飛行場関連施設周辺の戦跡一覧
ペリリュー第二次世界大戦記念博物館(Peleliu World War II Memorial Museum)
戦争博物館である。中には「九六式二十五粍高角機銃(96式25mm高角機銃)」や「九二式重機関銃」のほか、小銃や爆弾などの兵器類が展示されている。当時の写真や米軍が日本兵に降伏を呼びかけるビラなどもある。展示資料は豊富だが、館内の撮影は禁止である。
元は日本軍通信局であった。建物は米軍の攻撃であちこち大きな穴が開いているが、外観を残したまま内側から補修されており、建物内は冷房が効いている。
入口と反対側の面は特に損傷が激しく、米軍の攻撃の苛烈さが伺える。左上部分が大きく削られているほか、無数の弾痕が壁面に残されている。
米軍が占領直後に撮影した写真が残っている。左上の損傷した部分が確かに当時のものであることが分かる。
建物の周りは草が刈られてきれいに整備されており、ここに記念碑が立てられている。
碑には広島の被爆敷石が嵌め込まれている。これは1991年にひろしま・祈りの石の会という団体が平和への祈りを込めて寄贈したものである。この敷石は広島の相生橋付近で使われていた市内電車の線路敷石であり、花崗岩でできている。原子爆弾の爆心地から、北約200mの場所にあった。
「ペリリュー第二次世界大戦記念博物館(Peleliu World War II Memorial Museum)」の歩き方
市街地から5kmほど南へ行ったところの左手に現発電所がある。
この現発電所から300mほどのところで道は分岐するが、右側を進む。分岐点からさらに600mほどのところの左手が博物館となっている。
発電所跡
発電所跡である。大きい建物と小さい建物から構成されている。
米軍占領当時に撮影された写真が残っている。現在はジャングルに囲まれているが、当時は全く草がない。当時このあたり一帯は司令部や飛行場関連施設があり、これらの施設に給電していたのであろう。
大きい方の建物である。建物から木が生えており、年月の経過を感じさせる。
建物内部にはネジの突き出たコンクリートの台座がある。発電機を据え付けていた台であろうか。
建物は2階建てであるが、一部を残して2階の床はなくなっている。また、いくつかの小部屋がある。
小さいほうの建物には小さい窓があり、鉄板で覆われている。燃料庫だったと思われる。
建物のそばには正方形のトーチカがある。
こちらもトーチカに似た構造であるが、銃眼等はなく、トーチカよりも背が高い。貯水槽であろうか。
「発電所跡」の歩き方
市街地から5kmほど南へ行ったところの左手に現発電所がある。
この現発電所から300mほどのところで道は分岐するが、左側を進む。約700mほどで再び分岐点が出てくるが、右斜め前の道を進む。分岐点は細かい道が入り組んでいるが、旧発電所の建物自体は大きいので近くまで行けば分かるだろう。
海軍司令部跡
海軍司令部跡である。前面はテラス式となっているが、これは当時南洋で広く見られた設計である。
テラスの一階部分である。開放的な雰囲気である。
柱に千羽鶴が掛けられている。柱には慰霊の言葉と氏名、住所が書かれていた。訪れた遺族が書いたものであろう。
トイレの跡のようである。個室が3つ並んでいたようである。
建物は2階建てある。前面のテラス式の部分の奥は通常の壁のある建物となっている。
二階中央部の天井に大きな破孔が開いている。航空爆弾が直撃したのであろう。
建物を側面から見たところである。天井部分からも木が生えている。
当時の写真が残っている。テラスの二階中央の天井部分が大きく削られており、この損傷が当時の戦闘でできたものであることが分かる。
正面から見て司令部のすぐ左側にカマボコ型の格納庫のような構造物がある。当時の写真にはこれは写っておらず、米軍が占領後に建てたものだと思われる。
波型の薄いトタン板のようなものでできている。当時圧倒的優勢であった米軍は格納庫の防御力は全く考えていないようである。
中にはエンジンのような機械部品が転がっている。
同じようなカマボコ型の構造物は複数あったようであるが、先ほどの一つを除いて崩れ落ちてしまっている。
正面から見て司令部の右側には半地下の防空壕がある。司令部からすぐ近くであり、攻撃を受けたときにすぐに避難できるようになっていたのであろう。上部は珊瑚の石が積まれているが、その上に木が生えている。
半地下防空壕には2ヶ所の入口がある。
階段を降りていくと、分厚い鉄の扉が設置されている。
防空壕はしっかりとしたコンクリート造りである。中は詰めれば数十人が入れそうな広さである。
「海軍司令部跡」の歩き方
市街地から5kmほど南へ行ったところの左手に発電所がある。この発電所から300mほどのところで道は分岐するが、左側を進む。約700mほどで再び分岐点が出てくるが、右斜め前の道を進む。
分岐点は細かい道が入り組んでいるが、発電所跡の前の道である。発電所跡から200mほど行くと正面に司令部のテラスが見えてくる。
LVT(A)-2、LVT(A)-4
米軍の水陸両用トラック「LVT(Landing Vehicle Tracked」である。上陸作戦においては、舟艇ではある程度の水深のあるところまでしか近づけず、兵士は装備を抱えて無防備な状態で岸まで浅瀬を進まねばならず、損害が大きくなる傾向があった。
そこで開発されたのが「LVT」である。「LVT」は後部に兵士を搭載するスペースがあり、沖合いの輸送艦から発進し、比較的安全に陸まで兵士を運んだ。複数の型があるが、総生産台数は18621台である。
左側の車両は「LVT(A)-2」型である。「(A)」は装甲が付加された型であることを意味する。車体自体は「LVT-2」と同一であり、車体前面に12.5mmの装甲板が、車体側面と車体後部に6mmの装甲板が取付けられた。操縦席には左側前方のみに開閉可能な装甲板の窓が取付けられた。
「LVT(A)-2」は、武装・エンジン・トランスミッション等は「LVT-2」と同一であったが、装甲板を装備した事にによって重量が増え、速度・航続距離・積載量は低下した。愛称は「ウォーターバッファロー」である。
乗員は3名であり、兵員は18名を搭載することができた。ランプドアがないため、兵員は側面をよじ登って昇り降りしなくてはならなかった。窓から内部を覗き込むことができる。
「LVT(A)-2」は450両が生産され、米海兵隊に200両、米陸軍に250両が配備された。後に火力支援型の「LVT(A)-1」「LVT(A)-4」が開発され配備されていったため、兵員輸送型である「LVT(A)-2」の生産数は比較的少ない。
右側の車両は火力支援型の「LVT(A)-4」型である。75mm榴弾砲と同軸機関銃を装備した砲塔を搭載、更に機関銃2挺を装備していた。既に開発されていた火力支援型の「LVT(A)-1」の武装を強化した型式であった。生産数は1890両である。
装甲は、車体前面が12.5mm、車体側面・後部が6mmであり、砲塔前面が37.5mm、砲塔側面が25.0mmであった。「LVT(A)-4」の初めて実戦投入は、昭和19年(1944年)6月15日からのマリアナ諸島サイパン島上陸作戦においてであった。 ペリリュー島上陸作戦では第3水陸両用トラクター大隊の「LVT(A)-4」48両が投入された。
米海兵隊の敵前上陸時の火力支援車両として常に先陣を務めた。この型も愛称は「ウォーターバッファロー」であるが、海兵隊員は一般的に「アムタンク(AMTANK:水陸両用戦車)」と呼んだ。乗員は操縦手2名、砲手2名、機関銃手2名の計6名であった。なお、この型は火力支援型であり、兵員の搭載はできない。
操縦席右側に機関銃のボールマウントを装備していた。このボールマウントには「ブローニングM1919A4重機関銃」1挺が搭載された。
2両の「LVT」の脇にドロップタンク(増槽)が置かれている。ドロップタンクは航空機が機内に搭載する燃料に加えて、機外に燃料を追加搭載できるようにしたものである。航続距離を伸ばせる半面、空気抵抗が増加して空力性能が落ちるため、空戦時には切り離す。
どの機種に搭載されていたものか、などの詳細は不明である。
「LVT(A)-2、LVT(A)-4」の歩き方
LVT(A)-2、LVT(A)-4市街地から5kmほど南へ行ったところの左手に現発電所がある。この現発電所から300mほどのところで道は分岐するが、左側を進む。約700mほどで再び分岐点が出てくるが、ここは直進する。
さらに300mほど行くと左手側にLVTが2両置かれている。
LVT-4
兵員輸送型である「LVT-4」型である。乗員は3名、搭載できる兵員は30名であった。「LVT」の各型式の中では最も多数(8351両)生産された。英国にも503両が貸与(レンドリース)された。
最大の特徴は車体後部に大型の昇降扉(ランプドア)を装備していることである。このドアのために乗車・下車の際に兵員は車体側面を乗り越える必要がなくなり、敵前上陸において兵員の被弾率を大きく下げた。また、重量物、車両の搭載・揚陸も可能となった。
「LVT-4」はエンジンとギアボックスを車体前部に搭載した。これによって、操縦席後方から車体後部までが搭載空間となり、車体後部に大型の昇降扉(ランプドア)を装備する事ができた。 エンジンとギアボックスは「LVT-2」と同一であった。
武装は、「LVT-2」と同様に「ブローニングM2重機関銃1挺」(50口径 12.7mm)1挺と「ブローニングM1919A4重機関銃」(30口径 7.62mm)1挺を装備し、それぞれ弾薬6500発を搭載した。これらは車体前方の銃架に搭載され、銃架には防弾板も装備された。
車体は装甲されていなかったが、着脱式の装甲板が用意され、車体前面が12.5mm、車体側面・後部が6mmであった。この装甲板を装着した場合は、搭載可能量が1360kg減った。
「LVT-4」の初めて実戦投入は、昭和19年(1944年)6月15日からのマリアナ諸島サイパン島上陸作戦においてであった。 それ以降、米海兵隊の主力上陸用舟艇(車両)として大量に運用された。
「LVT-4」の歩き方
LVT-4市街地から5kmほど南へ行ったところの左手に現発電所がある。この現発電所から300mほどのところで道は分岐するが、左側を進む。約700mほどで再び分岐点が出てくるが、ここは直進する。
さらに300mほど行くと左手側にLVTが2両置かれている。ここを越えたところで道が左に曲がる。曲がってから200mほど行った右手側にLVTが置かれている。
九五式軽戦車
昭和10年(1935年)に制式採用された「九五式軽戦車」である。ペリリュー島を守備していた第十四師団直轄の第十四師団戦車隊(天草戦車隊)は17両の「九五式軽戦車」を保有していた。
車体は野ざらしで錆びきっている。
米軍は昭和19年(1944年)9月15日5時から飛行場西側の海岸に上陸作戦を行った。14時頃、海岸に築かれたクロマツ陣地とアヤメ陣地の間に米第5海兵連隊第3大隊が橋頭堡を築き、続いて第5海兵連隊第2大隊が補強された。
対する日本軍守備隊は戦車隊を持って反撃する計画を立てた。砲塔には綱が巻かれ、ここに歩兵第二連隊第三大隊(原田大隊)第七中隊の歩兵が跨乗した。
16時30分、日本軍守備隊の反撃が開始された。天野戦車隊と第七中隊の歩兵は飛行場を斜めに突っ切る形で進撃、クロマツ陣地周辺の第5海兵連隊第2大隊に肉薄した。
しかしながら、飛行場周辺の米軍部隊は既に「M4中戦車(シャーマン)」多数を揚陸し、米海兵隊隊員も対戦車兵器(バズーカ砲)を装備していた。
さらに、天野戦車隊が見晴らしの良い飛行場を進撃したことで、この動きは上空の米軍観測機等に察知されてしまった。日本軍の反撃は米軍部隊の待ち受ける中に突っ込む形となってしまったのである。
日本軍の戦車は果敢に突進したが、米軍の戦車に次々と撃破された。また、跨乗していた日本軍歩兵は米軍部隊に対して白兵戦を挑んだが、凄まじい銃砲火に阻まれ、次々となぎ倒されていった。一部の日本軍部隊が海岸付近まで突進したものの、米軍部隊に大きな打撃を与えるには至らなかった。
天野戦車隊と原田大隊第七中隊の反撃は失敗、日本軍の戦車は全て撃破され、歩兵も殆どが戦死した。
「九五式軽戦車」の歩き方
市街地から5kmほど南へ行ったところの左手に現発電所がある。この現発電所から300mほどのところで道は分岐するが、右側を進む。分岐点からさらに600mほどのところの左手に戦争博物館がある。
博物館を越えて400mほどのところで道が2つに分岐するが、ここを左側に進む。さらに200mほどで今度は道が3つに分岐するが、軽戦車は真ん中と左の道の間に置かれている。
飛行場指揮所跡
司令部のすぐ南東に飛行場指揮所が遺されている。当時この一帯は飛行場関連施設が集まっていた。現在のペリリュー飛行場の滑走路は一本であるが、当時は二本の滑走路が十字に交差していた。飛行場指揮所は二本の滑走路の交点に近いところに位置する。
周囲はジャングルに囲まれている。建物の外周部分は廊下となっている。
建物の内部には特に何も残っていない。
飛行所指揮所のすぐ近くに防空壕が遺されている。
入口部分は小屋のようになっており、ここから地下へ階段が伸びている。
内部は縦長の構造である。奥には反対側の出入口がある。
「飛行場指揮所跡」の歩き方
市街地から5kmほど南へ行ったところの左手に発電所がある。この発電所から300mほどのところで道は分岐するが、左側を進む。約700mほどで再び分岐点が出てくるが、右斜め前の道を進む。
分岐点は細かい道が入り組んでいるが、発電所跡の前の道である。発電所跡から海軍司令部跡の前を通り、600mほど行くと道が大きく右にカーブする。カーブを過ぎたあたりの右手に獣道があるので、ここからジャングルを入る。獣道をたどっていくと塹壕のような浅い溝があり、これを越えたところに指揮所建物がある。
ペリリュー飛行場滑走路
ペリリュー飛行場滑走路である。ペリリュー島で日米の死闘が繰り広げられた原因となったのがこの飛行場であった。パラオ諸島は火山島起源で起伏の激しい地形の島が多いが、ペリリュー島は平坦であり飛行場運用に適していた。当時1200mの大型機用滑走路2本を備える大飛行場であった。現在滑走路は1本のみであり、1800mに延長されている。
滑走路の脇には夜間離着陸のために滑走路の位置を示すための滑走路灯がある。太陽電池のようなものが上に乗っている。
滑走路中ほどに空港ターミナルがある。ターミナルといっても田舎のバス停のようなものである。以前はベラウ航空がコロールから定期便を運航していたが、現在は閉業している。
米軍はフィリピン攻略を支援するためにペリリュー島の飛行場を狙ったが、占領に時間がかかり過ぎてフィリピン攻略に間に合わなかったため、ペリリュー島の占領は戦略的に無意味だったと言われている。
「ペリリュー飛行場滑走路」の歩き方
市街地から5kmほど南へ行ったところの左手に現発電所がある。この現発電所から300mほどのところで道は分岐するが、左側を進む。約700mほどで再び分岐点が出てくるが、ここは直進する。
さらに300mほど行くと左手側にLVTが2両置かれている。ここの分岐点を右斜め前に行くと滑走路に出る。滑走路の手前右手側にターミナルがある。