南地区陣地群の戦跡一覧
高崎湾のトーチカ、九四式三十七粍速射砲
ペリリュー島南端東側に突き出た中崎の北の湾は、当時高崎湾と呼ばれていた。これは、この地に布陣した歩兵第十五連隊の編成地が群馬県高崎市であったことに由来する。
海岸線のすぐ内側のところに、比較的大きなトーチカが遺されている。トーチカは珊瑚の岩で覆われ、一見するとただの小山のようにしか見えない。
米軍が上陸したペリリューの西海岸の南側の陣地は、千明武久大尉率いる歩兵第十五連隊第三大隊(千明大隊)が守備していた。高崎湾は千明大隊の布陣していた陣地の背後にあたる場所であり、このトーチカは千明大隊の本部が置かれたところに近い場所にある。
トーチカの背後、内陸側に入口がある。
米軍は高崎湾には上陸せず、ペリリュー島西岸から上陸を行った。千明大隊の正面には米海兵隊第7連隊第1大隊、第3大隊が上陸した。海岸に築かれた橋頭堡から、徐々に内陸にその地歩を固め、米軍は上陸初日に飛行場を制圧した。
上陸二日目には一気に高崎湾まで進出し、このトーチカ周辺もそのあたりで米軍の支配領域に入ったと考えられる。千明大隊の残存将兵はペリリュー島南側の中崎と南岬に取り残され、上陸三日目に全滅した。
トーチカは円形をしており、各銃眼は砲が使えるサイズのようである。また、外側には鉄製のシャッターが取り付けられ、射撃時以外は砲が露出しないようになっていた。
銃眼の内側にはシャッターを開閉するためのワイヤーを通す滑車が遺されている。
円形のトーチカの中央にはコンクリートで囲まれた小部屋がある。トーチカ内に備蓄している弾薬などが敵の攻撃で誘爆しないように、中央に配置して厳重に保管していたのであろうか。
この中央の小部屋の上の天井部分に丸い孔が開けられている。恐らくトーチカの上にまで通じており、外部を監視できるようになっているものと思われる。
トーチカの右手に「九四式三十七粍速射砲(94式37mm速射砲)」が置かれている。千明大隊は「37mm速射砲」を含め速射砲11門、野砲17門、高射機関砲1門を装備していたが、これらは米軍上陸正面となったペリリュー島西側の陣地に配備されていたと考えられる。
この速射砲の由来は不明であるが、戦後に別の場所からここに運ばれたのであろうか。
本砲が制式採用されたのは昭和9年(1934年)であり、昭和14年(1939年)のノモンハン事件ではソ連軍戦車に対し相応の戦果を上げた。しかし、各国戦車の装甲は年々強化され、大東亜戦争開戦後に対峙した米軍の「M3軽戦車(スチュアート)」の装甲は、80mの至近距離から側面を狙っても貫通できなかったようである。
ペリリュー島の戦いでは、さらに装甲が強化された「M4中戦車(シャーマン)」が投入された。しかし、日本軍の機材更新は進んでおらず、旧式となった「九四式三十七粍速射砲」は終戦まで苦しい戦いを続けることとなった。
「高崎湾のトーチカ、九四式三十七粍速射砲」の歩き方
ペリリュー飛行場南端から東へ300mほど行ったところのT字路を右折する。T字路から200mほど行くと、左手に脇道があるので、ここを入る。
50mほど行ったところにトーチカがある。トーチカの右手側(南側)に速射砲が置かれている。
零式艦上戦闘機(零戦)
ペリリュー飛行場南端からサウスドック方面へ行く道沿いのジャングルの中に、「零式艦上戦闘機(零戦)」が遺されている。機体はコックピットの後ろから尾翼部分は残っていない。米軍上陸時にはペリリュー島の日本軍航空戦力は既にほとんど失われており、「零戦」が8機あるのみであった。
機首のエンジンやプロペラは残っていない。
機体は車輪を出した状態となっている。つまり、この機体は撃墜されたものではなく、地上に駐機している状態で撃破されたものであることが分かる。車輪のサスペンション部分のステンレスは今も銀色に輝いている。
当時のペリリュー島で撮影された零戦の写真がある。機体整備中であったのか、車輪は出た状態でエンジンは取り下ろされており、この残骸とよく似た状態である。しかし、写真では尾翼に機体番号が読み取れるが、残骸では尾翼が失われているために同一の機体かは確認ができない。
コックピットの風防ガラスの骨組みはよく残っている。
コックピット内部である。計器類や操縦桿は取り外されているが、配管のような細いパイプなどがあるのが分かる。
「零式艦上戦闘機(零戦)」の歩き方
ペリリュー飛行場の南端の交差点からサウスドック方面へ100mほど行ったところの左手側である。
「零戦」は道から10mほどのところにあり、注意深く見れば道からも見えている。
水陸両用トラック
米軍の水陸両用トラックである。そこそこの大きさがあるが、草木に完全に覆われてしまっている。
型式等は不明である。
車輪部分である。車両の形をした「LVT」と違い、どちらかというと船に近い形状をしている。ここにはゴムのタイヤがはまっていたようである。
装甲などはないようである。ある程度支配を確立したところで、港湾設備がないところなどに物資を輸送するために使われたものではないだろうか。
「水陸両用トラック」の歩き方
ペリリュー飛行場の南端の交差点からサウスドック方面へ300mほど行くと、ペリリュー平和記念公園方面へ続く道と分岐する。この三叉路を越えて50mほど行ったところに脇道がある。この脇道との交差点の南側にある。草に覆われているが、車体が大きいので比較的見つけやすいだろう。
サウスドックの船着場からは300mほど手前の位置となる。
サウスドックの桟橋跡
島の南西にはサウスドックがある。このドックはダイビング用の船が使うほか、アンガウル島への離発着に使われているようである。ここには米軍がペリリュー島を占領後に物資揚陸のために作った桟橋が遺されている。
桟橋は3つあるが、最も手前のものはほとんど崩落している。
二つ目の桟橋である。桟橋は長さ25m、幅10m程度である。
桟橋は元々鉄骨造りであったようだが、現在は上に土が覆いかぶさり、木が生い茂っている。
先端部分には元の鉄骨の部分がむき出しとなっている。
桟橋の下にもぐり込んだところである。傷みは激しい。
「サウスドックの桟橋跡」の歩き方
ペリリュー飛行場南端の交差点から南西に500mほどのところにT字路が二つある。ここを直進するとサウスドックに出る。
二つ目のT字路を左折して100mほど行くと右手に脇道があり、ここから桟橋跡に行くことができる。
無名島の飛行機の残骸
ペリリュー島南西にあるサウスドックの対岸にペリリュー島と陸続きになった小さな島がある。当時ここは「無名島」と呼ばれていた。ここは米軍のゴミ捨て場となっていたようで、飛行機の残骸が散らばっている。
それぞれ損傷が激しく、バラバラになっているので、機種等は不明である。これは飛行機の胴体と付け根部分の主翼のようである。
主翼の桁のようである。
空冷エンジンのようである。
機首部分であろうか。空気取り入れ口のようなものが見える。
外板の一部のようである。
「無名島の飛行機の残骸」の歩き方
ペリリュー飛行場南端の交差点から南西に500mほどのところにT字路がある。ここを直進するとサウスドックに出る。 このT字路を左折し、300mほどのところにあるT字路を右折したところが無名島である。
無名島は三角形をしており、中央が池のようになっている。この無名島を左回りに歩いていったところに残骸が散らばっている。ちょうどサウスドックの対岸あたりの場所である。
中崎
ペリリュー島南部東側の海に突き出た半島は、当時中崎と呼ばれていた。昭和19年(1944年)9月15日にペリリュー島西岸に上陸した米軍は、当日に飛行場付近まで進出し、中崎は日本軍司令部との連絡を絶たれ、完全に分断された。中崎から北側の高崎湾を臨む。
ペリリュー島西岸の南側陣地を守備していた千明大隊は米軍上陸部隊に圧迫されて後退し、1個小隊規模の将兵が中崎に取り残された。17日、ここに米第7海兵連隊第3大隊が攻撃を加え、千明大隊の残存将兵は必死の防戦でほぼ半日持ちこたえたが、13時20分頃に力尽きて全滅した。南側の南湾である。
「中崎」の歩き方
ペリリュー飛行場南端の交差点から600mほどのところのT字路を左折する。T字路から700mほどのところで三叉路に出る。ここを直進して100mのところのT字路を右折する。
T字路から500mほどのところで中崎の狭隘な細い地形のところに出る。ここから北に高崎湾、南に南湾が臨める。
ペリリュー平和記念公園(PELELIU PEACE MEMORIAL PARK)
ペリリュー島南端はペリリュー平和記念公園として整備されている。ここからはアンガウル島が望める。
ここには「西太平洋戦没者の碑」という大きな碑が建てられている。これは1985年にパラオ共和国政府の協力のもと、日本国政府が建てたものである。
碑には「さきの大戦において 西太平洋の諸島及び海域で 戦没した人々をしのび 平和への思いをこめて この碑を建立する」と刻まれている。
公園は海が見渡せてのんびりとした雰囲気である。ベンチが何台か設置されている。
「ペリリュー平和記念公園(PELELIU PEACE MEMORIAL PARK)」の歩き方
ペリリュー飛行場南端の交差点から600mほどのところのT字路を左折する。T字路から700mほどのところで三叉路に出る。ここを右折する。
あとは1kmほど道なりに行った終点のところが公園となっている。