ルバング島での戦い
小野田寛郎は大東亜戦争開戦時に上海で商社マンとして働いていた。昭和17年(1942年)に召集され、転属等を経て情報将校を養成する陸軍中野学校二俣分校に入学した。二俣分校は特にゲリラ戦術や破壊工作に特化した教育機関であり、英語と中国語に堪能であった小野田は語学の才能を買われたのである。
レイテ島が米軍に制圧され、首都マニラのあるルソン島にも上陸が始まる直前の昭和19年(1944年)12月、小野田は少尉としてルバング島に着任した。ルバング島はマニラ湾の入口に位置しており、連合軍艦艇や航空機の状況が一目で分かる重要な場所であった。
当時、日本軍人は「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」と教育されていた。しかし、小野田が着任時に命じられたのは、玉砕せずに生き残って任務を続けることであった。組織的抵抗終了後も後方撹乱し、日本軍反攻時に情報提供を行うためであった。
博物館の一角に小野田が当時使用していた品々が展示されている。
昭和19年(1944年)2月28日、ルバング島にも米軍が上陸した。猛烈な艦砲射撃による支援を受けた約1個大隊との戦力差は圧倒的であり、日本軍守備隊は瞬く間に壊滅した。
フィリピン諸島では昭和20年(1945年)春頃に組織的が終了したが、生き残った日本兵はフィリピン各地で山岳地帯に潜んでゲリラ戦を展開していた。その後、8月に終戦を迎えると、日本兵は投降命令を受けて次々と日本への帰還を果たした。
しかし、小野田少尉の下には投降命令が届かなかった。同じく終戦を知らなかった部下の赤津勇一一等兵、島田庄一伍長、小塚金七上等兵と共に戦いを続けることになったのである。一方、日本では小野田は死亡したものとして1945年9月に戦死公報が出された。
小野田少尉は「三八式歩兵銃」と「九九式小銃」を保有していた。展示されているのは小野田少尉が実際に使用していた「三八式歩兵銃」である。長期間に渡る使用のためか、傷だらけである。
赤津一等兵は1950年に投降し、これによってルバング島に残留日本兵が生存していることが明らかになった。しかし、当時のフィリピンは政情不安定であったため、救出活動は行えなかった。
1954年、フィリピン警察と銃撃戦になり、島田伍長が射殺された。
フィリピン政府は島田伍長の遺体を確認し、これを受けて捜索隊の入国を許可した。捜索隊は小野田少尉を発見できなかったが、戦争が終わったことを知らせるために雑誌、新聞などがジャングルに残された。
これは小野田少尉の目にも留まることとなった。しかし、小野田少尉は二俣分校で欺瞞工作や謀略に乗らないように教育を受けており、このために記事等は米軍に偽造されたものと考え、終戦を信じなかった。
小野田らは野生の牛を捕らえたり、椰子の実を収穫して食料としていた。
日本への帰還
小野田少尉は米軍のレーダーサイトを襲撃するなど、百数十回もの戦闘を展開し、30名以上の軍・警察関係者を殺傷した。弾薬は島内に遺棄された戦闘機用の7.7mm弾を九九式実包の薬莢に移し替え、「九九式小銃」の弾として使っていた。
小野田少尉らはラジオを手に入れ、短波放送を受信して日本の情報を得ていた。着任時に日本軍が本土決戦で敗退した場合、満州に転進し、亡命政権を立てた上で反撃を狙う、と説明されていた。そのため、日本本土にはアメリカの傀儡政権ができていると考えていた。ラジオのようにも見えるが詳細不明。
1972年に小塚上等兵がフィリピン警察との戦闘で死亡した。遺体が確認され、小野田少尉がまだ生存していることが判明し、厚生省は大規模な捜索隊を派遣した。
捜索隊には小野田少尉の兄も参加していた。小野田少尉は密林の中で兄の姿を見たが、アメリカの傀儡政権に強制されての行動と推測し、姿を隠した。
1974年2月20日、一連の捜索を知った冒険家・鈴木紀夫が接触を狙ってルバング島でテントを張って野営していたところに、小野田少尉が現れた。鈴木は投降を勧め、小野田少尉は直属の上官の命令解除があれば投降に応じるとした。鈴木がこのときセルフタイマーを使用して撮影した写真である。
3月9日、小野田の上官であった谷口義美元少佐がルバング島を訪れ、直接小野田少尉に任務解除を命じた。小野田少尉は谷口に収集していたレーダーサイトの情報を報告し、その任務を終えた。その報告は極めて詳細で正確であったという。
小野田はその後フィリピン軍基地に出頭したが、このとき処刑される覚悟であったという。小野田は降伏の意思を示すために、軍人の証である軍刀をランクード空軍司令官に渡した。司令官はこれを一旦受け取ったが、そのまま返して「この軍刀は軍隊における忠誠の見本である」と小野田を賞賛した。
数日後に投降式が行われ、マルコス・フィリピン大統領も出席した。ここに30年に渡る小野田にとっての大東亜戦争はついに終戦を迎えたのである。
終戦後の戦闘行為は本来フィリピン刑法によって罪に問われるところであったが、フィリピン政府は小野田にとっては戦争は継続中であったとして恩赦を与えた。こうして小野田は同月12日に日本への帰国を果たした。
日本兵発見を報じる当時の新聞の切り抜きである。「はぐれた日本兵、30年後に降伏」などの見出しが付けられている。
小野田が帰国後にランクード空軍司令官に宛てて書いた手紙が展示されている。
帰国後、小野田は一躍時の人となった。しかし、昭和20年(1945年)で時が止まっていた軍人にとって、日本は変わり過ぎていたようである。帰国時に「天皇陛下万歳」と叫んだことなどに対し、一部のマスコミは「軍国主義の亡霊」などと小野田をバッシングした。
日本社会の居づらさを感じた小野田はブラジルへ渡った。何もないところからのスタートであったが、小野田はそこで牧場を切り開いて成功させた。密林での経験を元とした講演なども精力的に行っていたが、2014年に肺炎のために91歳で死去した。
九二式重機関銃
昭和14年(1939年)に制式採用された「九二式重機関銃」である。支那事変から大東亜戦争終戦まで各戦線で広く使用された。生産数は約45000丁と多く、東南アジア・太平洋地域を中心として多く遺されている。
当時陸軍は口径6.5mmの「三年式機関銃」を使用していたが、各国の重機関銃と比べて威力不足が目立ってきていた。「九二式重機関銃」は口径を拡大し、7.7mmとされた。
銃把は折りたたみ式ハ字型銃把であり、押金式である。満州などの極寒地においてもミトンの厚手手袋を装着したまま射撃できる工夫がされていた。銃把の右側の取っ手が失われている。
安定性を重視したために発射速度が450発/分と機関銃としては遅めであったが、命中精度が高いのが特徴であった。
小銃
「九二式重機関銃」の前に2丁の小銃が展示されている。型の詳細は不明であるが、説明板によると1丁は「スナイパーライフル」とされており、「九七式狙撃銃」と思われる。短い方は騎兵用に全長を短くした「三八式騎銃」か「四四式騎銃」ではないかと思われる。
「九七式狙撃銃」は「三八式歩兵銃」を原型とする狙撃型であり、「三八式歩兵銃」の生産工程で銃身精度の高いものを選んで狙撃眼鏡を付すなど改造したものである。
小銃小銃「三八式騎銃」は元々騎兵が使いやすいように「三八式歩兵銃」の全長を約300mm短くしたものである。取り回しが便利になり、騎兵だけでなく砲兵、工兵、輜重兵、憲兵、通信兵、機甲兵、飛行場警備兵などでも使われた。
「四四式騎銃」は「三八式騎銃」に取りたたみ式の銃剣を備えたものである。この銃では脱落したのか元から付いていなかったのか、銃剣を取り付けていたらしい部品は見当たらない。
砲弾類
砲弾類が展示されている。
ニノイ・アキノ国際空港付近にあったNichols Fieldから発掘された36cm砲である。艦砲を取り外して沿岸砲として設置されたものであると推測されている。
同じくNichols Fieldから発掘された21cm砲弾である。型式等は不明である。
同じ型らしきものが5個ほど並べられている。
九六式軽機関銃
昭和13年(1938年)に制式採用された「九六式軽機関銃」である。この銃は日本軍の地下弾薬庫から新品の状態で発見されたものである。銃身部には放熱用のひだ(フィン)が取り付けられているが、それでも連続発射直後は銃身が過熱してしまうため、銃身中央に持ち運び用の取っ手が取り付けられている。
口径は6.5mmである。また、銃口には「三十年式銃剣」が取り付けられるようになっていた。しかし、「軽」機関銃と言っても重量は10.2kgあり、銃剣突撃は非実用的であったと思われる。
前式の「十一年式軽機関銃」は給弾機構が複雑で故障が多かったため、装弾数30発のバナナ型の箱型弾倉を採用された。これにより、故障率は大きく下がった。「九六式軽機関銃」は各地の博物館でガラスケースの中に入れられていることが多いが、本銃は間近で見ることができ、機関部の中を覗きこむことができる。
銃身の上部には弾倉が取り付けられるため、照準は銃身左側に取り付けられた。
十四年式自動拳銃
大正14年(1925年)に制式採用された「十四年式自動拳銃」である。撃発方式はストライカー方式であり、撃針がバネの力で雷管を叩く方式であった。この形式では銃把に撃鉄発條(ハンマースプリング)などを内蔵する必要がなく、手の小さい日本人にも握りやすい細身の銃把となった。
弾倉が取り外されている。「十四年式拳銃実包(8mm南部弾)」を使用する自動式拳銃であり、装弾数は弾倉に8発、薬室に1発であった。
九四式拳銃
昭和9年(1934年)に準制式採用された「九四式拳銃」である。下士官兵用の官給品として採用されたものではなく、将校用の小型護身用拳銃であった。設計は南部銃製造所である。
陸軍制式採用である「十四年式拳銃実包(8mm南部弾)」を使用することにより実包の互換性を高めた。その小ささから将校、戦車兵、航空隊などの特殊兵科で盛んに使用された。「九四式」の刻印が読み取れる。
その他拳銃
コルト44口径リボルバーである。米陸軍の将校などが使用していたようである。
連合軍がフィリピンの抗日ゲリラ支援のために空中投下した拳銃である。簡素な造りでコスト安で製造できたが、粗悪で暴発事故が多く余り使われなかったようである。
ジオラマ
昭和16年(1941年)12月10日の台湾の高雄、台南の陸上攻撃機部隊による攻撃を受けるZablan飛行場を再現したジオラマである。真珠湾攻撃の報を受けた米航空隊は朝から戦闘機を上空に上げて警戒していた。しかし、台湾南部で濃霧が出たために陸攻隊の出発が遅れたことが幸いし、米軍戦闘機が給油のために地上に降りたタイミングでの到達となり、多くの米軍機が地上で破壊された。
慌てて対空陣地の配置に就く兵士の様子が再現されている。
P-51D(マスタング)
米陸軍の陸上戦闘機「P-51D(マスタング)」である。昭和18年(1943年)12月に運用開始された陸上戦闘機であり、最高のレシプロ戦闘機と評価されている。「D型」は「P-51」の決定版であった。
この機体は1952年にフィリピンのBasa飛行場に納入された機体である。1953年から行われたイスラム過激派討伐に参加し、1955年に組織壊滅に追い込んだ。
本機は優れた空戦性能と航続距離を合わせ持ち、爆撃機の長距離侵攻に随伴して護衛ができた。米軍は硫黄島占領後に「P-51D」を配備し、「B-29」を護衛して日本本土上空に来襲し猛威を振るった。
優れたスーパーチャージング(機械加給)技術が適用され、高高度性能が大幅に強化されている。
その他館内展示
館内には大東亜戦争期前後の写真展示がある。これは昭和11年(1936年)に撮影されたものであり、PAAC(フィリピン陸軍航空軍)とUSAFFE(米極東陸軍)の隊員の集合写真である。PAACは当初練習機3機から始まり、昭和15年(1940年)に航空機約40機と搭乗員約100名の規模になっていたが、大東亜戦争開戦直後の日本軍の空襲によって壊滅した。
コレヒドール島上空を飛行する「九七式重爆撃機」である。
陣地風のディスプレイの中に米軍銃器が展示されている。その数はかなり多い。
「M2ブローニング機関銃」「M1918ブローニング自動小銃」「M2 60mm軽迫撃砲」などがある。
「ライト・サイクロンエンジン R-3350-30」である。「B-29(スーパーフォートレス)」に搭載された「R-3350-23」の類似型である。
このエンジンはフィリピン空軍の整備部隊での教育用として使われていた。エンジンの内部が見えるようになっている。
第二次世界大戦期の各国の航空機の模型である。
1989年に反政府勢力に対する作戦行動中に墜落した「F5-A(フリーダムファイター)」から回収された20mm機関砲である。銃身が捻じ曲がっている。
「M-67」対戦車無反動砲である。これは1989年のクーデターの際に政府軍部隊によって使われたものである。
スコープを覗き込むと、目盛りのようなものが景色に重なるのが分かる。距離などによって発射角を補正したりするものと思われる。
戦闘機コックピットのモックアップ(実物大模型)である。
計器類は写真が貼ってあるだけである。ジェット機を自在に操るエースパイロットも、初等訓練ではこのようなモックアップの中に座って操作手順などを覚えたりイメージトレーニングを行ったり、泥臭い努力を積み重ねるのである。
YS-11A
日本航空機製造社の双発ターボプロップ旅客機「YS-11A」である。大東亜戦争中に数々の優秀な航空機を開発した日本であったが、敗戦によってGHQにより航空機の製造を禁止された。1957年に製造禁止が全面解除されることとなり、国産航空機開発のために「零式艦上戦闘機(零戦)」を設計した堀越二郎などの技術者が再集結し、開発に当たった。
この機体は1971年から1993年まで大統領専用機として使われていたものである。
C-47(スカイトレイン)
アメリカ・ダグラス社の「C-47(スカイトレイン)」である。この機体は1946年にフィリピン陸軍航空隊に納入され、輸送任務に就いた。1973年にコックピットから電気制御できる機関銃が取り付けられ、攻撃機に改造された。
また、偵察・監視任務のほか、人工降雨の材料となるドライアイスなどを大気中に散布するのにも使われたようである。
「C-47」は旅客機「DC-3」の輸送機型であるが、日本は戦前に「DC-3」をライセンス生産していた。開戦後は同様の輸送機型が日本海軍によって「零式輸送機」として制式採用された。
練習機
アメリカ・ノースアメリカン社の練習機「T-6(テキサン)」である。映画「トラ・トラ・トラ!(1970年:日米合作)」では改造されて「零式艦上戦闘機(零戦)」「九七式艦上攻撃機(97艦攻)」役として出演した。
同じくノースアメリカン社の練習機「T-28(トロジャン)」である。「T-6」の後継の練習機として開発された。1960年に15機がフィリピン空軍に納入された。形状が「零戦」に似ていることから、「トラ・トラ」と呼ばれていたようである。
その他屋外展示
その他フィリピン空軍を退役した航空機が展示されている。「F-5A(フリーダムファイター)」「F-8H(クルセイダー)」「F-86D(セイバージェット)」「F-86F」「T-33(シューティングスター)」「UH-1(ヒューイ)」などのジェット戦闘機やヘリコプターである。
機関砲のようである。単装のものであるが、型式等は不明である。