えるが、複数棟で構成されており、大規模な「電信所」であった事が分かる。

2階に登る階段が遺されている。

「電信所」を中心とする「カシ陣地」は海軍部隊によって守備されていが、戦闘に不慣れな部隊(軍属を主力とする設営隊等)が多く、効果的な防御戦闘を行う事は難しかった。

昭和19年(1944年)9月24日午後、米第81歩兵師団第321連隊第2大隊の偵察隊が、「カシ陣地」付近に前進し、「電信所」「通信塔」等を発見した。この時、日本軍部隊による反撃は無かったという。

9月25日17時、北進してきた米第1海兵師団第5連隊第1大隊によって「電信所」が占領された。C中隊の1個小隊が周囲の「建物」の掃討を行い、「電信所」周辺の「カシ陣地」は米軍に制圧された。
同日夜から未明にかけて、日本軍部隊は「電信所」周辺に対して「水戸山」からの砲撃と3回に渡る強力な夜襲を実施した。結果、米軍部隊に大きな損害を与えたが、「カシ陣地」の奪還はならなかった。

9月27日朝、米海兵第1師団第5連隊第2大隊は、占領した「電信所」に大隊指揮所を置いていた。
大隊長のゴードン・D・ゲイル少佐は「水戸山」北西部(「トーチカ(大)」)に対する攻撃を指揮していた。

この時、「水戸山」から発射された日本軍の迫撃砲弾が「電信所」内部を直撃した。ゲイル少佐は難を逃れたが、ゲイル少佐の周囲にいた大隊の幕僚・本部要員は全員戦死した。

「建物」は戦闘よる損傷が激しい。戦後も維持管理はされてないようで、朽ちるに任せている。
写真中央やや左の大きなコンクリート片は元々壁面だったようであるが、天井部分と数本の鉄筋でぶら下がっており、風で揺れている状態であった。

「建物」横に立方体の「貯水槽」が遺されている。尚、これと同形状の「貯水槽」はペリリュー島内に複数遺されている。

表通りから入り、正面の「建物」の右側には「円筒形の構造物」が2つ遺されている。窓などはなく、こちらも「貯水槽」だったと思われる。

「円筒形の構造物」の内部。

中央に柱が一本ある構造であるのが分かる。現在、中は「電信所跡」横の民家が物置として使っているようである。窓や入口部分は戦後に住民が物置に改造するために開けたものであろうか。

「電信所跡・カシ陣地跡地」の歩き方
電信所跡・カシ陣地跡地市街地中ほどである。
「州政府オフィス」から南東へ300mほど行ったところの右手側から「建物」が見える。

表通りから入っていった正面が「電信所跡」であり、その右側に「円筒形の構造物」が2つある。

「電信所跡」からさらに奥にはもう1棟2階建ての小さい「建物」がある。

慰霊碑群

市街地から南下した場所に墓地がある。
ここにペリリュー島で戦没した日本軍将兵や軍属、一般邦人や島民の為の「慰霊碑」が多数建てられている。

「みたま会」による「慰霊塔」を囲むように、左に舩坂弘氏が建立した「慰霊碑」、中央に日本国政府が建立した「戦没日本人之碑」、左に「三十四会(ペリリュー島守備隊の生存者よる戦友会)」が建立した「慰霊碑」があり、周囲には「個人の慰霊碑」が建てられている。

「みたま会」による「慰霊塔(納骨堂併設)」。
昭和45年(1970年)、来日したペリリュー島酋長と佐藤栄作首相(当時)との間に、ペリリュー島に於ける英霊の供養に関する覚書が交され、日本政府から1万ドルが交付された。この覚書に基づき、昭和47年(1972年)3月30日、「慰霊塔」が建設された。尚、「みたま会」は昭和47年(1972年)にペリリュー島戦没者の遺族によって結成された。

「沖縄の塔」。
パラオ諸島には戦前から沖縄県出身者が大勢入植していた。大東亜戦争末期、彼らの多くは軍属として徴用され、その卓越した水泳技術で活躍した。

「戦車隊慰霊碑」(右)と「砲兵隊慰霊碑」(左)。
第十四師団戦車隊(隊長:天野国臣大尉)128名は、昭和19年(1944年)9月15日夕方、米軍橋頭堡に対して反撃を実施したが、全滅した。砲兵大隊(大隊長:小林與平少佐)666名も、米軍に対して猛烈な砲撃を行い、大打撃を与えたが、殆どの将兵は玉砕した。

舩坂弘氏(アンガウル島守備隊歩兵第五九連隊第一大隊の生還者)が建立した「慰霊碑」である。
舩坂弘氏は、戦後一貫して戦没将兵の英霊の供養に努めてこられた。アンガウル島にも舩坂弘氏の建立した「慰霊碑」がある。

「個人の慰霊碑」も多数建てられている。
戦没した将兵の遺族が戦後建てたものと思われる。

歩兵第十五連隊第三大隊の大隊長であった千明武久大尉の「慰霊碑」も建てられている。昭和19年(1944年)9月15日、千明武久大尉は南地区隊長として米軍上陸海岸(オレンジ2ビーチ・オレンジ3ビーチ)正面で戦闘を指揮していたが、16日未明、戦闘指揮所に於いて壮烈な戦死を遂げた。

墓地の入口すぐにある「昇魂の碑」。ペリリュー島で亡くなった人を慰霊している。

「慰霊碑群」の歩き方
市街地から南下した場所にある「墓地」の入口側にある。

ペリリュー小学校の前の交差点(「ハルオ・イグナシオ・レメリク大統領の墓」がある)から「州政府オフィス」前の道路を道なりに南下する。約1.8km南下すると左手に「病院」がある。

「病院」のすぐ先の道の左手に「墓地」の入口がある。
「墓地」に入ってすぐに「慰霊碑群」がある。
(N:007°01′45.93″ E:134°14′54.79″)

LVT(A)-4

米軍の水陸両用トラック「LVT(Landing Vehicle Tracked)」が遺されている。

上陸作戦においては、舟艇ではある程度の水深のあるところまでしか近づけないため、兵士が浅瀬を前進しながら岸に辿り着かなくてはならなかった。

そこで開発されたのが「LVT」である。
「LVT」は沖合いの輸送艦から発進し、水上を進んでそのまま陸上も走ることができた。複数の型があるが、総生産台数は18621台である。

「LVT」にはスクリューは装備されておらず、キャタピラが水かきのような形となっており、これで推進力を得ていた。

この車両は「LVT(A)-4」である。

初期型の装備は機関銃2丁のみで装甲も薄かったが、この型は75mm砲と機関銃1挺(後期生産型は2挺)を装備し、装甲も強化された。
上陸時の火力支援を目的としており、兵員輸送は行わない。

乗員は6名で、指揮官(車長)1名・射手2名・操縦士2名・補助1名であった。

裂け目から中を覗くとエンジンが見える。250馬力であった。尚、「LVT(A)-4」の生産台数は1890台であった。

「LVT(A)-4」の歩き方
市街地の中心地から南西へ約2.5kmほどのところである。

道の左側(内陸側)にダートの脇道があり、ここを30mほど入ったところに「LVT(A)-4」が置かれている。周囲は人の手が入っているのか、草は刈り取られている。

なお、この脇道からさらに700mほど行くとアスファルトの分岐路があるので、場所を探す目安になるだろう。

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