西部(旧西地区、旧飛行場):西地区陣地群

大東亜戦争におけるペリリュー島の歴史
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西地区陣地群周辺の戦跡一覧

三十四会看板、モミ陣地跡

ペリリュー市街地からサウスドック方面に伸びる道沿いに三十四会看板がある。昭和19年(1944年)11月24日に日本軍守備隊が本土に玉砕を伝える電報を送って組織的抵抗が終了したあとも、山口永陸軍少尉ら34人は洞窟に潜伏しながらゲリラ戦を続けていた。

三十四会とは、このペリリュー守備隊の生き残りの34人によって結成された戦友会である。三十四会の戦いを伝える看板が設置され、その周りには砲弾らしきものが置かれている。

三十四会の34人は昭和20年(1945年)8月の終戦後も、洞窟を転々と移動しながらゲリラ戦を続けていた。終戦を信じずにさらに1年8ヶ月戦ったが、1947年4月21日ついに米軍に投降した。看板の説明によると、この看板の場所から海側へ約30mの湿地帯にある洞窟が最後の洞窟であった、とされている。

看板の場所から獣道をしばらくいくと、天然の洞窟がある。

洞窟の内部はさほど広くない。

この一帯は、米軍上陸に備えて「モミ陣地」という陣地が築かれており、歩兵第二連隊第六中隊が守備していた。山口少尉は第六中隊の中の第二小隊の小隊長であった。現在は付近にトーチカなどの人工構築物は見当たらない。

米軍はこのモミ陣地よりも南側の海岸一帯に上陸したため、上陸戦では直接の戦闘はなかったようである。

南側の海岸に橋頭堡を築いた米軍は内陸に侵攻し、飛行場を占領した。モミ陣地一帯も上陸から4日後あたりで米軍に制圧されたようである。

戦史記録によると、ペリリュー島守備隊約10500名のうち、生還できたのは三十四会のメンバーを含めわずか446名となっている。

当時使われた機械部品の一部であろうか。

「三十四会看板、モミ陣地跡」の歩き方
市街地から南西へ伸びる道を行く。路面は白いが、途中に三叉路があってここだけ路面が黒くなっている。この路面の黒い三叉路から700mほどいったところの右手側に三十四会看板がある。なお、この看板の場所からさらに700mほど行ったところには発電所がある。

洞窟は看板の脇の獣道を30mほど入ったところにある。この洞窟付近から海岸にかけての一帯がモミ陣地だった。

ホワイトビーチ、イシマツ陣地跡

ホワイトビーチは島南西部の砂浜である。砂浜は約600mほどの長さがあり、南端は珊瑚の岩山となっている。岩山の向こう側はオレンジビーチである。昭和19年(1944年)9月15日、この両ビーチに米軍が上陸した。

ホワイトビーチの北端は岩場となっているが、歩いて行くことができる。なお、ホワイトビーチとは米軍側の呼称であり、日本軍側はこの岩場付近をイシマツ陣地と呼称していた。

岩場をしばらく進んだところにトーチカが遺されている。銃眼は比較的大きいものが一つだけである。この陣地は第十四師団歩兵第二連隊第二大隊第五中隊が守備していた。

裏側に回ると入口があるが、トーチカ内は土砂が堆積している。

銃眼のすぐ内側には砲が遺されている。かなり激しく腐食しており、砲身は縦に無数のひび割れが走っている。一見流木のようにも見える。

しかし、砲尾側に回ると弾を装填する部分の機構が残っており、確かにこれが砲であることが分かる。腐食が激しいために型式は不明であるが、米軍側の記録によると、この付近には「40mmの対艦砲」が配備されていた、とされている。

トーチカ後ろ側には何かの機械部品が落ちている。

トーチカからはホワイトビーチ全体を見渡すことができる。このトーチカはまさに押し寄せる米軍の上陸部隊に対する最前線に立っていた。イシマツ陣地に向けて進撃したのは、George P. Hunt大尉率いる米第1海兵師団第1海兵連隊第3大隊であった。

先ほどのトーチカからさらに岩場を歩いていくと、もう一つトーチカがある。形は先ほどのものと似ており、大きな銃眼が一つだけの構造である。

トーチカ上部には防御力強化か偽装のためか、珊瑚の石が積み上げられている。

米艦艇は上陸前に艦砲射撃を加えていたが、日本側の反撃は全くなく、日本軍は既に戦闘能力を失っていると考えていたようである。米軍の上陸部隊第一波が海岸まであと100m程度というところまで引き付けたところで、海岸の陣地群は米上陸部隊に一斉に射撃を開始した。

ホワイトビーチ、イシマツ陣地跡ホワイトビーチ、イシマツ陣地跡日米部隊が接近し過ぎたため、米艦砲は援護射撃ができなかった。「LVT」は次々と撃破され、米兵は次々と撃ち倒されていった。日本軍は第一波を退けたが、圧倒的な兵力を有する米軍は第二波、第三派を繰り出し、海岸を占領したのである。

トーチカの後面である。

このトーチカのすぐ横に第3大隊指揮官George P. Hunt大尉の記念碑がある。碑にはこの海岸での戦闘の詳細が書かれている。Hunt大尉はペリリュー島から生還し、戦後この戦いの様子を描いた本を出版した。

「ホワイトビーチ、イシマツ陣地跡」の歩き方
ホワイトビーチ、イシマツ陣地跡市街地から5kmほど南へ行ったところの左手に現発電所がある。この現発電所から300mほどのところで道は分岐するが、右側を進む。分岐点からさらに600mほどのところの左手には戦争博物館がある。

この戦争博物館の道を挟んだ反対側に脇道がある。この脇道を400mほど進むと海岸に出る。海岸に出たところのすぐ右手側は岩場となっており、ここを海岸沿いに2、3分歩いたところに一つ目のトーチカがある。さらに2、3分歩くともう一つのトーチカがある。

珊瑚丘陣地跡

米軍が上陸した西岸の北側には「珊瑚丘陣地」が築かれており、ここからやや北の「イシマツ陣地」、南の「イワマツ陣地」「クロマツ陣地」と合わせて歩兵第二連隊第二大隊第五中隊の176名が配置されていた。各陣地にはそれぞれ1個小隊が布陣していた。

トーチカが遺されている。コンクリート製のトーチカが珊瑚の岩で固められている。正面にほぼ正方形の銃眼が開いている。珊瑚の岩が偽装となり、遠くからでは一見しただけではその存在が分からないようになっている。

背後に回ると出入口用の比較的大きい穴が開けられている。

周辺にはトーチカ以外にも壕が複数遺されている。

昭和19年(1944年)9月15日05時30分、米艦艇から上陸支援のための艦砲射撃が開始された。これに対し、日本軍守備隊は沈黙を守った。陣地の場所を秘匿し、米軍の砲爆撃をかわすためであった。

壕は入口は若干整形されているようだが、内部は自然洞窟をそのまま利用したもののようである。

07時30分、米上陸部隊第一波が海岸まで100mまで迫ったとき、守備隊から一斉に射撃が開始された。上陸部隊は大損害を出して後退したが、兵力に勝る米軍は第二派、第三派を繰り出した。

珊瑚丘陣地正面には米海兵隊第1連隊第1大隊が上陸を試みた。日本軍守備隊は必死の防戦で米軍の進撃を食い止めたが、ついに08時00分、第四派が珊瑚丘陣地付近に着岸した。

さらに米軍は14時20分頃にクロマツ陣地とアヤメ陣地の間に橋頭堡を築き、これを手がかりに日本軍各守備陣地を突破していくのである。

「珊瑚丘陣地跡」の歩き方
市街地から南西へ5kmほど行ったところの左手に現発電所がある。この現発電所から300mほどのところで道は分岐するが、右側を進む。分岐点からさらに600mほどのところの左手に戦争博物館がある。

道の右手側、博物館の反対側方向に伸びる細い道を入る。100mほど入ったところの左手にトーチカがある。壕はトーチカの周辺に複数ある。

イワマツ陣地付近の九五式軽戦車

珊瑚丘陣地の南にはイワマツ陣地が築かれていた。この陣地群には歩兵第二連隊第二大隊第五中隊が配置されており、イワマツ陣地にも1個小隊が布陣していた。ここには「九五式軽戦車」が遺されている。

車両はほとんどが土中に埋まっており、わずかに転輪部分のみが地表に出ている。

ペリリュー島を守備していた第十四師団には、直轄の第十四師団戦車隊(天草戦車隊)が17両の「九五式軽戦車」を保有していた。

昭和19年(1944年)9月15日の05時から上陸作戦が開始されたが、14時頃にはクロマツ陣地とアヤメ陣地の間に米軍の橋頭堡が築かれつつあった。これに対し、天草戦車隊は米軍を海に追い落とすべく橋頭堡に突撃をかけた。

しかし米軍はすでに多数の戦車を揚陸しており、米海兵隊員も対戦車兵器(バズーカ)を装備しており、反撃は失敗、日本軍戦車は全て破壊された。

この車両は戦闘終了後に米軍によって埋立処分されたものと思われる。長年の風雨によって土が流れて一部が露出したのであろう。なお、ペリリュー飛行場滑走路の脇にも1両の「九五式軽戦車」が置かれている。

戦車本体の付近にも関連部品らしきものが散らばっている。これは転輪のうちの一つのようである。

航空機の翼の一部のようにも見えるが、詳細不明である。

「イワマツ陣地付近の九五式軽戦車」の歩き方
市街地から南西へ5kmほど行ったところの左手に現発電所がある。この現発電所から300mほどのところで道は分岐するが、右側を進む。分岐点からさらに600mほどのところの左手に戦争博物館がある。 博物館から700mほど行った右手(海岸側)に細い脇道があるので、ここを入る。

脇道の両側はジャングルとなっている。脇道を50mほど入ったところから右手側のジャングルに入る。ジャングルを100mほど行ったところに戦車がある。なお、道のようなものはなく、足場は悪いので注意が必要出る。

なお、ジャングルの中は目印になるようなものがなく、見つけるのは困難である。GPSを持ち歩いていれば見つけやすいだろう。
(N:07°00′05.34″ E:134°13′27.25″)

オレンジビーチ、米第81師団記念碑

オレンジビーチは米軍主力が上陸した場所である。米軍上陸部隊第一波が100mまで近づいたとき、日本軍陣地から猛烈な射撃が加えられた。米軍がオレンジビーチと名付けていたこのビーチは、皮肉にも米兵の血でオレンジに染まった。

日本側はオレンジビーチ北側にクロマツ陣地、南側にアヤメ陣地と名付けた陣地を築いていたが、両陣地の間に空いた約900mの間隔が防御上の弱点であった。ここにねじ込むように米海兵第1師団第5海兵連隊第3大隊が橋頭堡を築き、ここを突破口として日本軍の水際防御を崩していくのである。

オレンジビーチ、米第81師団記念碑オレンジビーチ、米第81師団記念碑オレンジビーチのすぐ内陸に米第81師団の記念碑がある。塔が2つある。

塔には猫のマークの入ったプレートがはめ込まれている。これは第81師団のニックネームであった「ワイルドキャット(野良猫)」を意味する。

第81師団は昭和17年(1942年)に編成されて訓練を行い、昭和19年(1944年)6月に一旦ハワイに移動したのち、アンガウル島を攻略した。その後、戦傷者が続出していた第1海兵師団を援護するためにペリリュー島に送られた。

オレンジビーチ、米第81師団記念碑オレンジビーチ、米第81師団記念碑二つの塔の間には「USA」という文字をかたどった植え込みがある。

中央には白い十字架がある。鉄カブトが乗せられており、その横に小さい星条旗が置かれている。米軍兵士の遺族が慰霊に来た際に供えたものであろう。なお、鉄カブトは十字架に取り付けられているものではなく、取り外すことができる。島内で発見された装備品を誰かが乗せたのであろうか。

当時この場所は米軍が戦死者を暫定的に埋葬していたようである。なお、遺体は後に掘り起こされて本国に還されたそうである。

近くには建物跡のようなものがあるが、詳細不明である。

第81師団はペリリュー島の戦いのあとニューカレドニアで休暇と訓練を行った。昭和20年5月17日に戦闘のほぼ終わっていたレイテ島に上陸し、終戦後は青森県に進駐した。

「オレンジビーチ、米第81師団記念碑」の歩き方
ペリリュー飛行場南端から西へ抜ける道を行くと、100mほどで舗装路に出る。ここを右折(北へ)して50mほどのところの左手にある脇道を入る。

この脇道には「81th INFANTRY」の看板が掛けられているが、ネジが外れているためか逆さになっている。脇道を100mほど入ったところに記念碑が、さらに100mほど行くと海岸に出る。

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